58 殺し屋4
血涙を流して慟哭するエルナの身体から溢れ出る神力は、以前とは比較にならない。
エルナは、本物の『聖女』として生まれ変わった。
邪悪な母が、戯れる指先で運命を回す。
流れ落ちた血涙が泪石に変わり、辺りに散らばって消えて行く。愛と憎しみとを兼ね備えたアスクラピアの定めた聖女。迸る神力が、銀の翼に変化して僅かに宙に舞う。
エルナは膨大な神力で俺を回復させるのと同時に、強く抑え付ける。
「う……くっ……」
跪きそうになる俺を支えるルシールに、エルナは悲しそうに言った。
「いつも同じ夢です……」
◇◇
赤い花の咲く木。春の花が咲き乱れる街。その街角に立つ寂しく古い家。
静かな庭で、母がお前の体を揺する。
……もう久しく前から、家も庭もなくなっている……
いまは草原に道が通じ、風が吹き抜けて行くのみ。
そこにはもう、お前の故郷も家も何もない。
母が見せる夢のほか、何も残っていない……
《送別の祝詞》
◇◇
ぱらぱらと、ルシールの身体が崩れて散らばって行く。
「…………」
血涙を流す聖女エルナの祈りによって、ルシール・フェアバンクスは世界を去る。
運命を受け入れた。
愛が見せる夢は終わった。俺は黙って見送るだけだ。
――死が二人を別つ事のないように。
俺は、また約束を破ってしまった事になる。
エルナが圧し殺した声で言った。
「……母は、復讐を是とされました……私たちには罪科を問うべき者が居ます……」
――守護騎士、アシタ・ベル。
「暗夜、お前は……本当に世話の焼ける男です……」
半ば崩壊した俺の身体を引き摺って、エルナは火の海と化した礼拝堂から袖廊へ出た。
「この教会の結界を妨害する魔道具が三つあります。先ずは、アニエスと一緒に教会を出ましょう」
「……」
早く浅い呼吸を繰り返すアニエスの身体を引き摺って、エルナは長い袖廊を進む。
エルナは言った。
「世界を救った私の名を持ったこの教会が、人間に焼かれるなんて、酷い皮肉ですね……」
その声色には、はっきりとした憎悪の念があった。以前のエルナにはなかったものだ。
「……私の娘が……三人も死にました……この怒りと悲しみを……何処にぶつければいいのでしょう……」
エルナは愛と憎しみを知った。復讐を是とする邪悪な母の定めた聖女だ。その報復は苛烈なものになるだろう。
「……暗夜。私は……お前の、その潔い所が嫌いです……」
「ぐ……」
俺は疲れに震える足を鞭打って立ち上がる。
ルシールは死んだ。
落ち込んでいたって、気分なんて湧きゃしない。こういう時こそ、己の足で立って胸を張らねばならない。
◇◇
運命の前に独り立ち、胸を張って居られる事が出来れば、こんなに誇らしい事はない。
《アスクラピア》の言葉より。
◇◇
立ち上がり、いつものように腰の後ろで手を組んで胸を張る俺に、エルナが強く鼻を鳴らした。
「……お前は、冷たい男ですね……」
ルシールの死を受け入れ、泣き言一つ口にしない俺が気に入らないのだろう。
俺は嘲笑った。
「女一人に、いつまでも拘泥して居られるか」
◇◇
愛のない者だけが欠点を克服し得る。したがって、完全足り得るには愛をなくさねばならない。
しかし――
必要以上に愛をなくすべきではない。
《アスクラピア》の言葉より。
◇◇
右手がイカれた。
それだけじゃない。今の俺は消耗甚だしい。『部屋』に帰っても、この消耗の回復と欠損した右手の再生には長い時間が掛かるだろう。
「……エルナ、油断するな。まだ終わってない……」
もし、クラウディアが絡んで居れば、絶対にこの機会を逃さない筈だ。教会から出た瞬間が一番危ない。
「本当に、嫌な男です……」
死者の為に悲しむのは後でも出来る。そんな事は、部屋に帰って幾らでもすればいい。
俺は負けない。
絶対に負ける訳には行かない。ここで油断して死ねば、ルシールも情けなく思うだろう。
「……エルナ。先ず、俺が出る。アニエスを頼む……」
「いいでしょう。ですが、クラウディアが居れば必ず仕留めなさい」
