57 愛の夢3
バックドラフト現象。
理屈は知ってる。気密性の高い室内で火災が生じた場合、不完全燃焼によって火勢が衰え、可燃性の一酸化炭素ガスが発生する。その時に窓や扉を開く等の行動をすると、熱された一酸化炭素に急速に酸素が取り込まれ、二酸化炭素への化学反応が急激に進み爆発を引き起こす。
辺りはたちまち火の海となった。
「……くっ」
激しい燃焼を伴う爆風の直撃を受け、黒焦げになりながら俺は生きていた。人間なら一溜まりもなく死んでいただろう。予め、神力のバリアを張って置けばよかった。尤も、何処まで耐えられるかは分からないが……
礼拝堂から噴き出した炎が一気に燃え広がり、袖廊まで火の海だ。
「暗夜……! 暗夜!」
エルナの悲鳴がやけに遠く聞こえる。
大丈夫だ。俺は第十七使徒『暗夜』。儚く脆い人間じゃない。まだ耐えられる。
礼拝堂は火の海だ。
遠くにエルナの悲鳴を聞きながら、俺は荒い息を吐き出した。
「問題ない。俺は大丈夫だ」
咄嗟に頭だけは庇ったが、瞬間的にとはいえ、爆発的に噴き上がった炎の直撃で、神官服の所々が黒焦げになって燻っている。
エルナが煤塗れになった顔を擦りながら、悲鳴を上げて駆け寄って来た。
「ば、馬鹿言わないで下さい! ああ! あああ……!」
礼拝堂から噴き出した炎が袖廊の天井まで燃え広がり、見渡す限り火の海だ。
エルナが、ぐしゃぐしゃになった泣き顔を隠そうともせず、俺の神官服を引っ張った。
「礼拝堂に、もう生きている人は居ませんっ!」
シュレティンガーの猫だ。
俺は、まだ箱の中身を見ていない。猫の生存確率は、未だ50%のままだ。
俺は小さく舌打ちした。
「確かめもせず、何を言う」
エルナが泣き叫んだ。
「壊れる! 壊れる! 使徒は不死身じゃないんです!」
「壊れる……?」
確かに無茶をやった。そして、俺は『使徒』の身体が何処までの強度を持っているか知らない。
「……」
身体を確認すると、爆発の衝撃で右腕の肘から先が消し炭のようになって欠損している。
「ふむ……これは得難い情報だな……」
どうやら、この辺が使徒の身体の限界強度のようだ。炎熱の高温と爆発の衝撃で身体が崩壊し始めた。
「感心してる場合じゃありませんっ! あぁ……あああ……!」
エルナは泣き叫びながら、崩壊を始めた俺の身体のあちこちを押さえつけるが、大丈夫だ。
「この程度は、部屋に帰ればすぐ治る。問題ない。俺よりアニエスの側に居てやれ」
俺の身体が盾になったのと物陰に居たのが幸いして、気絶したままのアニエスは、まだ炎に巻かれず済んでいる。
「すぐ追いかける。アニエスを連れて扉口の方に行け。出来るな?」
俺は、早く炎熱地獄の礼拝堂の中を確認せねばならない。
「暗夜、お前も一緒ですっ!」
煩い、しつこい。
俺は苛々して言った。
「俺の事はいい。自分の心配をしろ」
今のエルナは、ただの人間だ。そもそも逆印の咎を与え、力を奪ったのは俺だ。心配される謂れはない。
俺は、至極真っ当な事を言った。
「お前……俺の事が嫌いだろう? どうなったっていい筈だ」
そうだ。エルナにとって、俺は嫌悪と憎悪の対象である筈だ。
そう思う俺に、エルナは泣きじゃくりながら叫んだ。
「もういい! もういい……!!」
どうでもいい。俺は鼻で嘲笑った。
「そうか、結構。憎んでくれて構わない」
神力を込めた左手を鋭く一振りすると、扉口に向かって炎が割れる。
「行け、長くは保たんぞ」
「……」
エルナは瞬きすらせず、俺を見つめて動かない。
「暗夜。まだ、分からないんですか……?」
エルナが叫んだ。
「ルシールは、もう死んでるんですよ!」
俺は認めない。箱の中身を見るまで、猫の生死は分からない。
「アシタ・ベルに刺されたんです! 殆ど……即死……でした……」
「…………」
俺は認めない。それだけは、認める事が出来ない。
「嘘を吐け。ルシールは死んでない」
そうだ。ルシール・フェアバンクスは死んでない。何故なら……
「見ろ……」
顔を上げ、礼拝堂の中に視線を向けた俺に合わせてエルナも燃え盛る礼拝堂の中に視線を向ける。
「う、嘘です……なんで……」
燃え盛る礼拝堂の奥。祭壇に程近い場所に、ルシールが立っていた。
「分かったら行け、クソガキが」
俺が微笑むと、炎の中に立ち尽くすルシールは、少し困ったように微笑み返した。
分かっている。
エルナの言う通り、ルシールは死んだのだと。だが……
愛が見せる夢がある。
ルシール・フェアバンクスは妖精族の血を引いている。その身体の半分は、俺と同じ星辰体だ。俺に寄せる強い想いが、この愛の夢を見せている。
行かなければ……
俺は火の海を一歩踏み締める。まだ、ルシールに言ってない事がある。
エルナは俺にしがみつくようにして離れない。引き摺られるようにして礼拝堂に入り――
「ああっ!」
