38 狼の得た報酬
『逆印』の呪詛は特殊な術だ。母の怒りと嘆きなくして刻めない。
勿論、俺がした事だ。
分かっている。だが、白蛇やエミーリアに任せれば、エルナは殺されていただろう。
使徒としての力を失ったエルナは、ただの人間になった。それ故、白蛇もエミーリアも今のエルナを裁く事はしない。
だが、これではあまりに救いがない。
そこで、俺は指を鳴らしてエミーリアを召喚した。
その瞬間――
「死ね! 変態狼が!!」
俺は、メイスを振り上げた格好で現れたエミーリアを、ひょいと抱き上げ、山積みになっている本の上に座らせた。
「あれ、暗夜……?」
きょとんとしたエミーリアに、俺は溜め息混じりに言った。
「エミーリア、いい加減にしろ。ロビンは、俺を困らせたくてやっているんだ。それを真に受けるな」
「あ……うん……」
エミーリアが『書斎』に入ったのは初めてだ。周囲の状況を確認して、それから口をへの字に曲げた。
「落ち着け。ロビンとは俺が話す。それでも、あの態度が直らんようなら、あいつには罰を与える。それで納得しろ」
問題は、一つずつ解決するしかない。
「エミーリア。お前が、しっかりしてくれないと困るんだよ」
俺がベアトリクスやディートリンデと交渉するのはいい。だが、その間、俺は部屋を空ける事になる。
前室が燃えている間は、フラニーやジナ、アイヴィは『現在』に戻れない。マリエールではロビンを押さえる事が出来ない。
俺は言った。
「力が回復次第、『軸』を変える」
この『部屋』の軸を、擬似体のディートハルトから『俺』に変更すれば、時間軸は『現在』に戻る。それで時間は再び前に進む。
エミーリアは意外そうに言った。
「え、あんたが行くの?」
「ベアトリクスとも、ディートリンデとも会いたくないと言ったのは、お前だろう。俺が行かないでどうする」
時間を動かす事で生じるデメリットもあるが、この際、それは受容する。フラニーたちをここで朽ち果てさせる訳には行かない。これで懸念の一つが解決する。
「ちょ、クラウディアに狙われたらどうすんのさ」
「危険は承知の上だ」
とにかく前室の炎を消さない限り、フラニーたちの行動は制限される。性格は最悪だが、ロビンが使えないのはあまりに惜しい。
「エミーリア、留守中は預ける。ここに留まるなら、せめて留守番ぐらいはしろ。出来るな?」
「え、やだよ」
エミーリアは、至極当然のように言った。
「なんで、私があんたの言う事を聞かなきゃ行けないの?」
「なら、出ていけ」
話し合うつもりはない。このエミーリアの存在も、俺の悩み事の一つであるからだ。もう十分以上に謝った。何もせず、俺を困らせるばかりの厄介者を置いておく理由は何一つない。
指を鳴らそうと右手を上げた瞬間、エミーリアは、ぎょっとして俺の身体に抱き着いた。
「分かった分かった分かった! 留守番する留守番する留守番する!!」
敏感に俺の本気を感じ取ったのだろう。エミーリアは、恨めしそうな顰めっ面で言った。
「分かったよ……そんなに怒る事ないじゃん……」
「やかましい。お前は俺を困らせたいだけだろう。ロビンと何処が違う」
ロビンと同一視され、エミーリアはカチンと来たようだ。上目遣いに俺を睨み付けて来た。
「そこまで言うんだったらさ、なんとかしてよ。あいつ、冗談抜きにして『強い』よ? あんたが留守にすると、それこそ滅茶苦茶すると思う」
「……分かった」
エミーリアの言う事は尤もだ。ロビンが本気を出せば、使徒であるエミーリアをして抑える事は難しい。不本意だが、ロビンが納得する形で事を収める必要があるだろう。
それから暫く、エルナの状態を伝えた上で、その処遇についてエミーリアと話し合った。
エミーリアは、険しい表情で言った。
「……下界に落として、『人』としての生を歩ませるしかないだろうね……」
「……そうだな。ここに居ても、どうしようもない……」
だが、エルナには『逆印』がある。母の怒りを受けた明確な証拠だ。下界に送るのはいいが、下手な場所に送ると、すぐにも殺される危険がある。
「それは仕方ないね。あの子は、それだけの事をした」
