59 死神『暗夜』4
――奇妙な部屋。
俺がエルナと共に帰還して、数日が経過した。
崩壊寸前まで身体を痛めた俺は、使徒としての身体を回復の為に眠らせ、今は十歳のディートハルト・ベッカーの身体を使っている。
精神的にも疲れたし、俺も眠ってしまいたかったが、そういう訳にも行かない。
眼の前のソファに、黒いロングコートを着込んだベアトリクスが座っている。
「クラウディアは殺った。次はお前の番だ」
「ああ……分かってる。だが、今すぐという訳には行かん。お前の左目は完全に欠損している。新しい目を作る必要がある。暫く待て」
「……」
ベアトリクスは、俺の言葉に満足したようだ。ニヤニヤ笑っている。
「新しい目を作る為に、お前の細胞が必要だ。採取するが、いいか」
「幾らでも。それより、いい形になったな。ええ、おい」
俺は激しく舌打ちした。
「本当は、俺も眠りたかったんだ。お前の治療の為に、こんな様になってまで起きていてやってるんだ。誂うなら帰れ」
「冗談だろ。そうムキになるなって」
逆印があるベアトリクスは、如何なる回復の術も受け付けない。俺の身体が神力の出力が落ちる子供の身体でも問題ない。
俺は苛々して言った。
「……お前、色々と薬を使っているな。入院しろ……」
「あぁ、悪いとこ、全部治してくれるって約束だったな。そこまでやってくれるとは思わなかったぜ」
恐らくだが、ベアトリクスは複数種の麻薬を常用している。それを見抜いた事も気に入ったのか、ベアトリクスの笑みは止まらない。
「いいな、お前。思ったより使えそうだ。次は私の部屋に来いよ」
笑っていられるのも今の内だ。
俺は手を打って、ポリーとアニエスを呼び付けた。
「ポリー! アニエス! 『入院』だ!」
以来、ポリーとアニエスとゾイは俺の部屋に留まり、助手として尽くしてくれている。
この殺し屋も、暫く入院させて管理すれば、もう少し人間らしくなるだろう。
だが……
全ては誤魔化しにしかならない。『ベアトリクス』というパーソナリティは、いずれ限界を迎える。人間の精神は悠久に耐えられるように出来てないのだから。
◇◇
エミーリアとエルナとは、改めて話し合いの場を持った。
アウグストは――
『勇者』アウグストは、世界に災厄をばら撒きたかった。
使徒として召し上げられて三百年。アウグストは、人間に見切りを付けていた。
エルナは言った。
「因果応報。アウグストを裏切ったのは人間です」
ギュスターブも似たようなものだ。
魔王討滅を経て、故郷ノルドラインに帰った彼を待ち受けていたのは妻子の訃報だった。
天啓を経て魔王討滅の旅に出たギュスターブを、ノルドラインの寺院は援助しなかった。妻子は困窮し、その果てに死んだ。
「ギュスターは、強い責任を感じていました」
妻子の名もなき墓標は、石が積み重ねられていただけだったという。
エミーリアは語る。
「……母は、完全な存在じゃない。アウグストとギュスターの事には、酷く胸を痛められた……」
魔王を討滅した二人の英雄の行く末がこれでは、あまりに救いがない。
以後、アウグストとギュスターの故郷では、聖者や聖女はおろか、第三階梯以上の神官すら生まれた事がない。未来永劫、許されない。それだけの事をしたというのがエミーリアの解釈だ。
「年々、高位神官の数は減ってる」
そう言って、エミーリアは首を振った。
「……母は、人間と世界そのものに倦んでおられる……」
魔王ディーテの討滅を経て、強い癒やしの力を持つ『アスクラピアの子』は数を減らしつつある。
これは、この世界の人類に下された明確な『罰』だ。アウグストとギュスターブを不当に遇した重すぎる罰だ。
俺は、深く長い溜息を吐き出した。
「……そうか……分かった……」
おそらくだが……母は、アウグストらを憐れんでいた。自らアウグストたちの背信を咎めず、裁量を俺たち使徒に委ねたのは、そういう事だ。
さて、ここからは俺の想像だ。
三百年前、世界は『魔王』の誕生という危機を迎えた。その理由は分からない。母は、それに対抗してアウグストを勇者として定め、『聖剣』を与えて魔王討滅の任に当たらせた。が……
軍神は、それに否定的だった。
アウグストに『聖剣』レーヴァテインを与えたのは母だ。ギュスターブに聖槍『運命』を与えたのも母なら、ローランドに『デュランダル』を与えたのも母だ。
アルフリードの神性は、アスクラピアとは全く違う。おそらくだが、魔王が存在する戦乱の世界を望んだのだろう。