第十使徒『クラウディア』は弓使いだ。エルフィンボウから三本の矢が放たれたなら、今の俺にそれを防ぐ手段はない。だが……
「既に策は打ってある」
「……ベアトリクスですか……」
そうだ。もし、クラウディアが現れて俺を狙うとしたら、ベアトリクスがその瞬間を見逃す訳がない。
エルナは不快感を隠さずに言った。
「恐ろしいヤツ。いったい、何処までがお前の考えですか?」
「何処までもだ」
震える左手で煙草を取り出して、咥える。幸い、火は何処にでもある。
煙が目に染みて、僅かに視界が滲んで見えた。
「……悲しいヤツですね。お前は……」
「お前に同情されるなんて、俺も焼きが回ったな……」
「……相変わらず憎たらしい……」
エルナのお陰で身体の崩壊は止まったが、今の俺に戦う力は残っていない。
長い袖廊を歩みながら、俺は冷静に考える。
この教会に張られた神聖結界を弱める魔道具が三つ。だが、それだけで俺の権能を封じるには心許ない。実際、ゾイとポリーは部屋に送れた。
クラウディアが来て、途中から妨害している。少なくとも、何かがある。そして、ベアトリクスが依頼に忠実なら、この機を逃す訳がない。
エルナとアニエスを扉口に残し、俺は煙草を吐き捨てた。
ここから先はギャンブルだ。
ベアトリクスが動かなければ、俺は死ぬ。恐らくは、手勢を揃えて教会を襲撃したアシタ・ベルが待ち受けていた時も同じだ。
両開きの扉を押して、教会から出る。
その瞬間――赤い光が天から差して来て、一点を捉えた。
「……!」
その赤い光が指し示す方向に目を凝らす。俺の『闇の目』が捉えたものは……
「クラウディア……!」
かなりの距離があるが、アクアディの街にある一際高い尖塔で弓を引き絞り、俺を狙うクラウディアの姿が目に入った。
やはり。
そう思った俺だったが、天から差してきた赤い光が胸を捉え、クラウディアは訝しむように空を見上げた。
その赤い光自体は無害だ。クラウディアの胸に照準が合っている。
恐ろしい事だ。『殺し屋』ベアトリクスは、俺の手に負えない。母が飼い殺す訳だ。これを野放しにするのは、あまりに怖い。
――『P・H・A』――
宇宙移民が神殺しに備えて作った負の遺産。ベアトリクスが言うには開発途中の代物らしかったが……これは普通の銃器とは次元が違う。
俺にとって、クラウディアの持つ弓の射程距離は脅威だが、ベアトリクスの持つ『P・H・A』の射程距離は、『弓』とかいう原始的な代物など比べ物にならない。
俺は首を振った。
「さよならだ。クラウディア」
ベアトリクスは、『部屋』から……虚数空間からクラウディアを狙っている。
異変に気付いたクラウディアは、赤い光を振り払おうと手を振ったが、照準はクラウディアの胸を捉えたままだ。
――『宇宙の殺し屋』ベアトリクス。
次の瞬間、空を疾走った一筋の銀の光がクラウディアの心臓を貫き、周囲の空間ごと巻き込んで、凄まじい大爆発を引き起こした。
強烈な爆風が吹き付けて来て、俺は僅かに身構える。
何なのだ、この武器は。
別次元から狙い撃たれるとは、クラウディアも思ってなかっただろう。
アクアディの街角を一部巻き添えにして、クラウディアは消滅した。
ただ惜しむらくは、クラウディアが持っていた『フラウグ』、『フィーヴァ』、『フレムサ』という三本の矢までが失われた事だ。
あれは母が創った神器だ。
回収したかったが、これでは無理だ。悩みがまた増える。俺はこの惨状を作り出した『宇宙の殺し屋』ベアトリクスの主治医なのだ。
「……ベアトリクスは、やったようですね……」
扉口からアニエスを背負ったエルナが現れ、爆発して燃え盛るアクアディの街を見て眉を顰めた。
俺は振り返り、新しく煙草を咥えて火を点ける。
名もなき教会が燃え落ちて行く。
エルナが出て行くのを待っていたかのように、がらがらと音を立て、崩れ落ちる。
燃え盛る炎の中で見た愛の夢が、暗い夜の闇に紛れて消えて行く。
「……」
俺とエルナは、燃え落ちる名もなき教会を、いつまでも見つめていた。