47 暗い夜には愛が舞い散る
貧民街のガキが最初に味わう洗礼を受け数日……エルナの自尊心は完全に砕け散った。
教会内に於いては修道女たちの嫌悪の視線に晒され、街に出れば衣食住の苦労に追われ、暴力に怯える。
更には逆印。
信仰の有無に関わらず、癒しと復讐の女神『アスクラピア』の存在は誰もが知っている。逆印を見られれば最後だ。穏やかな一般人ですら『こいつには何をしてもいい』と牙を剥く。
エルナは完全に詰んでいた。
「暗夜……暗夜……!」
街で負った傷は軽傷に過ぎない。しかし、折れた心は治らない。それが三百年という時を掛けて歪な形で構築されたものであれば尚更だ。
エルナは、司祭の自室に引き籠るようになり、人目を避けるようになった。
そして、現在。
エルナの要望で、司祭の部屋には誰の訪問も入室も許可して居ない。その程度には、エルナは終わっている。
「暗夜、少しお腹が空きました」
俺の瞑想中に声を掛けるとは、いい根性をしているが、今のエルナは、ただの人間に過ぎない。
「……そうか。修道女たちに頼んで、何か貰って来る……」
「え、ええ、そうして下さい」
エルナは、ぐんと胸を張って居丈高に振る舞って見せるが、その紫の瞳からは自信のようなものが消えている。
「エルナ……お前は……」
これがエルナの当為であるなら、俺から言える事は何もない。
「な、なんですか……?」
今のエルナは、俺の存在によって、なんとか立場を保証されている。もし、俺が居なくなればその時は……
エルナの目には、俺の顔色を伺うような卑屈な色が浮かんでいる。
「なんでもない。食い物だったな。行って来る」
「は、早く戻って来るように!」
今のエルナは何もかもに怯えていて、俺なしでは食事はおろか、入浴、排泄というような日常生活にさえ不便している。
司祭の部屋を出て、居住塔の階段を下りながら色々と考えた。
エルナには期待できない。
(簡単に折れやがって……)
夜更けという事もあり、修道女たちは、一人を除き眠っている。
――ルシール・フェアバンクス。
助祭である彼女だけが起きていて、夜更けにも関わらず礼拝堂で一人、深い祈りを捧げている。
扉口を抜け、長い身廊に入り真っ直ぐ進む。下界では、使徒の権能は著しく制限される。物質変換や創造に関しては殆ど使えない。相性のいい真銀と構成が単純な雑貨は創れるが、それだけだ。食事の調達は修道女に頼む必要があった。
礼拝堂へ続く扉を静かに開け放つと、天窓から微かな月明かりが射して来て……膝を着き、深い祈りに没頭するルシールの背中が見えた。
「……」
俺は聖印を切り、口の中に伽羅の破片を放り込んでルシールの祈りの終わりを待った。
この名もなき教会に俺が降臨して、早数日が経過しているが、このルシールだけは祈る事を止めない。
老いた修道女だ。
だが、この女が俺を喚んだ。不思議な術を使う修道女。ルシール・フェアバンクス。俺は、この女に強い興味がある。決して俺に顔を見せようとしないこの女が気になる。
「……っ!」
微かに吹く隙間風に乗って流れる伽羅の匂いに反応して、ルシールが振り向く。
「……よ、暗夜……?」
俺は嫌味たっぷりに言った。
「あぁ、真面目だな、シスタ。こんな夜更けまでご苦労な事だ」
「……」
微かに射し込む月明かりだけでは、顔に掛かった黒いベールの向こうは見えない。
一拍の沈黙を挟み、ルシールが困惑したように言った。
「……暗夜。まだ起きていたのですか……?」
「俺は眠らない」
使徒には食事も睡眠も必要ない。ルシールは高位の修道女だ。知らなかったとは言わせない。
――わざとだ。
伽羅の破片を吐き捨て、俺は言った。
「俺は第十七使徒、暗夜。祈りを聞き届けてやって来た。願いを言え」
「……」
ルシールは答えない。だが、その細い肩が僅かに震えている。
「……夜遅く、眠らずに居るのは困窮と悪徳だけだ。ルシール、お前は、どっちだ……?」
さて、俺の予想では両方だ。困窮しているのは確かだが、ルシールは俺の目を惹く為に祈りを止めない。
「さあ、願いを言え。ルシール・フェアバンクス。俺に出来る事なら、なんでも叶えてやろう」
使徒が『祈りに応える』とは、そういう事だ。願いを叶えない内は、部屋に帰れない。跳べなくなったのは、そのせいだ。
「ただし、代償を貰う。身の丈を超えた願いは破滅に繋がると知れ」
そう、俺は『アスクラピアの子』。しみったれた女神に仕える第十七の使徒。奇跡には代償を必要とする。
月明かりに青白く染まる礼拝堂。そして、祈りに応え降臨した俺は『天使』などという上等な代物ではない。
暗い夜から生まれた男――死神『暗夜』。
