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アスクラピアの子  作者: ピジョン
第四部 青年期『使徒』編(後半)
251/309

43 名もなき教会2

 その晩、聖エルナ教会にある司祭の一室の片隅で、頭まで毛布を被り、踞るようにして眠るエルナの尻を軽く蹴飛ばした。


「起きろ、エルナ」


 使徒である俺には、睡眠も食事も必要ない。エルナにはベッドを使うように言ったのだが、こいつはまるで俺の話を聞かない。


 今は毛布で身体を包み、踞るようにして部屋の隅で眠っている。恐ろしく強情だ。


「起きろと言っているだろう」


「……」


 むくり、と身体を起こしたエルナは寝ぼけまなこを擦りながら、忌々しそうに俺を睨み付けて来る。


「おかしな事になった。『部屋』に跳べん。エルナ、お前なら分かるだろう。何が起こっている」


 あれから何度も試したが、エルナを送るどころか、俺自身が跳ぶ事すら出来ない。


 この教会の修道女シスタたちを信じているが、あの嫌悪に満ちた『目』を見た後では、エルナに万が一がないとは言い切れない。俺も白蛇に会いに行けない。何故、こんな事になったのかが分からない。だが、三百年に亘り使徒としての経験を積んだエルナなら、今の俺に何が起こっているか分かるだろう。そう考えての質問だったのだが……


「……」


 エルナは頑として答えない。困り果てた俺の様子を見て薄ら笑いを浮かべ、口を噤んでいる。

 俺は短く息を吐く。


「お前が俺を憎んでいるのは知っているが、今の状況は、お前にとってもいいものじゃない。分かってるのか?」


「……」


 エルナは答えない。ニヤニヤ笑っているだけだ。


 俺は問答を諦め、ソファに深く腰掛けた。


「……くそっ。何が起こっているんだ……」


 『部屋』を使った移動ができない。俺は深く考える。


 おそらくだが……俺がこの聖エルナ教会の修道女たちの祈りを『聞き届けてしまった』事と深い関係があるのだろう。

 俺は『使徒おれ』の事を知らなすぎる。

 現に、こうしている今も、修道女シスタたちの切実な祈りが届く。


 俺をどんなに慕っているか。


 俺をどんなに想っているか。


 俺をどんなに必要としているか。


 六人の修道女が、それぞれの思いで強い祈りを捧げている。俺には使徒としての当為ソルレンがあるが……この教会の修道女たちを捨て置けない。そんな風に出来てない。


「……」


 苦悩する俺を、エルナが意地の悪い笑みを浮かべて見つめている。

 エミーリアは帰って来ない。

 これも頭が痛い問題だが……こうして苦悩する間も、修道女たちの祈りが届く。優しい気持ちになる。なってしまう。


「……なぁ、エルナ。すごい祈りだ。彼女らの思いは強い。俺は、ここから離れる事が出来ないよ。お前も、ここに居る間は、ずっとそうだったのか……?」


「え……?」


 エルナは驚いたように俺を見て、しかし一瞬後には顔を逸らしてしまった。


 ルシール、ゾイ、ポリー、アニエス、クロエ、アンナ……名前を聞かずとも分かる。もう夜更けだが、礼拝堂に集まって、皆、眠らずに祈り続けている。

 不安なのだ。

 こうしている今にも、俺が何処かに行ってしまうのではないかと、修道女シスタたちは不安に駆られている。


 俺は堪らなくなって、司祭の部屋から飛び出して、真っ直ぐ修道女たちが集う礼拝堂に向かった。


 夜遅くまで起きているのは、困窮と悪徳だけだ。扉を開け、未だ祈り続ける修道女たちに言った。


「……皆、夜ももう遅い。俺は何処にも行かない。安心して眠るといい。何も悪い事は起こらない。俺が約束しよう……」


 困窮した教会。窓から射し込む月明かりだけを頼りに祈りを捧げる修道女たちを見て、俺は酷く胸が痛んだ。


「……不安なのだな……」


 俺には、ディートハルトとしての記憶がない。


「……聞かせてくれ。俺は……お前たちに、どれだけ酷い事をしたんだ……?」


 どうしても眠れずにいるのなら、せめて俺は、話を聞いてやりたいと思うだけだ。


◇◇


 居住塔に続く扉が薄く開いていて、その隙間からエルナがこちらを覗き見ている。

 そんな事はどうでもいい。


「……すまない。本当にすまない。そんな事が……」


 俺には何もない。修道女シスタたちから過去の話を聞いても、それは別の誰かの話にしか聞こえない。困窮する彼女らを憐れに思うだけだ。その困窮に追いやった俺を、未だに慕う彼女らを愚かしく、いとおしく思うだけだ。


