48 殺し屋1
長い身廊を扉口へ向かって行く。
何か忘れているような気がしないでもないが……小うるさく響いていたルシールの祈りの声は消え去り、俺はご機嫌だった。
いつものように腰の後ろで手を組み、居住塔に続く扉口に入った所で、怒りに震えるエルナと鉢合わせた。
顔を赤くしたエルナは、人気を気にしながら、俺を上目遣いに睨み付けて来る。
「……お腹が減ったのです……」
「……あぁ、そんな話だったな……」
どうでも良すぎて、すっかり忘れていた。
俺は上機嫌で言った。
「今夜は、指でもしゃぶってろ」
くぅと腹が鳴って、エルナは屈辱と羞恥心で更に顔を赤くした。
「この、けだもの……!」
「なんだ、見ていたのか。いやらしいガキだ」
邪悪な母の使徒として、俺は立派に使命を果たした。これで漸く『奇妙な部屋』に帰れる。そう思うと、気分上々。
マリエールやロビン辺りは気を揉んでいるだろう。
「さよならだ。エルナ」
「え……?」
残ったのは、聖エルナの当為だ。思う所がない訳ではないが、俺が手を貸す事は出来ない。エルナは、意外な事を言われたように呆然としているが、自らの当為に立ち向かうのはエルナ自身でなくてはならない。まぁ……そもそも、この頭でっかちのメスガキが当為に気付いているかどうかは甚だ疑問だ。
最後に一つだけヒントをやろうと思った。
「聖エルナ。お前には何も期待していない」
言外に、まだ『聖女』である事を告げたつもりだったが、当のエルナは俺に憎悪の籠った視線を向けて来るだけだ。
「ではな。後は勝手にやれ」
邪悪な母の定めた試練は、いつだって命懸けだ。機会は与えられる。だが、真の聖女になれるかどうかはエルナの覚悟と努力による。
俺は、パチンと指を鳴らした。そして――
「……ありゃ?」
『部屋』に帰れなかった。
「……?」
エルナは首を傾げ、怪訝な表情で俺を見つめている。
「お? あぁ? どうなってるんだ?」
何度も繰り返し指を鳴らし……俺が頭を抱えた所で、エルナが意地悪く嘲笑った。
「なんです? お前、ひょっとして跳べないんですか?」
「どうやら……そのようだ……」
俺は困惑した。
使徒として役目を果たした。祈りに応え、あのしみったれた女の邪悪さと偉大さをこれ以上ないぐらい示した。そして、使命を終えた天使は、天に帰る。それが『お約束』の筈だ。
エルナは、ニヤニヤと嘲笑っている。
「ぷー、くすくす。カッコつけて、みっともないですね!」
「……」
俺は、使徒として未熟だ。『個』の研鑽と『使徒』としての経験はまるで違う。その証明だった。もう何が起こっているかすら分からない。
考え付く事は、もう一つしかない。俺には、ここで為すべき事が残っている。つまり……
「俺にも、当為があるという事か……」
青ざめた唇の女! しみったれた女神アスクラピアに永遠の祝福(災い)あれ!
俺は天を仰いで嘆息した。
◇◇
翌朝、司祭の部屋で難しく考える俺の下へルシールが現れた。
その背筋は、ぴんと伸びていて、顔を隠す黒いベールはない。
「おはようございます。暗夜」
いいようになぶってやったつもりだが、何事もなかったかのように、澄ました顔をしてやって来たこの女は、本当にいい根性をしている。
黙って挨拶代わりの聖印を切る俺の耳元で、ルシールが囁くような小声で言った。
「……今夜も、待ってます……」
「……」
これで、俺には更に分からなくなった。当為か、それともこのルシールの『祈り』が原因かどうか分からない。何が俺を縛り付けているのか分からない。
ルシールは、そのまま俺の部屋にずかずかと乗り込み、寝室に入るなり超音波を発した。
「エリシャ、起きなさい! お前はいつまでだらけているのです!」
まぁ、引き籠ってニートをやっているよりいい。エルナの悲鳴が聞こえたが、後はルシールに任せ、そのまま部屋を出て階下に向かう階段を下りる。
無性に煙草が吸いたい気分だった。
◇◇
外庭に出て、久し振りに煙草を吸った。
「……」
朝の寒気に流れて消えて行く紫煙を見ながら、漠然と考える。
『創造』の権能は殆ど使えない。相性のいい真銀以外に、多少の日用雑貨が創れる程度だ。今、吸っている煙草もそうして創った。
俺は、指を鳴らして教会を包む神聖結界を強化した。
「…………」
ぱらぱらと目映い銀の星が降り注ぎ、結界は問題なく展開される。やはり、力が弱まった訳ではない。
俺には記憶がない。
ノーヒントの当為は、最早解答不能の難問と言っていい。うっすらと感じる縁の糸を手繰るよりないが……過去の事に関しては、ルシールやゾイから聞き出した方が早い。
「……もう少し、遊ぶか……」
