46 名もなき教会5
エルナに関しては、幾つか推測できる事がある。
アウグストらと戦う決意をした際、俺は、アウグストらは自らの背信にエルナを巻き込みたくなかったのだろうと思っていたが……
アウグストらは、エルナが人工聖女である事に気付いていたのではないか。だからこそ、エルナを仲間に引き入れなかった。
どちらの可能性も有り得る。真相は既に闇の中だ。
エルナの存在には謎が多い。
あくまでも憶測だが、エルナに『焼き付け』を施したのが母なら、エルナを人工聖女と呼ぶのは違う。母に似せた質の悪い模造品と呼ぶべきだろう。
母の考えは分からない。あれは、とうに善悪等という薄っぺらい価値観で計れる存在ではない。
マリエールが居ればと痛切に思う。あいつなら、更なる疑問と可能性を提示するだろう。
考えるべきではない。分かっている。だが、考えずにはいられない。
◇◇
その晩、司祭の一室で深く物思いに耽る俺の下に、ゾイがやって来た。
遠慮がちにノックされた扉を開くと、そこには目を潤ませたゾイが立っていた。
アクアディの酒場での事は、してやられたとしか思えない。最初から、ゾイは俺の事を言っていた。胸に響く訳だ。逃げられない訳だ。そして恐ろしい事に、ゾイは一切嘘を吐いてない。だから嫌いになれない。
俺を見上げるゾイの頬が、羞恥心からか赤く染まっている。
「……神父さま。来ちゃった……」
「あ、ああ……」
ここまであからさまな好意を突き付けられて、それを撥ね付けられる男がいるのだろうか。
俺は、心の中で何度も何度も聖印を切った。この場にロビンとマリエールが居ない幸運を感謝した。
「……その、神父さま……」
ゾイは、膝を擦り合わせるようにもじもじしている。何を期待しているかは一目瞭然だ。
「うん……入るか……?」
その俺の問いに、ゾイは目尻を下げて頷く。まぁ、しょうがない。そんな風に考えたとき――
「……神父さま?」
ゾイと同じように俺を訪ねて来たアニエスの声に、俺は心臓が飛び出すかと思った。
「ん……アニエスか。どうかしたか?」
何とか平静を装う俺の前で、ゾイは目を剥いてアニエスを見つめている。
そのアニエスは、ちらりとゾイを見て微笑んだ。
「いえ、少しお話ししたい事があって……ゾイも来てたんですね……」
「ああ、入るといい。何もないが、話を聞くぐらいは出来る」
そして、ゾイとアニエスを部屋に招き入れたのはいいが、二人は引き攣った表情でお互いを見つめ合っていた。
ルシールとポリーを除いて、この教会の修道女は全員が年頃だ。還俗して良人を持っていても全然おかしくない。
アニエスの歳は確か……
そこまで考えた所で、再び扉をノックする音が響き、ゾイとアニエスは、びくんと肩を震わせた。
俺はもう、ここで思い窶れる。
扉を開けると、そこには何かを決意した表情のアンナが立っていて、既に部屋の中に居たゾイとアニエスの姿を見て固まった。
「ん……どうした、アンナ。お前も話したい事があるのか……?」
勿論、俺は平静を装う。
これはモテ期がやって来たんじゃない。出会いのない彼女らの環境が悪い。今の俺は、良くも悪くも年頃の男の姿をしている。彼女らが相手を求めるのは無理からぬ事だ。
そして、間を置かずクロエまでも訪れて、既に部屋の中に居た三人を見て目を剥いた。
「ん……クロエか。入るか……?」
「は、はい……」
やはり平静を装い、クロエを部屋に招き入れた俺は、すぐにでも逃げ出したい気分になった。
アイヴィが恋しい。あいつだけでも、いや、あいつだけここに呼び寄せたい。
試しに指を鳴らしてみるが、アイヴィはやって来ない。俺も『奇妙な部屋』に帰れない。邪悪な母は、どうやら俺に針の筵を勧めておられる。
それから暫く、俺は邪悪な母の勧めに従って、針の筵の上で四人の修道女と歓談して過ごした。
話題は使徒の日常について、他愛ない事ばかりだ。
「うん……普段は本を読んだり、瞑想したりして過ごしていたな……」
勿論、賢い俺はマリエールやロビン、フラニーにジナの事は話さない。一言だって話さない。拷問されたって話さない。
「ふむ……聖典ではあまり確認されていないが……使徒は、俺を含めて十七名いる……」
俺は窓際に立ち、夜空を見上げる振りをして、なるべく彼女らを見ないようにした。
「母は、偉大だよ」
そんな事を言いながら、俺は胸の内で邪悪な母に呪詛を捧げる。
――永遠に呪われろ、と。
