39 神のみぞ知る
第十七使徒『暗夜』は深い眠りに就き、その身体は書斎にあるベッドに安置されている。
呼吸すらせず、ひたすら眠っている。こうする事で神力の回復は早まるが……死んでいるようにしか見えない。
頬に平手打ちしてみたり、鼻の穴に指を突っ込んだりしてみたが、生理反応の一つもない。
「ディートさん、悪戯したら駄目ですよ」
やろうと思えば、この瞬間にも元の身体に戻る事は可能だが、それをすると、ロビンを本格的に怒らせる事になる。
「……」
俺は小さい十歳の少年、ディートハルト・ベッカーの両手を見つめる。
こいつは『俺』という一冊の本の、違うページと例えればいいだろうか。根本的な部分を同じくしている。アストラルパターンが酷似している為、憑依する事が可能だ。よく馴染む。違和感のようなものは感じないが、それだけだ。デメリットが多すぎる。
先ず身体のデカさが違う。次いで身体能力が違う。十歳の子供の身体だから、使徒のフィジカルとは比較にならない。おまけに神力の出力も弱まる。それでも人間としては最高峰クラスの『神官』ではあるが……使徒である俺には、非常に心許ない。
神力が回復するまで、本来の身体には戻らない。『ディートハルト・ベッカー』でいる間は、ロビンの言う事を何でも聞く。
それが、ロビンに与えた『ご褒美』だ。
「なあ、ロビン。お前は、ディートハルトが好きなのか?」
「はい? 大神官の方ですか?」
俺がディートハルトをやっている間、ロビンは非常に穏やかで大人しい。フラニーたちに対する侮辱的な言動はなくなり、エミーリアに対しても一定の敬意を払うようになった。
ロビンは、少し困ったように眉を寄せた。
「そっちには、興味ありませんね。会えば、少しは心が動くかもしれませんが……」
書斎には、俺とロビンの二人きりだ。俺は適当に本を読んだり、瞑想したり、はたまた思索に耽ったりして時間を過ごすが、ロビンは山積みになった本を整理したり、新しく創造したキッチンで料理を作ったりと忙しなく動き回っている。
「ディートさん、パンケーキが焼けましたよ。一緒に食べませんか?」
「ん……」
このディートハルトの身体は、あくまでも擬似体だ。食事の必要はないが、今はロビンの望みを優先している。
ロビンの望みは、全て他愛ないものだ。一緒に食事したり、本を読んだり、入浴したり、眠ったり。エミーリアは変態扱いしていて、俺もてっきりそういう事が目的だと思ったが、ロビンが望んだのは、あくまでも平和な日常だった。
俺がフォークとナイフでパンケーキを食べる姿を、ロビンは優しく微笑んで見つめている。
「……ディートさんは、綺麗な食べ方をされますね……」
「……そうか? この食べ方しか知らんだけだが……」
「それって、異世界の作法ですよね。貴方は理解してませんが、所作の端々にそういう所が見受けられます」
「ふむ……」
俺は稀人だ。日々、繰り返して身に染み着いた物は、悪食の蛇でも食い切れないようだ。
「不思議な綺麗さがあるんですよ、貴方は」
「おべっかを言っても、何も出ないぞ?」
「うふふ……そうですね。貴方は、そのままで居て下さい」
ディートハルトをやっている間、ロビンを無視する事は約束違反になる。下らない日常会話にも答える義務がある。また、会話を振る義務もある。神官の俺には苦行でしかないが、ロビンはその会話を楽しんでいるようだった。
「なあ、ロビン。お前はムセイオン出身だったな……」
「はい。そうですよ?」
ローランドから奪った聖剣デュランダルは、無造作に虚無の床に転がっている。今のロビンには必要ないのだろう。
「お前は何でも出来るな。戦士としては非の打ち所がなく、頭もいい。勘も鋭い。気が利いて料理も上手い。家事も問題なくこなす。礼儀作法も綺麗だ。これらは努力なくして身に付ける事は困難な技術だ。何が、お前をそうさせたんだ?」
俺にとって、レネ・ロビン・シュナイダーという女は理解不能な女だった。こいつは一流の騎士であると同時に『女性』としてもレベルが高い。ここ数日で感じた事がそれだ。