後手に回るのは好きじゃないが、この際、仕方ない。時が経てば問題は浮き彫りになる。
……暫くは、ゾイとルシールでも誂って遊ぼう……
女の一人や二人、振り回す余裕がなくてどうする。そんな事はただの暇潰しでしかない。
弱い者は連れて行けない。
この教会は悪くないが、修道女たちには傑出した所がない。戦闘特化のゾイですら頼りなく、ルシールはバランスが取れているがそれだけだ。
強い『騎士』と優秀な『魔術師』は揃えた。今、一番欲しいのは、全体を補佐する人材だ。『忍者』か『盗賊』。或いは『悪党』。『レンジャー』は中途半端で駄目だ。何でもこなすが、突き抜けた所がない。戦闘力を重視するなら忍者か悪党。罠感知、罠解除を重視するなら盗賊が望ましい。他には、やはり強い『戦士』があと二人欲しい。それと、俺に何かあった時の為にある程度の回復術が使える者が居れば尚いい……
フラニーとジナには期待しているが、ロビンを納得させられない内は駄目だ。下界で使う分には役立つが、今の実力では、この世界の最大の謎に迫れない。
『ダンジョン』の深層では通用しない。
――アレクサンドラ・ギルブレス。
あの女戦士なら、或いは。穴がない訳ではないが、ヤツは戦士として傑出している。
そこまで考えた所で、教会からゾイが駆けて来るのが分かった。
先程、張った神聖結界は教会を含めた広範囲に展開している。索敵に優れたものではないが、何処に誰がいるかぐらいは分かる。
短くなった吸殻を握り締め、消してしまう。自分で創ったものだ。消すのも簡単だ。
背後で立ち止まったゾイは、暫し俺の背中を見つめ、それから言った。
「そ、その、神父さま。朝食の準備が出来ました」
「うん……分かった……」
使徒には食事も睡眠も必要ない。だが、彼女らの厚意を断るのは失礼だ。
振り返ってゾイを見ると特別な変化はない事からして、まだルシールには会ってないのだろう。
「なあ、ゾイ……少し、いいか……?」
一拍の間を置いて、ゾイは、ごくりと息を飲む。
「…………いいよ」
セクシャルな間があったが、まぁいい。未だ反応のない守護騎士『アシタ・ベル』について尋ねたかった俺だったが――
「――ッ!」
刹那、ぞわっと背筋が粟立つような感覚がして振り返ると、『そいつ』が教会の門戸を挟み、薄い笑みを浮かべて立っていた。
左目に黒い眼帯を着けている銀髪隻眼の女。やたらひらひらした深紅のドレスを身に纏い――
――『殺し屋』ベアトリクス。
酷薄な笑みを浮かべ、こちらを見つめている。一瞬だけ殺意を向けたのは挨拶代わりだろう。
「貴様、誰だッ!」
忽ち、ゾイが反応して誰何するが、ベアトリクスは口元に酷薄な笑みを浮かべて答えない。ゆったりと門戸に凭れ掛かり、しなを作った姿勢でドレスの裾を捲り上げ、腿に掛かったホルスターから『それ』を抜いた。
「……?」
首を傾げるゾイの背後で、俺はぎょっとして目を見開いた。
俺が持っているものとは違うが、それは明らかに『銃』だった。そして、その銃口は真っ直ぐゾイに向かっている。
「嘘だろ!」
叫びながらゾイを突き飛ばすのと同時に、ベアトリクスは『発砲』した。
発砲音はしなかった。
弾丸が空を裂く音が微かにしただけだ。突き飛ばされ、よろめくゾイが居た場所を通り抜け、教会の壁に穴が開く。
「ま、待て! 待ってくれ!」
慌てて制止すると、ベアトリクスは少し笑って――今度は幾分驚いたようだった――言った。
「よう、暗夜。この前は面白かったぜ? まさか使徒二匹喰うとはな……久し振りに笑ったよ」
この女……いきなり撃ちやがった。俺が突き飛ばさなければ、ゾイは頭を撃ち抜かれて死んでいた。
俺も人の事はとやかく言えないが、挨拶代わりに人殺しはしない。
「ベアトリクス、こちらからは何もしない。だから、もう撃つな」
「OK、いいよ」
教会に訪れるには悪趣味な深紅のドレスを身に纏い、ベアトリクスは笑って頷いた。
「ああ、そっか。稀人だったな。銃を知ってる訳だ」
『殺し屋』ベアトリクス。
エミーリアが嫌がる訳だ。
そして『銃』。俺が玩具から作った物とは一線を画する本物。発砲音すらなく、反動すら感じさせないそれは、俺が持つ『リアル』の上を行く『科学』の結晶だ。
ベアトリクスは言った。
「エミーリアから聞いたよ。あたしに依頼があるんだって?」
馬車馬だって、もっとマシな扱いを受けるだろう。邪悪な母は、俺に遊ぶ時間を与えるつもりはないようだ。
俺は早くも疲れ……
深い溜め息を吐き出した。
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