うっすら窓ガラスに映ったゾイがアニエスの脇腹に肘鉄を打ち込み、怒ったアニエスがゾイの爪先を踏みにじる。クロエがアンナの髪を引っ張り、アンナがクロエの耳を力の限り引っ張る。
俺は、その地獄のような光景全てを見なかった事にした。
しかし……と俺は真面目に考える。
何故、俺は跳べなくなったのか。力を失った訳じゃない。むしろ以前より増している。跳べない筈がないのだ。母が干渉していると思うべきだろう。
――当為がある。
無論、窓ガラスに映った見苦しい連中も関係ある。俺には、ここで為すべき事があるのだ。
そこまで考えた所で、またノック音がして、皆、ぎょっとして扉の方に視線を向けた。
もうどうにでもなれ。
ヤケクソで扉を開け放つと、そこに立っていたのは、年配の修道女であるポリーだった。
挨拶代わりに聖印を切るポリーに、俺も聖印を切って返す。
ポリーは背伸びして、俺の肩越しに険しい目付きで室内を見回して吼えた。
「ったく、あんたたちと来たら! 誰も部屋に居ないと思ったら!! こんな夜更けまで神父さまに迷惑掛けんじゃないよ!!」
そんなポリーの耳元で、俺は小さく囁いた。
「……助かった……」
ポリーは、四人に見えない角度で親指をぐっと突き立てた。
これぞ奇跡だ。
俺には、怒鳴り散らすポリーの姿が邪悪な母より神性に溢れたもののように見えた。
その時の事だ。
背筋に、ピリッとした感覚が走った。これは――
「不味い。ヤバい。行って来る」
指を鳴らす。いつもの合図。『血の盟約』に従って、俺は跳んだ。
◇◇
場所は遠くない。すぐだ。
血の盟約に従って、俺は幾つもの『部屋』を渡って仲間の危機に駆け付ける。
「白蛇……!」
危ないのはヤツだと思った俺だったが、引き寄せられるようにして降り立った場所は、アクアディの寂れた裏町だった。
「な、なんだ……?」
危ないのが白蛇なら、場所は『死の砂漠』の筈だ。砂漠の蛇は、死の砂漠から動かない。
困惑して辺りを見回すと、野太い男の怒鳴り声が聞こえた。
「こんの、クソガキが!」
「噛み付きやがった!」
何が起こっているのか分からない。だが、仲間の危機だ。戸惑いながらも声のする方に駆けると、数人の男に袋叩きにされる少女の姿が目に入った。
「嘘だろ……エルナか……!?」
逆印により、力を失ったエルナはただの人間の筈だ。使徒としての力を失ったのだから、てっきり『血の盟約』は失効したと思っていた。
俺は叫んだ。
「全員、動くなッ!!」
『雷鳴』。男たちは、全員、金縛りにあって動きが止まる。その男たちに囲まれ、頭を庇うように踞っているエルナの姿は、あちこち衣服が擦り切れて、すっかり草臥れた格好になっていた。
無力な子供が一人で生き抜くのは難しい。ここはそういう残酷な世界だ。だから、身寄りのない子供たちは徒党を組む。
「エルナ、無事か!」
ぼろぼろになったエルナは、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を上げて、男たちを指差して叫んだ。
「暗夜、この男たちを殺しなさい! 今すぐ! 貴方の得意技でしょう!!」
エルナを寄って集って袋叩きにしていた連中は、そこら辺に居るような普通の男たちだ。破落戸やチンピラの類いじゃない。
「……」
俺は黙って首を振った。
バンダナが取れてない所を見るに、逆印を見られた訳じゃない。
俺はありがちな顛末を想像して、やりきれなさに首を振った。
「エルナ、何をした」
「……べ、別に、ちょっと、お腹が空いたから……」
必死になって強がるエルナは、汚れた衣服で涙に濡れた顔を拭っている。
「……盗んだのか……」
「ぬ、盗んだんじゃありません! ただ、ちょっと……ちょっと……」
言い訳するエルナの言葉は徐々に力を失くして行き、遂には項垂れて黙り込んだ。
「……」
俺は気分が悪くなって、小さく舌打ちした。
「……帰るぞ」
逆印があるエルナに、俺の癒しは届かない。薬を作る必要がある。
逃げ出して半日もしない内に、ぼろぼろになったエルナを抱き上げ、俺は名もなき教会に跳んだ。
やはり跳べる。
しかし……エルナには『雷鳴』が効かなかった。そして、失効しなかった『血の盟約』。これが意味する所は何か。
――超越者。
あの、しみったれた女の考える事は分からない。答えは俺の思惑を超えた所にあるようだ。
ただ一つ、はっきりした事がある。
この当為は、俺のものじゃない。
第三使徒『聖エルナ』の当為だ。