37 使徒の日常2
書斎に籠り、暫く読書して過ごした。
書斎に山積みになっている本は全て読んだが、この時、読み返したのは、三百年以上昔、勇者アウグストらが討滅した『魔王ディーテ』の伝承だ。
あくまでも言い伝えだ。
子供に読んで聞かせるようなお伽噺が殆どで、大した事は描いてない。
かつて『勇者』アウグストらは、氷の大深層で『魔王』ディーテを討ち取った。
勇者アウグスト。剣聖ローランド。聖騎士ギュスターブ。そして……聖女エルナ。
魔王討滅後の彼らの人生は、決して幸福なものとは言えない。
アウグストは王政に逆らった反逆者として公開処刑され、エルナは魔王ディーテとの戦いによる衰弱が原因で晩年は寝たきりだった。その後、ギュスターブは姿を消し、一人残ったローランドは世界中を旅して回った。どの国にも仕官する事なく、生涯独身だった。
「……」
そこで一息ついた俺は、読み掛けの本を閉じた。
『氷の大深層』
『魔王ディーテ』
そして、近い内に交渉する事になるだろう『氷騎士』ディートリンデ。
「まさかな……」
あぁ、気のせいだ。そんな事はない。あのしみったれが、いかに訳の分からん存在であったとしても、そんな事だけはしない。そう思いたい。
第十五使徒ディートリンデ。
四つの耳を持つ片眼鏡を掛けた茶髪の女騎士。エルフであるが、異形故に故郷を追われた。その境遇を憐れんだアスクラピアに拾われた。気位が高いが、気軽に人間の召喚に応じるような気さくな一面もある。氷刃『エア・オリエント』の使い手。
そうだ。
ディートリンデの事に関して、分かっているのはそれだけだ。彼女がどのように生きたかは分からない。
「……」
OK、俺は何も見てない。何も疑ってない。嫌な予感なんてしない。しかし……閉じたばかりの伝承本を、じっと見つめる俺が居る。
実際、ディートリンデと会うまでは何も言えない。彼女と話してみて、どう感じるかだ。
俺は強く頭を振って、物思いを打ち切った。
「フラニー、聞こえるか?」
俺とフラニーの間には師弟の絆がある。声だけという条件付きではあるが、『部屋』の中でだけは念話による意思疎通が可能だ。
暫くの間があって――頭の中にフラニーの声が響いた。
……はい、師匠。オレです……
「書斎に呼ぶが、いいか?」
……どうぞ。ジナもいいですか……
「ああ、構わない。むしろ会いたかった」
何もしなくても、悩みは多くなるばかりだ。
俺は指を鳴らして、フラニーたちを書斎に呼びつけた。
◇◇
部屋に呼びつけた瞬間、フラニーとジナは忽ち恐縮して、その場に跪いて頭を下げた。
俺はソファに腰掛けたまま、右手で顔を拭った。
「すまないな、フラニー。暫く会ってやれなくて……」
「い、いえ、とんでもありません! 師匠が、そんな……」
「言うな、フラニー。不出来な俺を赦せ……」
安心してエルナの世話を任せきりにした事もそうだが、その他の事にかまけて、フラニーを蔑ろにした事に変わりはない。
そこで、フラニーは眉を下げ、困ったように俺を見た。
「なんだ? 何か変わったか?」
「いえ……やっぱ、師匠は今の姿の方がしっくり来るなって……」
「訳が分からん。もっと分かりやすく言え」
それからのフラニーは、以前の俺……『ディートハルト・ベッカー』であった頃の俺と今の使徒『暗夜』である俺とを引き合いに出して言った。
「以前の師匠は……なんつうか、ガキのなりと言葉遣いが合ってなくて違和感があったんですけど……今は自然というか……」
「元々、このなりだ。そういう意味では、違和感があるのは当然だな」
今の俺は、人間の年齢で言えば三十歳程度の姿格好だ。
「駄目だったか?」
「そんな! まさか!!」
何故かいきり立ったフラニーだったが、大声に顔を顰めた俺を見て、慌てて口を噤んだ。
「残念だが、俺には記憶がない。昔話をされても困る」
「は、はい。すみません……」
そこで、暫く沈黙があった。
へっへっ、と鼻を鳴らして俺に駆け寄ろうとしたジナの尻尾を捕まえて、フラニーは少し考え込む様子だった。
「どうした、フラニー」
「いえ……」
ややあって、顔を上げたフラニーは、いつになく強い視線で俺を見つめた。
「その、師匠。アビーの事を覚えてますか……?」
「アビー? 誰だ、それは……」
