53 死の砂漠1
世界は薄い膜のように、幾つもの層になって重なりあっている。
俺たち使徒が使う『次元間移動』とは、無数に存在する虚数空間を渡る訳だが……この『虚数空間』とは何か。
まず、正の数と負の数があるとする。これは数直線上の『方向と距離』に置換する事が出来る。
例えば5という数字を0から5単位だけ伸びる直線だとすれば、5+2は5の長さの直線に2の長さの直線を繋いだものとなる。
つまり、-5は逆方向に直線を5単位伸ばす事になる。積算とはその回数分、同じ事を繰り返す事だ。
『虚数』とは2乗してマイナスになる数を言う。これは数直線の外の数字になる。この『数直線の外の数字』が虚数空間になる訳だが……この理論をフラニーとジナは理解できなかった。
ロビンは、馬鹿にしたようにこう説明した。
「フラニー。貴女には、お爺さんとお婆さんがいますよね? 会った事はないかも知れませんが、確実に存在しますよね?」
まぁ乱暴な理屈だが、そういう事だ。
それらは見た事がなくとも確実に存在する。イメージしやすい言葉にするなら、想像上の空間と置き換えてもいいかも知れない。
『虚数空間』とは、俺たち使徒にとって、管理者の居ない『部屋』を指す不安定な空間だ。その『部屋』を渡って、白蛇が居る死の砂漠へ向かう。
◇◇
使徒降臨の瞬間は、青白い稲光のように見えただろう。着地の衝撃は小さな爆発のようになって、神力の迸りと共に衝撃波を辺りに撒き散らした。
「第十七使徒『暗夜』。血の盟約に従って参上した」
夜空に赤く冷たい月が掛かっていて、俺のする事を見つめている。
白蛇は嘶きを上げる馬を宥めながら、陽気に嗤った。
「よく来た、兄弟。トリスタンの大司教『グレゴワール・エンリコ』を誘き出す事に成功した。お前も遊んで行くだろう?」
砂漠の蛇『白蛇』が率いるは『夜の傭兵団』。その数、凡そ四千。成る程、大捕物だが……
「……勇者が居るのか……?」
「分からん。確証はないが……居ると思うべきだろうな」
焼き付けの邪法を知るトリスタンの大司教『グレゴワール』の近くに、人工勇者が居てもおかしくはない。もし、居るとするなら、白蛇としては絶対に仕留めたい。それ故の援軍要請という訳だ。
やがて血腥い風が吹き、死の砂漠の冷たい夜空に変化が現れる。
紛れもない呪詛の気配。使徒たる俺をして、恐ろしい程の神気。母の強い干渉を感じる。
尖った月が、血の色に染まって死の砂漠を照らしている。
今宵、軍神の加護は届かない。
俺たち使徒の戦いでは動かなかった母が、遂に動いた。
白蛇は腰の鞘から曲刀を抜き放った。
「兄弟、馬は?」
「いらん。有っても乗れんからな……好きにやらせてもらう」
俺に乗馬の経験はない。そもそも、俺は『神官』だ。前衛を張る戦士じゃない。
「……」
俺は集中し、薄く広範囲に神力を拡げて戦況の把握に努める。
「……む、これは……」
白蛇が率いる傭兵団とグレゴワールの軍勢は『会戦』の形で互いに向き合っている。障害になるものは何もない。向こうも『やる気』だ。
白蛇は言った。
「向こうは、ざっと二千という所だ。トリスタンの寺院に所属する教会騎士、神官、修道士、傭兵も混じっている」
それは俺にも分かる。だが、強力な魔道具の反応がある。今一、軍勢の詳細が分からない。
「……戦の事は分からん。援護するから勝手にやれ」
そうだ。俺は戦士じゃない。戦場での主な役割は敵を蹴散らす事じゃなく、回復補助と牽制にある。ギュスターブを殺った時のような無茶はなるべく避けたい。
「白蛇。これは、お前の戦場だ。手は貸してやるが、決着までは面倒見切れんぞ」
ギュスターブの件では、全使徒召集の借りがある。だから手は貸すが、それだけだ。
「あぁ、分かってる。最後は俺が詰める」
馬の嘶き。戦士たちの息遣い。凍てつく筈の寒気でさえ、熱く震えているように感じる。
(これが、戦場か……)
誰も彼も、この熱気に浮かされて狂う。戦場の熱気。或いは……熱狂。
「どうやってヤツを誘き出した」
その問いに、白蛇は面白くもなさそうに鼻を鳴らした。
「誰にも弱味はある。今回はそこを突かせてもらった」
今回、白蛇は意に染まぬ方法を使ってグレゴワールを死地に誘き寄せる事に成功した。
白蛇は、赤く染まった夜空を指差す。
雲が途切れた夜空の間に、二つの名が浮かんでいる。そこには……
―― Grégoire Enrico ――
―― Anthony Stuart ――
