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アスクラピアの子  作者: ピジョン
第四部 青年期『使徒』編(後半)
260/308

52 愛の夢2

修道女シスタ、フェアバンクス。代償をもらいに来た」


 俺は第十七使徒『暗夜』。奇跡には代償を必要とする邪悪な女神の子。


 さて……何を奪ってやろうか。


 『若さ』の代償になり得る物とはなんだ? 邪悪な母が定めた最も尊い犠牲はなんだ?


◇◇


 愛がもたらす犠牲こそ、あらゆる犠牲の中で、最も尊い高価なものだ。


《アスクラピア》の言葉より。


◇◇


 ルシールは静かに立ち上がり、振り返った。


「暗夜……?」


「あぁ……」


 しかし……俺は、何故、跳べなくなったのだ。未だに分からない。だが、修道女シスタたちの祈りを止めてしまえば、俺はまた飛べる筈だ。

 切れ長の瞳は凛として涼やか。口元に微かな笑みすら湛え、ルシールは俺と向かい合う。


「……暗夜、何をそんなに焦っているのですか……?」


「焦ってなどいない……!」


 嘘だ!

 俺は焦っている。嫌な胸騒ぎがする。ここを一刻も早く去り、二度と姿を現したくないと思っている。


「代償をもらう……!」


「それは……はい、どうぞ……?」


 何を今更。ルシールの顔にはそう書いてある。その余裕が俺には腹立たしい。この女は、俺に一切怯えていない。

 それが俺には気に障る。


「……ニンゲンが……!」


 髪に銀の星が舞う。身体が青白く輝く。アスクラピアの二本の手。一つは奪い、一つは癒す。


 神官服リアサの袖を捲り上げ、ありとあらゆるを奪う死神の手が差し出されても、ルシールは一向に怯えない。恐怖の欠片すら見せず、微笑んでいる。


修道女シスタ、フェアバンクス。お前の最も大事なものを貰って行く」


 ルシールの細い首に手を掛け、乱暴に掴み、吊り上げる。その瞬間だけは、さすがに苦しそうにしたが……


「……?」


 『手』を通して伝わるその違和感に、俺は僅かに眉を寄せる。


「彼の者は一。多に別れても永遠にただ一つなり……!」


 死神の手は働いている。これこそが俺のオリジナル。全てを奪うアスクラピアの蛇。最も強欲な部分を形にしたものだ。それが……


「何故だ。何故、奪えない……」


 俺の『奪う手』は、ルシールから何も奪えなかった。訳が分からない。使徒の命すら喰らい尽くした俺の蛇が……この半妖精の修道女シスタからは、何も奪えない。


「……」


 ルシールは乱暴に掴まれた首を抑え、少し苦しそうに咳き込んでいる。


「……お前……本当にニンゲンか……?」


 俺は、初めて見るこの存在に恐怖した。奪う事の出来ないルシール・フェアバンクスというか弱い修道女シスタの存在に恐怖した。


「……もういい。代償はいらん……」


 指を鳴らして、いつもの合図。だが、跳べない。俺の翼は、依然封じられたままだ。


「……何故だ。何が起こっている……」


 少し痣が出来てしまった首を擦りながら、ルシールは呆れたように言った。


「……最初から、全て貴方のものなのに、これ以上、奪うものがある筈ないじゃないですか……」


「なんだと……?」


 ルシールは微笑んでいる。


「あの日……貴方は、私を愛するとは言いませんでした……」


「……お前は何者だ……!」


 ――口には出さぬ約束です――


 過去の煩わしい記憶はない。そんな物に俺は縛られない。邪悪な母の導くままに与え……そして、奪うのみ。


 切実な祈りに応じ、俺は使徒としてルシールの願いを叶えた。最も輝かしい状態に戻した。俺ぐらい孝行者の邪悪な母の子は居ない!

 それが……


「最初から……俺のもの……?」


◇◇


 愛がもたらす犠牲こそ、あらゆる犠牲の中で、最も尊い高価なものだ。

 しかし――

 最も困難な己の運命に打ち勝つ者は、最も美しい運命を授かる。


《アスクラピア》の言葉より。


◇◇


 ――死が二人を別つ事のないように。


 冷たくて悪い男の言葉だ。

 それは、決して口には出さぬ約束だった。最も尊い高価な犠牲が支払われる時……そして、最も困難な己の運命が克服された時……


「…………ルシール?」


「はい……」


 俺の中から、過去の思い出は永遠に損なわれた。だが、それでも消せないものがある。目には見えない。それは質量を伴うものではない。それでも、人はその存在を信じて疑わない。


 俺が奪ったものはなんだ?


 ……ルシール・フェアバンクスは、人生の最も美しい夢を見た……


 俺が奪ったものはなんだ!?


