51 愛の夢1
ルシールによって、教会の下女と化したエルナを散々に笑い飛ばしたベアトリクスは、すっかり毒気を抜かれたようだ。
目尻に浮かんだ涙を指で拭いつつ、言った。
「ああ、笑った。こんなに笑ったのはいつ以来だ? いいよ、暗夜。クラウディアは前払いで殺ってやる」
「……あぁ、任せる……」
さて、これで俺は第十使徒クラウディアの死刑執行書にサインした訳だが……あまりいい気はしない。
俺の依頼を受けた『殺し屋』ベアトリクスは、クラウディアを『暗殺』する。これは汚れ仕事だ。誰かに押し付けて誇れる事じゃない。俺は複雑な気持ちだった。
屈辱に震えるエルナを嘲笑いつつ、ベアトリクスは手首のバングルに着いたボタンを押した。
「ID 0127 ベアトリクス。帰還する」
第八使徒『ベアトリクス』は、正確には使徒ではない。つまり、部屋に跳ぶには、俺とは違う方法を使っている事になる。
ベアトリクスは、最後に俺を指差して引き金を弾く仕草をして見せた。
クラウディアは死ぬ。
しかし、俺がベアトリクスの期待以下の代物であった場合、次の標的は俺になるという意味だ。
その次の瞬間には、部屋に転がった所持品と共にベアトリクスの姿が消えた。これは、使徒の『部屋』を使った空間移動じゃない。別の技術だ。
「……」
ベアトリクスとやり合ったお陰で、やけに風通しのよくなった司祭の一室で、どっと疲れた俺は大きく溜め息を吐き出した。
ルシールが静かに言った。
「……あの方は、使徒ですか……?」
その問いに、俺は簡潔に答えた。
「あれは人間だ」
ただ、とうの昔にイカれている。そして、俺のような使徒とは違う、この世界の理から外れた存在でもある。
ルシールが震える声で呟いた。
「……暗夜。説明を……」
「うん? ああ……あれは……今のは……」
不意に違和感を覚え、そこで、俺はルシールの顔を見た。見てしまった。今にも不安に押し潰されそうなルシールの顔を見てしまった。
そして、思い出した。
「あぁ、そうか……そうだったな……」
俺は、もう人ならざる存在である事を思い出してしまった。
「……すまない。少し考えさせてくれ……」
普通の人間は怖いに決まっている。俺は煙草に火を点けた。
流れる紫煙を、ぼんやりと見ながら考える。
問題は、一つずつ片付けるしかない。
◇◇
その晩、へとへとに疲れ切ったエルナが司祭の部屋に逃げ込んで来た。
「よ、暗夜、匿って下さい。酷い目に遭っています……」
俺は煙草を吸いながら、肩を揺らして笑った。
「何があった?」
「は、働かざる者、食うべからずという事で、炊事洗濯……と、とにかく色々です……! 芋の皮剥きなんて初めてしました……」
「そうか」
今のエルナが人間である以上、ルシールの言う事は尤もだ。この教会に留まるからには、仕事を割り振られるのは当然の事だ。
エルナは怒りに震えていた。
「お、お前のせいです。お前がルシールを怒らせたから……!」
「俺が? 何の事だ?」
惚けた答えを返しながら、俺の理性は冷静に判断を下した。
もう、ここに留まるべきではない。使徒の常識は、この教会の修道女たちを殺す。
「全ては泡沫の夢だ……」
そうだ。
俺は第十七使徒『暗夜』。下界の者に俺の事情は関係ない。説明の義務はない。それは、堕天したエルナも変わりない。
「ゾイも怒っています。すごく怖いです。お前が無責任な事をするからです……!」
ルシールを若返らせた事を言っているのだろうが、俺にはどうでもいい。
「なんの説明もしないお前に、皆、すごく怒っています……!」
「そうか」
怒らせて置けばいい。弱い者は連れて行けない。下手に関わると死ぬ事になる。
「……暗夜……」
堕天したとはいえ、エルナも元は使徒だ。ベアトリクスの訪問を経て、その辺の危険は理解できるのだろう。少し困ったように眉を下げた。
「……ルシールは、少し泣いてました……」
「…………そうか」
「皆、すごく怒っていますが、それ以上に悲しそうでした……」
「………………そうか」
暫し沈黙を挟んで、エルナは言った。
「皆、お前の事が心配なんです。分かっていますか?」
「…………」
「お前はずるいです。何で、そんなに寂しそうな顔をするんですか?」
「俺が? 勘違いだ。馬鹿馬鹿しい……」
俺は舌打ちして、なるべくエルナの顔を見ないようにした。
その後は、芋の皮剥きで指を切ったというエルナの治療をして時間を潰した。
