表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アスクラピアの子  作者: ピジョン
第四部 青年期『使徒』編(後半)
264/310

56 名もなき教会7

 ――アシタ・ベル。


 帝国の大神官ディートハルト・ベッカーの側近を務める騎士。

 『守護騎士』アシタ・ベル。

 アレックスに連絡を取ってくれと要請して、それから反応がないのは気になっていたが……


 修道女シスタたち六人に、エルナも含めれば、この燃え落ちる教会に残された者は七人。


 本当におかしな事だが……誰も、俺に迷う権利を許さない。


 俺は指を鳴らして、ゾイを『部屋』に送った。後はマリエールたちが適切な処置をするだろう。

 これで残りは六人。

 今、やらなければならない事は……落ち着け……焦るな……


「……」


 集中して、薄く神力を拡げて教会内を探るが、上手く行かない。妨害されている。魔道具か、それとも……

 迷っている暇はない。

 俺は立ち上がり、礼拝堂へ続く扉を開け放つ。

 火の回りが早い。視界は白い煙で薄く濁っている。長い袖廊の向こうに、修道女シスタが一人倒れ伏している。体格からしてポリーだが……背中に三本の『矢』が突き立っている。


 煙のせいもあるが、ここから生死を見極めるのは難しい。


 俺は、じくじくと痛む右手を軽く振った。『鉄』は不味い。特に純鉄は駄目だ。純鉄を掴んだ右手の傷の治りが悪い。それは、部屋に送ったゾイにも同じ事が言える。だが……


 何故、こうなった。


 襲撃を掛けたのがクラウディアなら、俺の不在を知った時に退くだろう。火を放ったりしない。無辜の者に手を掛けるような、こんな悪質な襲撃はしない。

 怒りが胸に突き上げ、俺は吐き捨てた。


「……ニンゲンが……!」


 俺は、倒れ込んだポリー目掛けて真っ直ぐに駆け出した。

 ポリーはまだ生きていた。

 背中から射られているが、致命傷ではない。倒れていた事が幸いした。

 火災での一番の恐怖は、炎ではない。煙だ。ゾイと違って、完全に意識を失っていた事が幸いした。あまり煙を吸ってない。喉や肺へのダメージだけなら、ゾイより少ない。回復は早いだろう。


 武装すらしていないポリーを、ご丁寧に純鉄の矢で背後から射っている。


「ぐ……!」


 ポリーから矢を引き抜き、ゾイと同じように傷を癒して部屋に送る。右手がイカれそうだが、そんな事も言ってられない。


 俺は身を屈めた姿勢で、注意深く辺りを警戒する。妨害は続いていて、何処に誰が居るか分からない。


 ……あと五人。


 想像以上に火の回りが早い。

 襲撃を受けたのは、俺が出て直ぐだろう。ここは、もう駄目だ。焼け落ちるだけだ。


 煙の立ち込める袖廊で、堂々と立ち、俺は辺りを見回す。火が回る前に、全員救出する必要がある。

 依然、視界は悪いが、是非もなし。

 まだ襲撃者が居るなら、何処からでも来るといい。

 俺は叫んだ。


「アニエス! クロエ! アンナ! ルシール! エルナ! 何処に居る!!」


 その声に、柱の陰から小さな声でいらえがあった。


「……暗夜……暗夜……ここ……ここです……」


「エルナ!」


 エルナは口元に布を当て、立ち込める煙に咳き込みながらも無事だった。


 煙を振り払い、開けた視界に映ったエルナは、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして泣いていた。