「クソガキが、言わんこっちゃない」
俺はエルナを引き剥がそうとするが、左手では上手く行かない。
「えい、クソ。離せ……!」
自らも火に焼かれながら、それでもエルナは離れない。
「よ、暗夜……あれは、ルシールですけど、ルシールじゃありません……!」
分かっている。あのルシールの姿が、愛が見せる夢だという事は。
死の砂漠では強い術を乱発し、多くの戦乙女を召喚して多大な神力を消費した。炎の中を踏み締める度に、身体が崩壊して行く。
「暗夜! 駄目! あれは幻です!!」
「やかましい」
俺は神官だ。煩いのは好かん。そして、この愛が見せる夢を見続けていたいと思う俺がいる。
漸くエルナの襟首を捕まえた俺は、力任せにエルナを引き剥がした。
「クソガキが。今のお前は、ただの人間だぞ。酷い火傷だ。とっとと離れろ」
それでもエルナは離れない。炎に巻かれ、全身に酷い火傷を負いながら、俺の左手にしがみついて離れない。
「駄目! 駄目です!」
「このガキ!」
右手が欠けて居なければ、即座に振り切り投げ捨ててやるものを。
「離せ! 離せと言っているだろう! このクソガキが!」
男にはつまらない意地が必要だ。突き通さなければならない意地がある。格好付けなきゃいけない時がある。
今がその時だ。
「ルシール! 来い! 来るんだ!」
「駄目、暗夜!!」
このまま進めば、エルナが焼け死ぬ。ルシールは静かに頷いて、火の海を歩き出した。
エルナがルシールに向かって叫んだ。
「ルシール! やめて! やめて下さい! 暗夜を惑わせないで下さい!」
俺は荒い息を吐き、その場に跪いた。
……どうやら、『使徒』の限界はここら辺にあるようだ。
疲れに足が震える。ぼろぼろと身体が崩れ出し、もうエルナを振り切る事も難しい。神力のバリアを展開して、エルナだけでも守ろうとするが、それも上手く行かない。
ゆっくりと歩み寄るルシールは、微笑っている。
あの悪戯者め、とそう思う。
「駄目ぇっ! 暗夜、壊れる! 壊れる!」
俺は物じゃないから、壊れはしない。ただ、崩れ去るだけだ。それが分からないから、エルナは本物になれない。この愛が見せる夢の中で、滅んでもいいと思う心を理解できない。
「……ルシール。クロエは……」
「…………」
その俺の問いに、ルシールは悲しそうに首を振った。
「そうか………」
クロエもまた死んだ。その最期は、もう分からない。この灼熱で、ルシールと共に燃え尽きたのだろう。
ルシール・フェアバンクスは死んだ。肉体を失った魂は自由になり、俺を想う心だけが残った。
エルナの言う通りだ。
今のルシールは、ルシールであってルシールではない。残った想いに執着する『亡霊』という表現が正しい。
全て、愛が見せる夢だ。
その愛が見せる夢の中で、溢れんばかりの笑みを浮かべるルシールを抱き寄せて口付けを交わす。
言った。
「愛してる」
男には、つまらない意地が必要だ。これが最期の言葉なら上出来だろう。満足だ。満足している。
――死が二人を別つ事のないように。
エルナが激しく叫んでいるが、その声は、俺の胸には響かない。あまりに遠い。
――終わりだ。
ギュスターブやローランドがそうであったように、身体が崩れて行くが口付けをやめない。
大丈夫だ。俺は『死神』暗夜。暗い夜を支配する嘆きの天使。
エルナは小さい手で、必死になって食い止めようとしているが、俺の崩壊は止まらない。支えた端から崩れ去る。
「壊れるな! 壊れるな!」
そのエルナの身体が、灼熱の炎の中で光を放ち出す。額に巻いたバンダナに赤い血が滲んでいる。
何処かで見た事があるような光景だ。悪い予感しかしない。
それさえも、今は、どうでもいい。
この愛が見せる夢の中で、全てが灰塵に帰す。
「……」
エルナの、ぱっちりとした瞳から、赤い血の涙が流れて頬を伝う。
そして――
「壊れるな壊れるな! 暗夜! お前壊れるな!!」
「…………」
微かに、笑う。
邪悪な母は、この瞬間も見つめている。いつだって、俺たちのする事を見守っている。
エルナの激情が爆発した。
その瞬間、額の逆印が弾け飛び、溢れ出した『聖女エルナ』の神力で周囲の炎が消え失せた。
◇◇
容易く獲得されたものに価値はない。無理をして手に入れたものだけが、晴れて意味を持つ花冠に値する。
《アスクラピア》の言葉より。
◇◇
第三使徒、聖エルナの当為は、世界を知る事だ。そこに綺麗も汚いもない。全てを知りつつ、それでも尚、世界を軽蔑しない事だ。
邪悪な母の声が、遠く俺の耳を打つ。
――お前は生き続けよ。いずれ、分かって来るだろう――
「…………」
逆印の咎を打ち破り、第三の使徒、聖女エルナが覚醒する。
世界に渦巻く愛と憎しみとを理解し、血涙を流して慟哭する真の聖女だ。
俺はまだ死ねそうにない。
愛の見せる夢が……今、終わる。