アルフリードは……魔王討滅に乗り気でなかった。
そして、この時代、勇者たるアウグストを支える『聖女』は存在しなかった。母はやむを得ず、仮初めの聖女を作るよりなかった。
母の力は偉大だが、何でも出来る全能神ではない。ここには恐ろしい苦悩と葛藤があっただろう。しかし、アウグストを援護せぬ訳には行かぬ。母は忌むべき『焼き付け』の邪法を行った。やるしかなかった。
母が造ったのだ。
エルナを忌々しい人工聖女というのは違う。だが……その聖女の力は、母が期待したものとは違った。
「ねえ、暗夜。何を考えてる……?」
そのエミーリアの言葉に、俺は首を振った。
「別に……過ぎた事だ……」
或いは……エルナが時の聖女として相応しい力と神性を持っていたなら……アウグストやギュスターブを救えたのではないか。
魔王討滅を経て運命を終えず、生きてアウグストを救済し、ギュスターブは不遇を経て尚、未来に希望を見る事が出来たのではないか。それが叶えば、ローランドの出した結論も変わったかもしれない。
全ては想像の枠を出ない。
結果はこうだ。
魔王討滅を経てエルナは力尽き、アウグストは仲間の裏切りによって果て、ギュスターブは不遇を経て世界を見限った。
そこにアルフリードが干渉した。
母への信仰とは別にして、アウグストらは人間を罰する機会を得た。そして、ローランドは強い仲間意識故にアウグストとギュスターブの意思に追従した。
歪んでいる。俺の感性では、歪んでいるとしか言えない。母は出来る限りの事をした。だが、結果だけを取れば……歪んでしまっている。
あの邪悪な母をして、世界の全てを思い通りに動かしている訳ではない。
疑問はまだある。
「アルフリードは……ヤツは、いったい何を考えているんだ……?」
エミーリアは、断固として言った。
「混沌と戦乱の世界。弱きは死に絶え、強きが生き残る弱肉強食の世界。だから、母はアルフリードを許さない。逆印の咎を与えたままでいる」
アスクラピアとアルフリード。互いに相容れぬ存在という訳だ。だとすれば……
「アルフリードの狙いは……なんだ?」
「知れたこと」
「母の討滅」
アルフリードの狙いは、アスクラピアの討滅だ。エミーリアとエルナはそう断言して憚らないが……俺は、何かが違うように思う。それが分からない。
エルナは険しい表情で言った。
「母は押されてる」
……本当に、そうか?
軍神が世界の理を弄び、邪法を用いて勇者や聖女を作り出して遊ぶのはいい。母には母の神性があるように、軍神には軍神の神性がある。俺は、『混沌』もまた神の御業と考える。
アルフリードが壊し、アスクラピアが再生する。
二つの神性が相容れぬなら、混沌もまた定め。自然な成り行きの一つ。ならば、その向こうに神々は何を夢見るのか。
俺は、それが知りたいのだ。
「…………」
深く考える俺を、エルナが上目遣いに睨み付けて来る。
「……そんな事より、暗夜。私たちには、先ずやらなければならない事があります。忘れてませんよね……」
逆印の咎を打ち破り、新たに神性を獲得して使徒に返り咲いたエルナが望むのは……ザールランドの守護騎士『アシタ・ベル』の命。
「……そうだな。やらなきゃいけない事があるな……」
その復讐を望むのはエルナだけじゃない。ゾイ、ポリー、アニエスも復讐を望んでいる。
「任せろ。派手にやってやる」
「それでこそ、お前です」
今のエルナは、愛と憎しみを兼ね備えたアスクラピアの真の聖女だ。アシタ・ベル……引いてはザールランド帝国は恐ろしい代価を払う事になるだろう。
俺が負った傷は深い。使徒『暗夜』の身体が完全に回復するには暫くの休養が必要だ。
言った。
「ついでだ。帝国には滅んでもらおう」
俺は、癒やしと復讐の女神、『アスクラピアの子』。母の本性が蛇なら、俺の本性もまた蛇だ。
死が呻く風のように嘲笑うとき。
全てが移ろい消え去る。
俺は短く息を吐く。
失ったものは多い。懐から取り出した小瓶の中を透かし見ると、それは笑うように虹色に揺れる。
エルナが不思議そうに言った。
「なんです、それ……」
「なんでもない」
……全て、俺のものだ。身も心も、その魂までも。ルシールが死神に支払った代償がこれだ。
ただ……使徒たる俺をして、これを元の姿に戻す事は不可能だ。
だが、いつの日か。
死神の手が命の謎に届いたその時は……
愛が見せる、こんな夢があっていい。
その時まで……おやすみ……
俺は祈るだけだ。
夜空に輝く銀の星が、新しい道を指し示しますように……