「エルナ、何があった! 何が……何が…………」


 怪我のないエルナの姿に安堵した俺だったが……


「アンナ! アンナ……! 暗夜です……暗夜が帰りました……!」


 アンナは、柱の陰にエルナを隠すようにして抱き締め、踞った姿勢で死んでいた。


「……」


 その背中に、七本の矢が突き立っている。


「アンナ! 起きて下さいよぅ! ねぇ……! 暗夜! アンナが! アンナが……!」


 ……一人、修道女シスタが死んだ。


「暗夜! アンナを治して下さい! 何でもします! 何でも……何でも……」


 もう間に合わない事は分かっているのだろう。その声は徐々に小さくなり、エルナは、己を庇って死んだアンナにすがり付いて激しく泣いた。


「…………」


 俺は、激しく泣きじゃくるエルナを、そのまま『部屋』に送ろうとしたが送れなかった。妨害のレベルが上がった。


「……エルナ、ここは危ない。行くぞ……」


「でも! アンナが! アンナ、私を庇ってくれたんです! アンナを置いて行くんですかぁ……」


「……分かっている。この非道は、後で幾らでも責めてくれて構わない。だが、まだ生きている者がいるかもしれない。行かなければ……」


 エルナは、踞ったままのアンナと俺とを何度も見比べ、小さく頷くと、気丈に立ち上がった。


「……ごめんなさい、アンナ。少しだけ待っていて下さい。すぐ戻りますから……」


 元聖女なだけはある。

 死者の為になら、後で幾らでも泣いてやればいい。だが、まだ生きている者の為に、今の俺は急がねばならない。嘆いている暇はない。


 エルナは溢れる涙を拭う事もせず、呻くように言葉を押し出した。


「……アシタ・ベル……!」


 襲撃者は、守護騎士アシタ・ベルだ。気になるが、理由の詮索は後だ。俺は短く聖印を切り、アンナの為に短い祈りを捧げた。


「行くぞ、エルナ」


「……!」


 そこで、エルナは大きく身体を震わせ。涙で濡れた顔を左右に振った。


「……どうした。何があった……?」


「……っ!」


 エルナは答えず、何度も強く首を振って拒絶した。


「だ、駄目です、暗夜。お前は行かないで下さい……!」


 その言葉で――俺は理解した。


「……そうか、分かった。俺なら大丈夫だ。行こう……」


 後二人(・・)。部屋に送る事は、もう出来そうにないが、ここから連れ出す事が先決だ。


◇◇


 エルナを庇うように肩を抱き、煙を振り払いながら進む。


「アニエス……クロエ……」


 袖廊を進むに連れ、室温が上がり始めた。礼拝堂へ続く扉の隙間から白い煙が吹き出している。


 バックドラフト現象が起こる可能性があったが、俺には扉を開ける以外の選択肢はない。


 礼拝堂へ続く扉の前で、踞る修道女シスタの姿が見えて、エルナが一目散に駆け出した。


「アニエス……!」


 シュレティンガーの猫だ。箱を開けてみるまで、猫は生きているかどうか分からない。


 アニエスは生きていた。


 切り裂かれた腹部を押さえ付け、零れ落ちそうな内臓を抱えるようにして、血が出るほど強く唇を噛み締めて、生きていた。


「アニエス……! よく耐えた……」


 純鉄の剣で切られたのだろう。アニエスが腹部の傷を塞ぐ事が出来ないのはそのせいだ。

 アニエスには無理でも、俺なら傷を塞ぐ事が出来る。


「……神父さま……私……」


「喋るな、アニエス。頑張ったな、もう大丈夫だ」


 傷を塞ぐと、アニエスは力尽きるようにして意識を失った。


 エルナは、そのアニエスを抱き締めて、ぐしゃぐしゃに泣いていた。


「エルナ。アニエスと一緒に隠れていろ。礼拝堂の扉を開ける」


「わ、私も行きます……!」


 俺は首を振った。


「駄目だ。バックドラフト現象が起こる可能性がある」


「ばっくどらふ……なに?」


 エルナは、がしがしと袖で乱暴に涙を拭いながら首を傾げるが、この場での説明は難しい。


「簡単に言うと、扉を開けた瞬間、一気に炎が燃え広がる。そうなれば危ない。ここから先は俺一人で行く」


 俺には、礼拝堂の扉を開ける以外の選択肢はない。バックドラフトが起こるようならクロエはもう死んでいるし、起こらないようなら、まだ生きている可能性がある。


「俺なら、おそらく耐えられるが、お前たちには無理だ。一瞬で焼け死ぬ」


「……はい。分かりました……」


 エルナは悔しそうに唇を噛み締め、それでも頷いた。

 物分かりがいいのは助かる。


「もし俺が……」


 その先を言い掛けて、止めた。俺が死ぬようなら、アニエスもエルナも助からない。何が起こっても、俺だけは死ぬ訳に行かない。


 この教会の、しっかりした造りが仇になった。扉の隙間から白い煙が吹き出している。礼拝堂内部は密閉空間だ。不完全燃焼の状態にあるなら、扉を開いた瞬間、熱された一酸化炭素に酸素が結び付き、爆発を引き起こし、辺りが火の海になる可能性がある。


 シュレティンガーの猫だ。

 箱の中に閉じ込められた猫は、その箱を開けてみるまで、生きているか、死んでいるかどうか分からない。


 俺は生きている方に賭ける。危険だから扉を開けない、見捨てるという選択肢はない。


 後一人(・・)


 アニエスとエルナを物陰に避難させ、両開きの扉を押すが、向こうからかんぬきが掛かっていて開かない。押し破る必要がある。

 扉を強く押す。

 閂は木製だ。使徒おれの力なら破壊してしまえる。ゆっくりと、徐々に力を入れて行く。めきめきと閂が割れ砕ける音がして、刹那。


「……ッ!!」


 俺はギクリとした。

 僅かに開いた隙間から、しゅうっと煙が礼拝堂内部に流れ込んだその直後、大爆発が起こった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[気になる点] ディー君は防御やめたから、記憶喪失前の暗夜が焼き付けられてるんだよね 理屈は人工聖女たちと一緒 これがどう使命に影響するのか
[一言] アスクラピアの2本の手。 1つは与え、1つは奪う。 ルシールは代償を払えていない。 与えられるものが何も無いのに、更に使徒へ願いを求めた代償は何だろう。 アシタも裏切りの代償を払う時が来…
[一言] もう、最悪の事態すぎる。 アシタだけじゃない。これを止められなかったディートハルトも等しく同罪だよ。ロビンに八つ裂きにされてしまえって思っちゃう。 でも、ルシールはやらかした代償がこれな…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