60 アスクレピウス(第四部最終話)
人払いを済ませた俺の『部屋』。神の御座。奇妙な部屋。
使徒中では、最高最悪の危険因子。第十五使徒、氷騎士『ディートリンデ』が訪れた。
「やぁ、暗夜。部屋の火は消しておいたよ」
四つの耳に四つの目を持つ異形のエルフ。以前見た時は、目は二つだったような気がしたが……二人きりの今、ディートリンデは全てを隠そうとしない。
「おや、エミーリア女史と聖エルナは居ないのかい?」
「ああ、俺だけだ」
俺の想像が当たっているなら、この場にエミーリアとエルナを伴わせるのは危険だ。
「先ずは礼を言う。ありがとう。俺に出来る事があれば言ってくれ。善処する」
「それはいいよ。君と私の仲だ。そんな事より、ピアノを教えてくれないか?」
「それは構わないが……ディートリンデ」
そこでディートリンデは微笑んで、ゆっくりと首を振る。
「ディーテでいい。ディーテって呼んでくれないか」
「……」
正体を確かめるような馬鹿な真似はしない。知らない方がいい事もある。知らないフリをした方がいい。
『魔王』ディーテは四つの目を気遣わしげに下げて、俺の欠損した右手を指差した。
「また無理をしたみたいだな。でも、記憶を失うよりマシなのか? 大丈夫かい?」
「ああ、問題ない」
今の俺は、療養中の本来の身体でディーテと相対している。
その可能性は極めて低いと考えるが、万が一、ディーテと戦闘になった際、十歳のディートハルトの身体では話にならない。本来の状態とは程遠くとも、使徒として対面すべきと考えた。
ディーテは微笑った。
「怖がらなくても、私は君の敵にはならないよ」
「……」
「記憶を失ったのは歯痒いな。以前の君なら、私を警戒しなかった」
相対して分かった。
ベアトリクスと同様、この『魔王』ディーテは俺の手に負えない。
俺は胸に手を当て、静かに頭を垂れて神官として挨拶する。
「すまなかった。少し気が張っていたんだ。最近は、物騒な事が多くてな……」
「分かるよ。でも、ピアノは無理そうだね」
「あぁ、これか……」
俺は、欠損したままの右手を振った。
神力は回復している。爆発の直撃で受けた身体の傷も既に癒えた。だが、欠損してしまった右手の再生には、暫く時間が掛かるというのが実情だったが……
「……敵じゃない、か……」
そもそも、ディーテが敵であったとしたら、俺一人ではどうしようもない。対抗するには、エミーリアとエルナは勿論、ロビンたちもここに呼ぶ必要がある。総力戦に及んで尚、勝利する可能性は五分という所か。
少し考え……結局、俺は『魔王との交戦』の可能性に対する思考を放棄した。
「右手なら問題ない」
俺は『使徒』だ。人間じゃない。俺は『死神』だ。ありとあらゆるを奪う個性がある。
指を鳴らすと、虚空の闇に聖槍『運命』が出現して宙に浮く。
ディーテが敵なら、ギリギリまで見せたくなかったが、交戦の意思なしとするなら見せてしまって問題ない。
「……」
浮いたままの聖槍『運命』が、青白く輝いて存在を主張している。
アスクラピアの蛇は悪食だ。何でも喰らう。俺は、肘から先が欠損した右手を差し伸べて――
聖槍『運命』を喰った。
「へぇ……凄いな……」
その光景に刮目するディーテの前で、問題なく復元した青白く輝く新しい右手を振って見せる。
悪くない。これぞ『運命の手』。
俺は、また新しい道を一歩前に進む。新しい力を手に入れる。
「ピアノだったな」
薄く嗤って見せると、ディーテは少し怯んだように肩を竦めた。
「君は……怖いな……」
魔王が何を言う。