呪われた夜空に二人の名が浮かび上がっている。その文字まで血のように『赤い』。
「アンソニー?」
「隠し子だ。寺院の神官は、子供はおろか、妻帯すら許されん。ヤツにとっては大事だろうさ」
スキャンダルというやつだ。表沙汰になれば、グレゴワールは寺院での地位を失う。
「脅して釣り上げたか……」
邪悪な母の戯れる指先が、儚い虚空にその名を描く。
息子共々殺せという事だ。しかし……
「……その子供にも罪科を問うか……」
あのしみったれた女は、恐ろしいぐらい公正だ。それが親の罪を子にも問うとは思えない。それだけの理由があると思うべきだろう。
自身で見極めた訳じゃない。その為か、白蛇の口調には苦渋が滲んでいる。
「……呪われた子だ……」
「ふむ……どうあっても殺せ。この機を逃がすなという訳か……」
グレゴワールとの間に面識はない。だから、ヤツが何を企んでいるのか分からない。だが、ヤツの行動が一線を越えた。少なくとも、邪悪な母が決着を急かす程度には。
「……難儀な事だ……」
「全くな……」
白蛇は、疲れたように大きな溜め息を吐き出した。
時刻は夜。つまり、今の白蛇は半使徒だ。人間として戦場に居る事になる。それでも比類なく強力な存在である事には変わりないが、人である以上限界がある。己だけでなく、『仲間』の手を借りねばならない。その事に思う所があるのだろう。
「兄弟、殲滅する。誰も生かして帰す訳には行かん。右辺は任せるが、いいか」
死人に口なし……つまり、誰にも知られたくないという訳だ。
「……人間とは、難儀だな……」
『夜の傭兵団』は、一応、ザールランド帝国の所属だ。トリスタン側に知られれば、この戦いは国同士のものに発展する可能性がある。それを避けるには、グレゴワールたちを皆殺しにするよりない。
「他の使徒は?」
「カッサンドラとティーナは参戦するが、ヴォルフには断られた」
「拳聖様は、相変わらずの不殺を気取るか……」
第七使徒『拳聖』ヴォルフ。生涯不殺の誓いを立てた事は知っているが……それでは拠って立つ所がない。俺は、ヤツを使徒として認めない。
「ご立派なのは認めるが、気に入らんな。いずれ、ヤツには詰め腹を切ってもらおう」
「……」
白蛇も思う所があるのか、俺の言葉には苦虫を噛み潰したような顔をしたが、不意に思い出したように言った。
「そうだ。ディートリンデが会いたがっていたぞ」
「……」
俺は痛む眉間を揉んだ。あれもこれもと面倒臭い。今は『魔王』の事まで考えたくないというのが本音だ。
白蛇が、更に思い出したように言った。
「……お前、エミーリアに何かしたのか? 相当、頭に来てたぞ……」
「そうか……」
まぁ、今思った事だが『殺し屋』と『魔王(仮)』の元に使いに出した。臍を曲げるのは当然の事だろう。また無限謝罪する羽目になる。頭の痛い問題だ。
白蛇は真面目腐って言った。
「いいか、兄弟。お前の女関係に俺を巻き込むなよ。それだけは知らんと先に言っておくぞ」
「……ケチ臭い事を言うなよ……」
最近は、そうなって欲しくないと思う方向にばかり話が進んでいる気がしてならない。
「なぁ、白蛇。俺とお前の仲だ。聞いてほしい話があるんだが……」
俺がすがるように見つめると、白蛇は知らん顔で馬首を返した。
「じゃあな、兄弟。一つ借りておいてやる」
横着にそう言って、白蛇は馬の腹を蹴ってその場を去った。
「……」
やれやれと俺は息を吐く。
数に於いては優勢。更には使徒が参戦するこの戦場は勝って当然。向こうは、この劣勢を覆す『奥の手』がある。グレゴワールは自信があるのだ。
『戦争』が始まる。大勢が死ぬ。中には詳しい事情を知らずに参戦している者も居るだろう。だが、全員殺す。善悪を超えた場所にこの戦場は存在する。
「……戦争、か……」
大きな戦いになる。
何が起こるか分からない。そして誰も……俺に迷う権利を許さない。
俺は……あのしみったれた女を信じる。この戦場がある種の分水嶺になると信じる。
――『世界の危機』だ。
母は、善悪の概念を超えて俺たち使徒に戦えと命じたと信じる。
闇の中を手探りで進み、かつ真実を見極めねばならない。
真実を見損なう時、俺の言葉は色褪せ、力を失うだろう。
母が神性を失う時……俺は、きっと、全存在を賭けて母に挑むのだろう。
自らの足で立って戦わねばならない。犠牲を支払う時、答えは見えて来る。この夢じゃない地獄の中で、俺は理解を超えたものを見る事になるだろう。
第十七使徒、暗夜の『当為』が始まる。