「消毒する。少し滲みるぞ」
「い、痛いです。ナイフなんて初めて持ったのです……」
ナイフと言っても、この教会にあるのは全て真銀製のものだ。アスクラピアを信仰する者にとって『鉄』は相性が悪い。しかし……
「エルナ……お前、少し不器用すぎないか……?」
初めて芋の皮剥きをしたというエルナの手には、なんと二十ヶ所近くの切り傷があった。わざとでないというなら、最早言葉もない。
エルナは、少しおどけたように笑った。
「……今、私が彼女たちにしていた事と同じ事をされています。私は……彼女たちの苦労に無関心でした……」
それは、俺が初めて見るエルナの人間らしい笑顔だった。
「うん……そうか……それで、人間の暮らしは、どうだ……?」
その言葉を皮肉と受け取ったのか、一瞬、眉間に皺を寄せ、むっとしたエルナだったが、俺の顔を見て、何故か戸惑ったように視線を伏せた。
「……大変です……すぐお腹が減りますし……その……色々あります……」
今のエルナは十四歳の少女だ。人間として生きる以上、色々と苦労があるだろう。
「……特にルシールとポリーは、私を嫌っています……」
その苦労には、人間関係も含まれる。
「皆、私を『エリシャ』と呼びます……私は……そうなんですか……?」
この教会の修道女たちは嫌いじゃないが、そのやり方は好きになれない。
俺は短く鼻を鳴らした。
「己が何者であるかなど、己自身が決める事だ。言わせておけ」
エルナは自嘲気味に言った。
「お前が何をしているか、お前自身が言ってみよ。そうしたら、お前が何者であるか言ってやる」
母の遺した無数にある警句の一つだ。エルナは、今の境遇に思う所があるのだろう。
「……悔しいですが、お前は慕われています。皆に頼りにされてます。私には出来なかった事です……」
俺は俺でしかない。あくまでも俺として振る舞っただけだ。修道女たちに好かれたくてした事じゃない。その不愉快さから目線を外す俺の神官服の裾を、エルナが引き留めるように掴んだ。
「……暗夜。お前は……当為が終われば、帰ってしまうんですよね……」
そうだ。全ての当為が終わってしまえば、もう会う事もないだろう。別れは必然的に訪れる。そして、俺は自ら選んだ少数の者と共に己の道を行く。
「誰も寄せ付けないお前の様子を、皆、不安に思っています……」
エルナは悲しそうに言った。
「……今の私には分かりませんが、お前が発する神気が強すぎて、修道女たちが近寄れません。少し緩めてくれませんか……?」
「……」
嫌な予感がする。
神気が昂るのはそのせいだ。何かある。その正体が分からない。
俺は大きく溜め息を吐き、立ち上がった。
「エルナ、もう寝ろ。ルシールに会って来る」
エルナは顔を上げ、少し嬉しそうに笑った。
「そ、そうですか。そうですね。それがいいと思います。その、ルシールたちには、優しくしてあげて下さい」
それには答えず、俺は司祭の部屋を出た。
ルシールらに警告する為だ。
使徒としての当為を負う今の俺は危険な存在だ。ベアトリクスの事がいい一例だ。
居住塔の階段を下ると、扉口で膝を着き、肩で息をするゾイと鉢合わせた。
「し、神父さま……ディ……」
俺の神気に耐え切れず、ゾイは居住塔の階段すら上る事が出来ない。弱い者は連れて行けない。
「……ゾイ。無理をするな……」
そう言って、くしゃりと髪を撫でると、ゾイは安心したようにその場に崩れ落ちた。
術で眠らせた。
神気を感じる事が出来ない堕天したエルナだけが俺に近付けるのは、酷い皮肉としか言いようがない。
そのまま扉口を抜け、身廊に入って礼拝堂へ向かう。
ポリー、アニエス、クロエ、アンナ……皆、俺の下へ近付く事も出来ずその場に倒れ伏している。
祈りが小さくなる。強い神気に触れ、気を失ってしまった為だ。
俺を引き留める祈りの声は、あと一つ。
ルシール・フェアバンクス。
この名もなき教会では、最高位の修道女。
礼拝堂へ入り、祭壇の前で跪き、祈りを捧げるルシールの姿が目に入る。
夜遅く、眠らずに居るのは困窮と悪徳だけだ。
これが、この名もなき教会での最後の仕事になるだろう。皆、もう眠ってしまったというのに、まだ眠らずに居るルシールに、俺は死神として挨拶する。
「修道女、フェアバンクス。代償をもらいに来た」
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