だが、俺の新しい右手には聖槍『運命』の特性が宿る。以前より強い自己治癒能力。邪悪な母の血が練り込まれた『運命の手』からは、誰も逃げる事は出来ない。
新しい手は、まだ少し馴染まない。剥き身の刀身のように妖しく鈍い輝きを放っている。その手には指ぬきのグローブを嵌めておく。
「弾きたい曲があるんだ。聞いてくれ」
「ああ、拝聴する」
指を鳴らして、ピアノと長椅子を喚び出す。懐から虹色に輝く硝子の小瓶を取り出してピアノの上に置くと、ディーテは興味深そうに目を眇めた。
魔王は慧眼だ。
小瓶の中身が誰かの『魂』である事に気付いたようだったが、それには構わず、俺は長椅子に腰掛ける。
「リクエストがあるんだ」
ベートーヴェンの月光。第一楽章ピアノソナタ。何処かの悪戯者は、これに思い出があるようだ。
俺は、ゆったりと鍵盤に指を掛ける。思い浮かべるのは、静かな湖面に揺らぐ銀の月。儚い月の輝きを唄うように……
ディーテは俺の隣に腰掛け、四つの目を閉じ、心地よさそうに聞いている。
やがて月光が終わってしまうと、ディーテは溜め息混じりに、うっとりとして言った。
「……素晴らしい。もっと聞きたい。でも、話したい事もあるんだ。弾きながらでいい。聞いてほしい……」
どうやら、魔王は自分語りがしたいようだ。
俺に以前の記憶はないが、おそらく、魔王は、こうする事が初めてじゃないのだろう。ともすれば、ピアノの音に掻き消されてしまいそうなか細い声で話し出した。
◇◇
四つの目。四つの耳。父も母も顔など知らぬ忌み子。可哀想なエルフ、ディートリンデの物語。
化物、怪物、ありとあらゆる種類の蔑みという呪詛の言葉を子守唄にして育ったディーテは、世界のあらゆる物を憎んだ。
――ありふれた物語だ。
魔王の誕生には気が利いた皮肉じゃなく、ありふれた悲劇があればいいようだ。その苦労話は、俺の興味を惹かない。
やがて、魔王ディーテは氷の大深層にて勇者アウグストとの決戦に臨むが敗死。
「全てが憎かった。何もかも凍らせて、永遠の時の中に閉じ込めてやりたかった……」
だが勇者アウグストの前に敗れ去り、魔王ディーテの淋しい魂は煉獄を流離う。
煉獄とは魂を浄化させる場所だ。その魂が浄められるまで苦痛が続く。
「……母が現れなかったら、私は今でも彼処にいただろうな……」
さて、母がディーテに慈悲を掛けた事は知識としては知っているが、第十五使徒『氷騎士』ディートリンデの正体が『魔王』であるなら、それは色々と意味を持つ事になる。
「……アウグストたちは、お前の正体を知っていたのか……?」
「さあね。嫌いだし、会わないようにしていたよ」
俺が笑いに肩を揺らすと、ディーテは困ったものを見るように口をへの字に曲げた。
「……私の話は、お気に召さない……?」
「ああ、泣き言に興味はないな……」
「やれやれ……君は変わらないな。そういうとこだぞ。エルナが君を嫌うのは……」
「俺にエルナのご機嫌伺いをしろと? 冗談も休み休み言え」
同情は役に立たない。後悔は尚更役に立たない。
「暗い話なら、他所でやれ」
「……」
怒った訳じゃないが、突き放されたディーテは、すっかり臍を曲げて黙り込んでしまった。
鈍いエルナはどうだか知らないが、エミーリアはディーテの正体に気付いている。アウグストらも、おそらくそうだ。
かつての仇敵が、母に使徒として召し上げられた時のアウグストらは何を思ったのだろう。
俺には、あの邪悪な母の考えは分からない。だが、その大きな慈悲がディーテを救った。世界の危機であった魔王はもう存在せず、時には気さくに人間の召喚に応じる気位の高い使徒がいるだけだ。
