41 使徒召喚
無限の虚無が広がるそこに、巨大なパイプオルガンがある。何度も試行錯誤を繰り返し、その音色が気に入るまで、幾度となく創り直した。『使徒』としての権能を持つ俺をして、これを創り出すのには苦労した。
俺は言った。
「ピアノとオルガンは、似ているようでいて違う」
ピアノは鍵盤に連動したハンマーが弦を叩いて音を出す。広義において打弦楽器に分類されるが、オルガンは鍵盤に連動して流れる空気が音を出すので、管楽器に分類される。
フラニーが、首を傾げて言った。
「なんです、このデカいの?」
「パイプオルガンだ」
音が育ち、年々、響くようになって行く。『パイプオルガン』は……この音色の素晴らしさは、これぞ俺の世界の人類の叡智と呼べるものだ。
「素晴らしいだろう」
「はぁ、まぁ、そうなんスね……」
まぁ、ピアノとオルガンは違う。オルガンには足鍵盤がある。ピアノが弾けるからといって、オルガンが弾けるとは限らない。慣れるのに苦労したが……
――奇妙な部屋。
デュランダルを帯剣したロビンが、静かに言った。
「……暗夜さん。全員、集まりました……」
「そうか」
腕が鳴る。俺は椅子に腰掛け……鍵盤に静かに指を掛ける。
――『主よ、人の望みの喜びよ』――
ヨハン・ゼバスティアン・バッハが1723年に作曲した。
虚無の闇にパイプオルガンの旋律が拡がって行く。
俺は静かに言った。
「……バッハは、全ての楽曲を神の為に作った……そして神は……バッハを奏でる為にパイプオルガンを作った……」
そのパイプオルガンの荘厳な旋律にエミーリアは跪き、静かに祈りを捧げている。
理解できないフラニーとジナは首を傾げていて、ロビンは溜め息混じりに首を振る。
囁くように言った。
「……野蛮人には勿体ないですね……まぁ、そこら辺も課題の一つでしょうか……」
その呟きはパイプオルガンの旋律に流されて消えて行く。
一方、マリエールとアイヴィは、ソファに腰掛け、静かに聞き入っている。
そして――
逆印を隠すようにバンダナを額に巻いたエルナが、少し離れた場所で、俺に憎悪の籠った視線を送っている。
神力が回復し、俺は元の使徒『暗夜』の身体に戻った。行動のとき。
さて……『神』の登場には、ある種の神聖さと風格と儀式が必要と信じる俺だが……
エミーリアは祈り続け、ロビン、マリエール、フラニー、アイヴィ、そしてジナまでもが跪き、静かに頭を垂れて、その顕現に息を飲む。
やはり来たか……
――親愛なる、邪悪な母。
青ざめた唇の女。癒しと復讐を司る呪われた女神。背後に居ても、その邪悪さと神性は隠せない。
ただ……
翼を失った天使だけが、背後に立つその存在に気付かず、憎悪の視線を向けて俺を呪っている。
俺は邪悪な母に、次なる楽曲を捧げる。
「……聖アウグストは……この曲が好きだった……」
『G線上のアリア』。ヤツは、どんな気持ちでこの曲を聞いていたのだろう。
エルナが忌々しそうに言った。
「お前に、アウグストの何が分かるというのです」
「……」
おそらく、アウグストは自らの『死』を予感していた筈だ。ヤツは、その最期まで母を信仰していたと俺は信じる。
「アウグストは偉大な勇者だった。万人に尽くし、万人の為に命を捧げたあの男は、使徒の中では枢機卿と呼ばれ、敬意を払われる存在だった」
背後に立つ存在に気付かず、エルナが圧し殺した声で呟いた。
「……死神……暗夜……お前が死ねば良かったのに……!」
俺は構わず、アウグストへのレクイエムを奏で続ける。
邪悪な母も、まるでアウグストの死を悼むかのように、静かに聞き入っている。
アリが象の巨大さを意識できないように、エルナだけがその場に立っている。それは酷く滑稽な光景で……
「……暗夜、暗夜……呪われた男……人殺し……」
そのエルナの呪詛を聞いても、邪悪な母は何も言わない。翼を失った天使の存在を一顧だにせず、静かにその場に佇んでいる。
さて、我が親愛なる母は、聖なる者か、悪なる者か。俺は何も言わない。誰も何も言わない。エルナだけが、その存在に気付かずいる。
やがて、アウグストに捧げるレクイエムが終わり、母は静かに姿を消した。
最後まで、母の存在に気付く事がなかったエルナを、この場の全員が憐れむように見つめていた。
◇◇
俺は言った。
「部屋の『軸』を、『俺』に変更する。時は動き出す。その瞬間は、何が起こるか分からない。各自、備えろ」
そして、一度『軸』を変えてしまえば、もう同じ環境には戻せない。そもそも、あの部屋の現象は偶然の産物に過ぎない。十分、恩恵を受けた。これ以上、時間を縛り付ける事は、母も感心しないだろう。
「マリエール、お前は残って部屋を管理しろ」
部屋の軸を俺に変更する事で、未だ燃える『前室』を経由せず、『現在』に直接跳ぶ事が出来る。
俺は『外出』する。