母を裏切った。最古の使徒『聖エミーリア』は、それだけは絶対に赦さない。
エミーリアは厳しく言った。
「暗夜。母に代わって明確な裁きを下すのも、私たち使徒の仕事だよ」
「……ああ、分かってるよ……」
エルナに逆印の咎を与えた俺が悩むのも、本来はおかしな話なのだ。容赦ないエミーリアの言葉にも、返す言葉は存在しない。
俺は疲れ、ソファに腰掛けて両手で顔を覆った。
「……暫く考えさせてくれ……」
何処か、エルナが安全に、心安らかに暮らせる場所はないだろうか。
矛盾だ。矛盾している。
それが分かっていて尚、俺は矛盾のある所を流離う。
「暗夜、あんたは間違ってない。使徒として、すべき事をした。悩むのは違うね」
「師匠……」
「あ、あう……」
きっと、母は、俺のこの苦悩を見つめているのだろう。見守っているのだろう。
◇◇
エミーリアらを伴って『リビング』に帰ると、そこにはコンソールに向き合ったマリエールと、仏頂面のロビンが俺の帰りを待っていた。
俺を見るなり、ロビンが朗らかに笑った。
「お帰りなさい、暗夜さん」
俺は鼻を鳴らした。今すぐにでも、この傲慢なレイシストをアルフリードの血潮で燃え盛る部屋に叩き込んでやりたいが……
悩みは、一つずつ解決するしかない。
「……ロビン、お前の望むモノを与えるのは嫌だ。だが、俺の言う事に従うなら、少しの期間、妥協してやってもいい……」
「……」
そこで、ロビンは驚いたように目を見開いた。
「……本気ですか?」
「ああ、俺の神力が回復するまでの間だけだがな」
「……」
「迷えば、どんどん時間は短くなる。俺が回復してしまえば、二度と会えない。会わせない。この場ですぐ決めろ」
「…………」
それまでのふざけた態度を真剣なものに変え、ロビンは何度も唾を飲み込んだ。
「無駄に騒ぎを起こすな。フラニーたちを侮辱するな。次はない。今度、俺を怒らせれば、お前を部屋から叩き出す。何度でも叩き出す。死ぬまで赦さない」
「……」
「何か言え」
ロビンは瞬き一つせず、何度も唾を飲み込んで、それから小さく頷いた。
俺は言った。
「この変態め」
そして、虚無の闇から『それ』を引っ張り上げるようにして取り出した。
銀色の髪。黒い瞳の十歳の少年。ディートハルト・ベッカーの擬似体だ。魂と呼べる物は存在しない。
使徒の半数が死ぬ戦いを経て、ロビンが望んだ物はこれだ。
ディートハルト・ベッカー。
ただし、ザールランドで大神官をやっているディートハルトじゃない。以前の俺だ。
俺とディートハルト・ベッカーのアストラルパターンは酷似している。他の擬似体では不可能だが、このディートハルト・ベッカーの身体に限り、魂魄を移す事が出来る。
やりたくはない。幾ら酷似しているとはいえ、本来のものと違う身体だ。力が弱まる。
だが、ロビンの口を塞ぐにはこれしかない。
全く忌々しいが……
次の瞬間、使徒『暗夜』は眠りに就き、変わってディートハルト・ベッカーが目を覚ます。
その場の全員が巨大化したような感じがするが、実際は俺が小さくなった。
フラニーが感心したように呟いた。
「おお、すげー。マジで昔の師匠じゃん」
俺は、少年の甲高い声で言った。
「これで満足か? この変態め」
「……」
ロビンは……ディートハルトになった俺を見て、コバルトブルーの瞳から大粒の涙を流した。
「ディートさん……」
「……」
違うと言ってやりたいが、この変態はディートハルト・ベッカーである俺に拘りがある。
「ディートさんっ……!」
「ああ、聞こえている。煮るなり焼くなり好きにしろ」
エミーリア、フラニー、ジナが揃って呆れたように首を振った。
その次の瞬間、煙のように掻き消えたロビンが目の前に現れ、胸に押し付けられるようにして俺は強く抱き締められた。
ロビンは俺を抱き締めたまま、泣きながら笑っていた。
「うふふ……うふふふふふふ……」
ロビンの流す涙の雨に打たれながら、俺は複雑な心境だった。
おそらく、レネ・ロビン・シュナイダーは、これで漸く本当の正気に戻るのだろう。少なくとも、意味のないトラブルを起こすような存在ではなくなる。
漠然とだが、そう思う俺が居た。