誰もが許さぬ存在を赦した。これも、母の『神性』というやつだ。
「……」
俺は短く鼻を鳴らした。
この俺が仕える神だ。魔王の一人や二人、許すぐらいの懐の深さがなきゃ困る。
ディーテは、むすっとして言った。
「気に入った異性には、昔語りを聞かせるものなんだ。そこの所を斟酌してもらいたいな」
「……心当たりがない。実は、そこを不気味に思っている……」
俺が用心深く言うと、ディーテは呆れたように溜め息を吐き出した。
「アウグストを無常に叩き込み、ギュスターブとローランドを殺した。エルナだけは生かして逆印の咎を負わせた所まで、君は、全部が全部、私のお気に入りだよ」
どうやら、魔王は勇者パーティが大嫌いなようだ。
さもありなん。
自分を殺した相手を許すほど、魔王の本性は優しくない。
笑いに咽る俺の様子に、ディーテは気分を害したのか、強く鼻を鳴らして席を立った。
「一つ、予言してもいいかい?」
「……」
俺は答えず、またピアノの鍵盤に指を掛けた。
魔王を見送る曲は、リストの『愛の夢』第三番。
ディーテは言った。
「君は、いずれ母に牙を剥くよ」
「……」
俺は答えない。
だが、素晴らしいと思う。『神への挑戦』が、俺という物語の終わりなら、こんなに素晴らしい事はない。
「もう一つ。これは忠告だ」
ディーテは、ピアノの上に置いたままの硝子の小瓶を指差した。
「それが生き返る時、君は死ぬ。あまり深く関わらない事をお勧めするよ」
「……」
俺は答えない。
奇跡には、それなりの代償が必要だ。命を贖うのは命しかない。それがディーテの忠告の真意だが、愛が見せる夢を、もう一度見てみたいと思う俺がいる。
「本当は、ここまで言わないんだ。でも、君は私のお気に入りだからね。今日は、もう帰る。また会おう」
最後に、ディーテは言った。
「じゃあね、アスクレピウス」
「……」
俺は進む。
迷う間もなく、ひたすら前へ。その姿はいずれ……時が幼子を大人にするように、親たる母に似て……
いつだって、俺は俺で居ようと思う。
その俺の手が、いつか神を捕まえる。
それだけだ。
◇◇
――某日。
冷たい銀の月が掛かる夜だった。
「第十七使徒『暗夜』。召喚に応じて参上した」
足下を見ると血で綴られた特殊な召喚陣があり、俺はその召喚陣の上に立っていた。
「……」
一歩も動けない。どうやら、『天使封じ』の呪が掛けられているようだ。
俺はいつものように胸を張り、腰の後ろで手を組んで辺りを見回す。
眼の前には、白い神官服を着た銀髪に青い瞳の青年が居て、現れた俺の姿に、恐怖からかガチガチと歯を鳴らしている。
俺は嗤った。
「よお……ディートハルト・ベッカー……!」
周囲は銀の甲冑に身を包む騎士たちに囲まれていて、皆、燃える日輪を背負う外套を纏っている。
やがて、何処からか血腥い風が吹く。
『天使封じ』の呪は、高貴な『聖者』の血で綴られている。他の使徒なら動けなかっただろう。
だが……
この俺が、そんな明確な弱点に何の策も打たないようなヤツだと思っていたのだろうか。
――ガッカリだ。
死神を殺したいなら、もっと趣向を凝らして欲しかった。
思えば……俺は、ディートハルトに多くの物を貸している。そろそろ返してもらわねば、割に合わないと思っていた所だ。
さて、夜遅く眠らずにいるのは、困窮と悪徳だけだ。
そんなものに、俺は死神として挨拶する。
「さあ、誰から死にたい?」
これにて『アスクラピアの子』第四部 青年期使徒編、終了でございます。
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