「アスクラピアの二本の手。生かすも殺すも思いのままだ。さぁ、言え! 誰を殺して欲しい? それとも治すか!」
砂の国『ザールランド』の夜は凍てつく夜だ。
何処までも冷め切った夜だった。
ベールに隠れたルシールの表情は分からない。だが、その身体が僅かに震えている。身を切るような寒さに耐え、捧げられた祈りは『死神』を動かすには十分な代物だ。
ルシールは、震える声で言った。
「……貴方は、約束を破ってしまわれた……」
「なんの事だ?」
「口には出さぬ約束です……」
俺には記憶がない。あるのは使徒としての当為。死神としての力。
「……謎かけか……?」
「あの日……貴方は、私を愛するとは言いませんでした……」
「俺は夜に荒れる死神だ。古い罪に新しい罪を重ね、厳しい生け贄を求める嘆きの天使だ」
そうだ。この教会の修道女たちは酷い勘違いをしている。俺は人間ではない。俺の身に巣食う蛇は二名の使徒の命を喰らい尽くし、それでも足りぬと悶え狂う。
「……貴方は……時に道を説かれた……」
「……」
「……貴方は……時に笑って下さった……」
「…………」
「でも、口には出さぬ約束を破ってしまわれた……」
妖精族の血を引く女。老いているが、芯がある。使徒、暗夜は祈りに従って与え、そして奪う。
「……私を……治せますか……?」
「容易い事だ」
ただし、代償はそれなりのものになるだろう。身の丈を超えた願いは破滅に繋がる。
「……泪石を三つ使って……それでも、私は戻れませんでした……」
俺は鼻を鳴らした。
「ああ、あのゴミを使ったのか。あんなものと俺を比べるな」
血の通うルシールの吐息は暖かく白く、血の通わない俺の息は冷たく白い。
妖精族の血を引く女。
その身体は半分が俺と同じ星辰体だ。どんな病を抱えているのかは分からないが、生かすも殺すも俺には容易い。
斯くして、死神の手がルシールに近付く。
「……私を……最も輝いていたあの頃に……」
「いいだろう」
俺の『夜の目』には、草臥れた魂が映っている。何があったかは分からないが、この女の魂を深く傷付けるような事があったのだ。
俺は嗤った。
「では、ルシールよ。最後に、もう一度だけ問う。汝……」
代償を払う覚悟はありや?
黒いベールに包まれたその素顔は見えないが、ルシールが微笑んだのが手に取るように分かった。
「……暗夜。私の全てを持って行って下さい……」
「では、遠慮なく」
髪の中に星が舞う。身体が青白く輝く。見る者、全てが『終わり』を思わずに居られない。その似姿は……
「……アスクラピア……!」
「違う。我が名は……」
俺の姿に怯え、一歩引き下がったルシールのベールを荒っぽく毟り取ってやった。
瞬間、ルシールは小さく悲鳴を上げて逃げ出そうとしたが、その手を掴んで強引に引き留める。
「な、何を……!」
ふん、と俺は鼻を鳴らした。
「別に。少し顔が見たかっただけだ。どんな見苦しい顔をしているのかと思ったが……」
老いさらばえた顔。肌には艶がなく、目元や口元に残酷な年輪の皺が寄っている。
だが、美しい。
切れ長の瞳は今にも泣き出しそうに垂れ下がっていて……しかし、それに強く惹かれる俺がいる。
「なかなか、見られる顔をしているじゃないか。何故、隠す?」
「み、見ないで……見ないで下さい……お願いします……」
「嫌だ」
俺は残酷に言って、ルシールの細い腰を抱き寄せる。
「な、何を……や、やめて、暗夜。後生です。お戯れを……」
「煩い、黙れ」
特に問題ない。若返りが望みとは、在り来たりでつまらなくもある。
斯くして、死神の鎌が振るわれる。
細い腰を引き付け、唇を重ねて奪う。抵抗は刹那。ルシールは、一瞬、目を見開いて刮目し……全身から力が抜ける。
蹂躙する。
身を切るような寒さである筈だが、ルシールの身体は熱く火照っている。僅かな抵抗も、漏れる吐息すら飲み込んで深い口付けを交わす。
「あ、はぁ……あ……」
嬌声を上げて悶えるルシールの全てを蹂躙して、俺は……
「ごちそうさま」
ルシールは跪き、荒い吐息に肩を揺らしながら、濡れた瞳で恨めしそうに俺を睨み付けて来る。
艶やかな黒髪。張りのある肌。切れ長の瞳には燃えるような情熱の輝き。もう、誰もこの女を老女とは言わないだろう。
俺が、どれだけ殺したと思っている。どれだけ奪ったと思っている。それらを少し分けてやっただけだ。こんなに簡単な事はない。
俺は悪魔のように微笑む。
「代償は後日。それでは、修道女フェアバンクス」
問題は、一つずつ片付けるに限る。
「おやすみ」
頬を赤く染め、荒い吐息を繰り返し、尚も恨めしそうに俺を睨み付けるルシールを前に、俺は神官服の裾を翻す。
後に残るは静寂のみだ。