一方、ムセイオンで鍛えたフラニーやジナは、戦士としての力は身に付けたが、女性としては、はっきり言って魅力を感じない。ジナは食事をすれば汚いし、フラニーは気が立てば言葉遣いや態度に粗が出る。
勿論、この述懐は二人には口が裂けても言えない事だ。ロビンは、性格以外の全てに於いて、二人を圧倒している。
ロビンは不思議そうに言った。
「……通常、汚い言葉遣いや見苦しい所作を好む者は居ません。そういった行為をなんとも思わない者は、低いレベルの者でしかありません。例えばですが……誰かを愛したとします。レベルの高い理想的な人です。やはり愛されたければ、それに見合う物を身に付けなければならないと思うのですが……」
「そうか……お前の考え方は、素晴らしいな……」
狼人は優生種だ。そして、努力を惜しまない。そのロビンの考え方を聞いた今は、傲る理由もよく分かる。
そんなロビンは、言った。
「ムセイオンでの日々は、地獄そのものでした。あそこは全てが汚い。ディートさんが焼いたと聞いて、流石だと思いました」
俺にとって、ムセイオンでの虐殺は忘れたい事の一つだ。あれを好んでやったと思われては困る。俺は殺人快楽者ではない。
ロビンは悲しそうに言った。
「……そんな顔をしないで下さい。あれで救われた者も居ます。そうでなければ、ムセイオンの戦士たちが貴方に敬意を払う筈がない……」
普段なら黙る所だが、今の俺は、無理にでもロビンと話す必要がある。
「……おかしな事だが、真実と過ちとは源泉を同じくする場合が多い。それ故、過ちを疎かにしてはならない。それは、同時に真実を傷付ける事になるからだ……」
複雑な胸の内を吐露する俺を、ロビンが瞬きすらせずに、じっと見つめている。
俺はその視線に耐えきれなくなり、俯く事で視線を避けた。
「……過ちを認めるのは容易くある。過ちは事の表面にあり片付け易い。しかし、真実は深い場所にあり、それを掴むのは容易い事ではない……」
◇◇
誰もが正しいと呼べる事を知っている。しかし、それを言葉にすれば、忽ち事の本質から遠ざかって行くという事を誰も知らない。
《アスクラピア》の言葉より。
◇◇
いつだってそうだが、俺は自分の行為に自信がない。
「……すまない、ロビン。これ以上は勘弁してくれ……」
約束を破ってしまう事になるが、俺は、これ以上『俺』を語りたくない。どうせ、言い訳じみた事しか言えない。それは如何にも見苦しく、つまらなくもある。
ロビンは、ぽろりと涙を流し、嗚咽混じりに言った。
「ぃえ、こちらこそ、無理に言わせてしまって……本当に、すみません……」
悩みは絶えない。同情は役に立たない。後悔は尚更役に立たない。斯くして俺は沈黙を選ぶ。
果たして俺は、善なる者か、悪なる者か。
全ては神のみぞ知る事だ。
「……」
深く物思いに沈む俺を、ロビンが抱き上げて膝の上に座らせ、腰に手を回して来る。
「なぁ、ロビン……」
背中から抱き締められる格好になり、俺の耳元で、ロビンは掠れた声で囁いた。
「……こうして居たいんです。今は、じっとして居て下さい……」
これがなければ、ロビンとの生活もそんなに苦痛ではなかっただろうに……
「……今、貴方の心に触れてます……」
どうにも……ロビンと居ると、俺は口説かれているような気がして不安になる。こいつを好きになると、俺は色々と終わるような気がして仕方がない。
「……」
優しい時間が流れる。不快じゃないのが、慣らされているような感じがして怖い。
不意に、思い出したようにロビンが言った。
「……ディートさん、まだ聖エルナの事で悩んでいるんですか……?」
それは、今、一番触れられたくない問題だ。俺は一遍に不愉快になり、身を捩ってロビンから離れようとしたが、ロビンは力任せに俺の腰を抱き寄せて離さない。
「……確か、人工勇者と人工聖女の討滅が、ディートさんの今の当為ですよね……?」
「そうだ……! それがエルナの事と何の関係がある! 離せ!」
どうせ、ロビンはエミーリアやフラニーと同じ事を言うのだろう。裏切者を罰しただけだと。気に病む必要などないと。
うんざりだ……!
ロビンは、本当に不思議そうに言った。
「……聖エルナは、あれは人工聖女ですよね……?」
時が止まった。