56 名もなき教会7
――アシタ・ベル。
帝国の大神官ディートハルト・ベッカーの側近を務める騎士。
『守護騎士』アシタ・ベル。
アレックスに連絡を取ってくれと要請して、それから反応がないのは気になっていたが……
修道女たち六人に、エルナも含めれば、この燃え落ちる教会に残された者は七人。
本当におかしな事だが……誰も、俺に迷う権利を許さない。
俺は指を鳴らして、ゾイを『部屋』に送った。後はマリエールたちが適切な処置をするだろう。
これで残りは六人。
今、やらなければならない事は……落ち着け……焦るな……
「……」
集中して、薄く神力を拡げて教会内を探るが、上手く行かない。妨害されている。魔道具か、それとも……
迷っている暇はない。
俺は立ち上がり、礼拝堂へ続く扉を開け放つ。
火の回りが早い。視界は白い煙で薄く濁っている。長い袖廊の向こうに、修道女が一人倒れ伏している。体格からしてポリーだが……背中に三本の『矢』が突き立っている。
煙のせいもあるが、ここから生死を見極めるのは難しい。
俺は、じくじくと痛む右手を軽く振った。『鉄』は不味い。特に純鉄は駄目だ。純鉄を掴んだ右手の傷の治りが悪い。それは、部屋に送ったゾイにも同じ事が言える。だが……
何故、こうなった。
襲撃を掛けたのがクラウディアなら、俺の不在を知った時に退くだろう。火を放ったりしない。無辜の者に手を掛けるような、こんな悪質な襲撃はしない。
怒りが胸に突き上げ、俺は吐き捨てた。
「……ニンゲンが……!」
俺は、倒れ込んだポリー目掛けて真っ直ぐに駆け出した。
ポリーはまだ生きていた。
背中から射られているが、致命傷ではない。倒れていた事が幸いした。
火災での一番の恐怖は、炎ではない。煙だ。ゾイと違って、完全に意識を失っていた事が幸いした。あまり煙を吸ってない。喉や肺へのダメージだけなら、ゾイより少ない。回復は早いだろう。
武装すらしていないポリーを、ご丁寧に純鉄の矢で背後から射っている。
「ぐ……!」
ポリーから矢を引き抜き、ゾイと同じように傷を癒して部屋に送る。右手がイカれそうだが、そんな事も言ってられない。
俺は身を屈めた姿勢で、注意深く辺りを警戒する。妨害は続いていて、何処に誰が居るか分からない。
……あと五人。
想像以上に火の回りが早い。
襲撃を受けたのは、俺が出て直ぐだろう。ここは、もう駄目だ。焼け落ちるだけだ。
煙の立ち込める袖廊で、堂々と立ち、俺は辺りを見回す。火が回る前に、全員救出する必要がある。
依然、視界は悪いが、是非もなし。
まだ襲撃者が居るなら、何処からでも来るといい。
俺は叫んだ。
「アニエス! クロエ! アンナ! ルシール! エルナ! 何処に居る!!」
その声に、柱の陰から小さな声で応えがあった。
「……暗夜……暗夜……ここ……ここです……」
「エルナ!」
エルナは口元に布を当て、立ち込める煙に咳き込みながらも無事だった。
煙を振り払い、開けた視界に映ったエルナは、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして泣いていた。
「エルナ、何があった! 何が……何が…………」
怪我のないエルナの姿に安堵した俺だったが……
「アンナ! アンナ……! 暗夜です……暗夜が帰りました……!」
アンナは、柱の陰にエルナを隠すようにして抱き締め、踞った姿勢で死んでいた。
「……」
その背中に、七本の矢が突き立っている。
「アンナ! 起きて下さいよぅ! ねぇ……! 暗夜! アンナが! アンナが……!」
……一人、修道女が死んだ。
「暗夜! アンナを治して下さい! 何でもします! 何でも……何でも……」
もう間に合わない事は分かっているのだろう。その声は徐々に小さくなり、エルナは、己を庇って死んだアンナにすがり付いて激しく泣いた。
「…………」
俺は、激しく泣きじゃくるエルナを、そのまま『部屋』に送ろうとしたが送れなかった。妨害のレベルが上がった。
「……エルナ、ここは危ない。行くぞ……」
「でも! アンナが! アンナ、私を庇ってくれたんです! アンナを置いて行くんですかぁ……」
「……分かっている。この非道は、後で幾らでも責めてくれて構わない。だが、まだ生きている者がいるかもしれない。行かなければ……」