先ず、白蛇に会い、ベアトリクスとディートリンデとの面会を取り付ける。元第十使徒『クラウディア』の暗殺依頼と、前室の火消し依頼が目的だ。
「ロビン、お前も残れ。フラニーとジナを、もう少し使えるようにしろ」
「……御意」
ロビンは、一瞬、眉間に皺を寄せて不服そうにしたが、それでも頭を垂れて命令に従う意思を見せた。
俺は厳しく言った。
「フラニー、ジナ。弱い者は連れて行けない。暫くはロビンに鍛えてもらえ。一定の実力に達しなかった場合、そこまでだ。もう二度と会う事はない」
「は、はい……」
先の使徒の戦いでは、フラニーもジナも為す所がなかった。二人は悔しそうにしながらも、納得して頷いた。
「……アイヴィ、お前は俺に付いてこい……」
「分かりました。主」
アイヴィは嬉しそうに微笑んだが、その瞬間、全員が顔に不満の色を浮かべた。
俺は、小さく咳払いした。
「なんだ。お前たち……」
別に男同士で気軽だからとか、身の回りのあれこれを任せるのに適しているからとかいう理由では……嘘だ! 俺は、この従順で大人しいアイヴィを気に入っている。
そこで、エミーリアが元気よく手を挙げた。
「はいはい! 私は!?」
「……」
万が一の為に、このエミーリアを残して置きたいというのが本音だったが……それはもう、ロビンに任せてしまって構わない。
「……好きにしろ。お前は使徒だ。俺に命令する権利はない……」
エミーリアは元気よく言った。
「じゃあ、一緒に行くー!」
「……」
「ちょ、あんた、なんでそんな嫌そうな顔すんのよ!」
嫌だからに決まっている。
こいつは我儘で、俺の言う事など一切聞かない。何かと融通の利く白蛇は別にして、ベアトリクスやディートリンデとの交渉で、やらかされたら目も当てられない。
俺が小さく舌打ちすると、エミーリアは忽ちムッとした。
「うわ、あんた最低! なにその態度……!」
「やかましい。お前は、あれも嫌だ、これも嫌だと、役に立った例がない」
そこで、エミーリアはみるみるうちに項垂れ、それまでの元気が嘘だったかのように大人しくなった。
「それは、ごめんなさい……」
「うん……? いや、ああ……言い過ぎた……すまなかった……」
まあ、ここまでで役に立ってないのは事実だが、癒しと戦闘を高いレベルでこなすエミーリアの存在は心強い。しかし、素直に謝られると、こちらも困惑してしまう。
「お、おい、元気のよさだけが、お前の取り柄だぞ……」
「だけって何よ! もう!!」
エミーリアは、かんかんに怒った。
だがまあ……色々と思い悩む事の多い俺が、エミーリアの天真爛漫な気質に救われているのも事実だ。
そこで、一同、気が抜けたように笑ったが、取り残されたエルナだけは困惑して、あちこち視線を泳がせている。
「え、あ……わ、私は……どうすれば……」
俺が関知すべき問題ではない。フラニーとジナが一般常識を叩き込むだろう。話はそれからだ。
「……さて、軸を変えるぞ……」
その俺の言葉に、一同、表情を引き締める。俄に空気が緊張する。指を鳴らす。いつもの合図。
その瞬間、『雨の部屋』のディートハルトから『軸』が俺に変更される。
何が起こるか分からない。そう言った俺だが、襲撃を受ける可能性は低い。『部屋』での俺の強さを知るクラウディアが、自ら乗り込んで来るとは考えづらい。何も起こらない。
――その筈だった。
部屋の軸を変更し、時を動かした瞬間、それは起こった。
「…………」
俺は……何も考えられなくなった。
「先生?」
「師匠?」
「暗夜さん?」
皆、何か言っているが、俺は何も答える事が出来ない。答えるつもりもない。
その俺を、エミーリアが睨み付けるようにして見つめていたが、苦虫を噛み潰したような表情で首を振った。
「はぁ? これ、召喚術じゃん……今……?」
何も考えられない。ただ、呼ばれている。喚ばれている。降臨を祈り乞われている。天使には天使の『掟』がある。第十七使徒『暗夜』は、真摯な祈りに逆らえない。
強い『祈り』という呼び掛けが、一定値を超えた。使徒『暗夜』は逆らえない。召喚に応じる義務がある。引っ張られる。その吸引力に逆らえない。逆らうつもりもない。
やれやれと溜め息を吐き出したエミーリアが俺の手を掴み、もう一方の手でエルナの襟首を捻り上げた。
「な、何を……!」
「あんたも来なさい。あんたは、受け止める義務がある」
「……っ!」
そこで、憎悪と嫌悪に満ちた紫の瞳と目が合って、エルナは俺に唾を吐き掛けた。
ねっとりと糸を引く唾液が、顔を伝って流れ落ちる。それすら俺は意識せず、呟いた。
「……今、行く……」
何もかもがそうだが、思った通りに事が運んだ試しは、一度だってない。
エミーリアが、ロビンたちに手を振った。
「こっちは大丈夫よ。あんたたちは、あんたたちのするべき事をしなさい」
俺は、俺に捧げられる真摯な『祈り』という喚び掛けに応えて、跳んだ。