 かたん、ことん、と流した涙が床を打つ。


 使徒『暗夜』の流した涙は、人のものとは違う。涙は石となり、固まりとなって床を打つ。


 俺には泣く事しか出来ない。

 そんな無力な俺を見て……修道女シスタたちも泣いていた。


 エミーリアが出て行った訳が分かった。

 『祈り』は天使を駄目にする。俺を駄目にしてしまう。当為ソルレンを忘れた訳じゃない。だが……今、ここに、一番大事なものがあると……そう思う俺が居る。


◇◇


 駄目だ。

 今の俺は、必要以上に感情的になっている。これでは冷静な判断を下せるとは思えない。跳べなくなった事と無関係ではないだろう。


 翌早朝、修道女シスタたちと質素な朝食を摂りながら、俺は酷く思い悩んだ。

 とりあえず……

 俺は溜め息混じりに指を鳴らして、修道女シスタたちを祝福する。全員、徹夜で泣き腫らしたお陰で酷い顔だ。


 祝福の銀の星が雨のように降り注ぎ、若い修道女たちがパッと笑みを浮かべる。

 俺は小さく頷いて、言った。


「……昨夜は情けない所を見せてしまった。もう少し、しっかりしたいと思う……」


 修道女シスタたちは微笑んでいて、俺は少し気恥ずかしい気持ちになって、咳払いして誤魔化した。

 ゾイが、ぽつりと呟いた。


「まだだよ。これからだ。ここから、全部、取り戻すんだよ」


「ふむ……そうだな……」


 それに関してはやぶさかではない。昔の事は分からないが、今の聖エルナ教会には廃墟の趣がある。このままにはしておけない。施設の復旧には幾らかの金がいる。


「……では、市井に繰り出して聖務を行う事にするか……」


 特に代わり映えする必要はない。アスクラピアの神官や修道女シスタたちが市井に繰り出して癒しの聖務を行い、その心付けとして喜捨を頂くのは特別な話ではない。そう考えての発言だったのだが……

 ルシールが静かに言った。


「……我らは、帝国の大神官により、聖務の一切を禁じられておりますが……」


「ふむ……それは良くないな。法を犯す訳にはいかんし……」


 俺はならず者ではない。ここは下界だ。このザールランド帝国にも『法』というものが存在する。


「では、許可を取ろう」


 あっさり俺がそう言うと、修道女シスタたちは、全員、静まり返った。

 見れば、皆、不安そうにしている。


「なに、心配するな。相手は人だ。話せば、きっと分かってくれる」


 そこで奇妙な沈黙があり、ルシールが怪訝そうに言った。


「……話す、のですか……?」


「そうだが……」


 そこでゾイが吹き出すと、何故か修道女シスタたちも全員が揃って強く吹き出した。


「何故、笑う。おかしな事を言ったか?」


 澄ました顔のルシールまでも、顔を逸らして笑いに肩を揺らしている。


「……?」


 意味が分からず首を傾げていると、そこで食堂の扉が強く開け放たれた。


 現れたのは額にバンダナを巻いたエルナだ。強い怒りに肩を震わせている。


「暗夜……お前は! お前は何を言っているのです! 帝国の大神官は、ディートハルト・ベッカーですよ!!」


「……」


 そこでまた修道女たちが静まり返ったが、俺には意味が分からない。この聖エルナ教会の修道女たちを破門したのが以前の俺なら、今のディートハルトは関係ない。むしろ……


「それは面白い。一度くらい、会ってやってもいいと思っていた」


 俺がそう言うと、修道女たちは、全員が揃って大笑いした。訳が分からないが、辛気臭いより余程いい。


「それで、その大神官さまとやらには、何処に行ったら会えるんだ?」


 ルシールは必死に笑いを噛み殺そうとして失敗し、吹き出しながら言った。


「そ、そんなに簡単に会えませんよ」


「それは弱ったな……」


 俺は真面目に言っているが、俺が喋る度に修道女たちは大笑いする。


「何が、そんなにおかしい」


「いや、気の毒すぎて……」


「誰が、どうして?」


 さっぱり訳が分からないが、ゾイは笑いすぎて、目尻に浮かんだ涙を指で拭っている。


「し、神父さま。とりあえず、聖務の許可を出してるのは憲兵団ですから、その詰所に行ってみますか?」


 エルナは、かんかんに怒った。


「お前たちは、全員揃って馬鹿ですか!? そんな事をすれば大騒ぎになりますよ!!」


「なんで、そうなるんだ?」


 俺がそう答えると、修道女たちは、またしても大笑いした。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 前のメンバーが揃ってきて嬉しい!これからの展開が楽しみです。 [一言] 使徒なんだし、いちいち人に許可をとる必要あるのか?俗世の法に従おうとするのはとてもらしいけどね。
[一言] 自分の尻尾を追っかけてる猫みたいな挙動してる…
[一言] あー、感想欄見てようやく考え至った なるほど、そういう笑いだったのか
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