エルナは、踞ったままのアンナと俺とを何度も見比べ、小さく頷くと、気丈に立ち上がった。
「……ごめんなさい、アンナ。少しだけ待っていて下さい。すぐ戻りますから……」
元聖女なだけはある。
死者の為になら、後で幾らでも泣いてやればいい。だが、まだ生きている者の為に、今の俺は急がねばならない。嘆いている暇はない。
エルナは溢れる涙を拭う事もせず、呻くように言葉を押し出した。
「……アシタ・ベル……!」
襲撃者は、守護騎士アシタ・ベルだ。気になるが、理由の詮索は後だ。俺は短く聖印を切り、アンナの為に短い祈りを捧げた。
「行くぞ、エルナ」
「……!」
そこで、エルナは大きく身体を震わせ。涙で濡れた顔を左右に振った。
「……どうした。何があった……?」
「……っ!」
エルナは答えず、何度も強く首を振って拒絶した。
「だ、駄目です、暗夜。お前は行かないで下さい……!」
その言葉で――俺は理解した。
「……そうか、分かった。俺なら大丈夫だ。行こう……」
後二人。部屋に送る事は、もう出来そうにないが、ここから連れ出す事が先決だ。
◇◇
エルナを庇うように肩を抱き、煙を振り払いながら進む。
「アニエス……クロエ……」
袖廊を進むに連れ、室温が上がり始めた。礼拝堂へ続く扉の隙間から白い煙が吹き出している。
バックドラフト現象が起こる可能性があったが、俺には扉を開ける以外の選択肢はない。
礼拝堂へ続く扉の前で、踞る修道女の姿が見えて、エルナが一目散に駆け出した。
「アニエス……!」
シュレティンガーの猫だ。箱を開けてみるまで、猫は生きているかどうか分からない。
アニエスは生きていた。
切り裂かれた腹部を押さえ付け、零れ落ちそうな内臓を抱えるようにして、血が出るほど強く唇を噛み締めて、生きていた。
「アニエス……! よく耐えた……」
純鉄の剣で切られたのだろう。アニエスが腹部の傷を塞ぐ事が出来ないのはそのせいだ。
アニエスには無理でも、俺なら傷を塞ぐ事が出来る。
「……神父さま……私……」
「喋るな、アニエス。頑張ったな、もう大丈夫だ」
傷を塞ぐと、アニエスは力尽きるようにして意識を失った。
エルナは、そのアニエスを抱き締めて、ぐしゃぐしゃに泣いていた。
「エルナ。アニエスと一緒に隠れていろ。礼拝堂の扉を開ける」
「わ、私も行きます……!」
俺は首を振った。
「駄目だ。バックドラフト現象が起こる可能性がある」
「ばっくどらふ……なに?」
エルナは、がしがしと袖で乱暴に涙を拭いながら首を傾げるが、この場での説明は難しい。
「簡単に言うと、扉を開けた瞬間、一気に炎が燃え広がる。そうなれば危ない。ここから先は俺一人で行く」
俺には、礼拝堂の扉を開ける以外の選択肢はない。バックドラフトが起こるようならクロエはもう死んでいるし、起こらないようなら、まだ生きている可能性がある。
「俺なら、おそらく耐えられるが、お前たちには無理だ。一瞬で焼け死ぬ」
「……はい。分かりました……」
エルナは悔しそうに唇を噛み締め、それでも頷いた。
物分かりがいいのは助かる。
「もし俺が……」
その先を言い掛けて、止めた。俺が死ぬようなら、アニエスもエルナも助からない。何が起こっても、俺だけは死ぬ訳に行かない。
この教会の、しっかりした造りが仇になった。扉の隙間から白い煙が吹き出している。礼拝堂内部は密閉空間だ。不完全燃焼の状態にあるなら、扉を開いた瞬間、熱された一酸化炭素に酸素が結び付き、爆発を引き起こし、辺りが火の海になる可能性がある。
シュレティンガーの猫だ。
箱の中に閉じ込められた猫は、その箱を開けてみるまで、生きているか、死んでいるかどうか分からない。
俺は生きている方に賭ける。危険だから扉を開けない、見捨てるという選択肢はない。
後一人。
アニエスとエルナを物陰に避難させ、両開きの扉を押すが、向こうから閂が掛かっていて開かない。押し破る必要がある。
扉を強く押す。
閂は木製だ。使徒の力なら破壊してしまえる。ゆっくりと、徐々に力を入れて行く。めきめきと閂が割れ砕ける音がして、刹那。
「……ッ!!」
俺はギクリとした。
僅かに開いた隙間から、しゅうっと煙が礼拝堂内部に流れ込んだその直後、大爆発が起こった。