「……俺は夜に荒れる死神だ。古い罪に新しい罪を重ね、厳しい生け贄を求める嘆きの天使だ……!」


 俺は強く頭を振って、ある筈もないその想いを振り払う。


 飛べない訳だ。

 その代償はいらない。それは、俺を弱くする。離れられない訳だ。差し出された犠牲に、邪悪な母は最も高価な価値を示された。


「…………」


 俺は項垂れ……決して口には出さぬ約束を破ってしまった事を思い出す。


「……この悪戯者め……最初から、こうなると分かっていたな……?」


「はい……」


 相変わらず美しい女だと思う。

 人にはそれぞれ好みがあって、ルシールの容貌は俺のそれに一致する。厳しくて、気が強そうで、その癖、俺を見る時だけは心配そうに眉を八の字にする。


 ルシールは、泣きながら言った。


「お帰りなさい、暗夜」


 俺の神気に参らない訳だ。修道女シスタの中で、唯一このルシールだけが俺を『人』と信じて疑わなかった。


「あぁ……ただいま、ルシール……」


 飛べない天使は項垂れて……大人しく頷いて見せるだけだ。


◇◇


 愛が見せる夢がある。


 月明かりが射し込む名もなき教会の礼拝堂で、俺はルシールを抱いていた。


「……弱い者は連れて行けない。ルシール、俺はお前を連れて行けない……」


「……」


 ルシールは、濡れた瞳で俺を見つめるだけで答えない。


 何もかもが違う筈だ。俺は『ディートハルト・ベッカー』という名の子供ではなく、身体も容姿も変わってしまった。


 だが、ルシールが俺を見つめる瞳の色には何の変化もない。まるで永遠を塗り固めてしまったかのようだ。


 いっそう弱り果てる俺に、ルシールは恋の呪詛を吹き込んで来る。


「また……貴方の弾くピアノが聞きたい……」


 邪悪な俺は、いったいこの女からどれだけの物を奪ったのだ。


「うん……」


 俺はひねくれ者の天使で、引き留められると逃げ出したくなる。

 捨て置くと言って尚、ルシールの想いは変わらない。愛の囁きは燃えるような情熱に浮かれていて……それが、いっそう俺を弱らせる。


 愛が見せる夢がある。


 何度もキスを交わし、その首筋に顔を埋める俺の耳元で、ルシールが熱い息を吐き出す。


「……冷たい事を言う癖に、私の事を求めるんですね……」


「……」


 おそらく……連れて行ってしまってもいいのだろう。俺は第十七使徒『暗夜』。それだけの我儘が許される筈だ。この愛が見せる夢を、ずっと見ていたいと願ってもいい筈だ。


 ……決めた。


 この女を連れて行ってしまおう。永遠に連れ去って、俺が持つ虚無の暗闇に閉じ込めてしまおう。


 死神の呪われた愛だ。


 俺には、このやり方しかない。強引に連れ去って、二度と帰さない。


 背筋がピリピリと痺れる。

 俺は苛立って、いっそう激しくルシールを蹂躙しながら呟いた。


「……今、いいところなんだ。邪魔をするなよ、兄弟……」


 凄まじくいい所だ。それなのに、『血の盟約』を伝わって白蛇から応援の要請がある。

 断ってしまってもいい。感覚からして、それほど切羽詰まっている様子でもない。

 今の俺は楽しみたい気分だ。

 死神の胸の中で、息も絶え絶えに呻き声を上げるルシールを見下ろして嗤う。


「……暗夜……暗夜……許して……許して下さい……」


「嫌だ」


 今の俺は、この手に負えない悪戯者を飽きるまで虐めてやりたい気分だ。


 背筋が痺れる。

 場所は『死の砂漠』。大勢の戦士が集っている。大きな捕物があるようだ。或いは虐殺か。


「……」


 少し顔を上げると、僅かに開いた扉の隙間から、顔を真っ赤にしてこちらを覗き見ているエルナのヤツと目が合った。


 ――いやらしいガキだ。


 酷く興を削がれた俺は、舌打ちしてルシールから距離を取る。


「……野暮用だ。少し行って来る……」


「あ、あぁ……」


 忽ちうずくまり、蕩け垂れ下がった瞳で見上げるルシールの前で、俺は神官服リアサの裾を翻す。


「……すぐだ。すぐ戻る。逃げるなよ……」


 不安は何もない。今の俺が飛べない筈がない。確信がある。

 だから――

 俺は、白蛇の要請に応じて跳んだ。跳べてしまった。


 災いの星は、死神すらも見逃さない。


 それを知らなかった訳でもなかろうに……

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― 新着の感想 ―
[一言] ワイはルシールが好きなんや!
[良い点] 死神の弱点は愛。混じり気のない愛。なんて素晴らしいんだろう
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