フラニーは、殆ど睨むように俺を見つめている。まるで挑むような目付きだった。
「アビゲイルです。パルマの……」
「ああ、女王蜂か。下界の者だな。名前ぐらいは知っているが、それがどうかしたか?」
フラニーは、ぱっと笑った。
「いえ、なんでもないです。失礼しました」
「……?」
訳が分からないが、フラニーは安心したようだった。
その後、話は自然な形で現状の報告になった。
「こっちは、マリエールが色々やっているが、まだ火が消えん。忌々しい事だ……それより、エルナはどうだ? どうしている?」
「……」
そこで、フラニーは眉間に皺を寄せた険しい表情で、ジナと確認するように視線を合わせ、顰めっ面で言った。
「とんでもないクソガキです。偉そうにしてる癖に、びっくりするぐらい何も出来ません」
「……」
生前のエルナは聖女として国の厚い保護を受けていた。魔王討滅の旅ではギュスターブが居たし、使徒になってからは権能で大抵の事は思い通りになった。その力を奪ってしまえば、後に残ったのは頭でっかちの子供だったという訳だ。
そこから先のフラニーは愚痴のオンパレードで、俺はまた強い頭痛に悩まされる羽目になった。
「あのクソガキは、なんの役にも立ちません。一人じゃ火も起こせませんし、当然ですけどメシの支度も出来ません。その癖、口先だけは一丁前で、肉は嫌だ魚も嫌だ、あれも嫌だこれも嫌だと手に負えませんよ……!」
あまりの煩さに、もう帰れと言いたくなった俺だったが、そこで、ちょっとした違和感を覚えた。
「……食事を摂るのか……?」
「はい。なんだかんだ文句は多いですが、ちゃんと食わせてます」
「……そうか。排泄や入浴は、どうだ? どうしている……?」
その俺の問いに、フラニーは露骨に嫌そうな顔になった。
「なんすかソレ。オレたちが世話をサボってるとか言いたいんですか?」
「違う、そうじゃない」
ロビンやエミーリアでも大概なのに、久し振りに会った弟子にまで噛み付かれると、俺としては気分が滅入る。
フラニーも溜め込んでるものがあるのだろう。顔を赤くして怒鳴った。
「師匠、そんなにあのクソガキが気になるんスか!?」
「……」
俺は『神官』だ。何がどうなろうと、根っ子の部分は変わらない。騒がしいのは好きじゃない。
「常に慈悲深く情け深くあれ! そう言ったのは師匠だろ! でもあのクソガキは、師匠を背中から刺した! それでも憐れに思ったからこそオレは――」
まだ言葉の途中だったが、ジナが思い切りフラニーの爪先を踏んづけた。
「――痛っ! ジナ、てめえ何しやがる!」
激昂していたフラニーの爪先を踏み潰したジナが、澄ました顔で静かに言った。
「フランキー、うるさい。だまれ」
◇◇
目がある者は見るべし、耳ある者は聞くべし、金ある者は使うべし。能ある者は、そっと黙っていよ。
《アスクラピア》の言葉より。
◇◇
深く足を組み、肘掛けに肘を付き、首を傾げた姿勢で話を聞く俺の様子に、フラニーはハッとして黙り込み、慌てて跪いた。
俺は、短く溜め息を吐き出した。
「フラニー。俺は、お前の慈悲深さを誇らしく思っていたが、今の言葉はエルナだけでなく、お前自身の行動と尊厳をも傷付けるものだ」
フラニーは恐縮して、身体を縮めて俯いた。
「控えろとも寛容になれとも言わないが、ここに居ない者を貶める事は、お前自身も貶める」
「はい……すみません……」
「うん、分かればいい……」
フラニーのこの苛立ちも、俺の至らなさが生じさせたものだ。あまり強くは叱れない。
俺は痛む眉間を揉んだ。
「……フラニー、お前の目から見たエルナは『人間』に見えるか……?」
そう。第三使徒『聖エルナ』は人間ではない。本来は食事も入浴も排泄も必要ない。だが、フラニーの言うエルナは、正しく人間そのもののようにしか聞こえない。
「……っ!」
俺の意図する所に思い至り、フラニーは険しい表情で息を飲む。言った。
「……はい、すみません。そういう意味でしたら……聖エルナは……」
罰を与えたのは俺だ。分かっている。分かっているが……やりきれなさに、俺は顔を背けて息を吐く。
フラニーは、改めて言った。
「聖エルナは、ただの人間です。間違いありません」
「やはり、そうか……」
斯くして――力を失った天使は地に堕ちた。
これも、エミーリアが言うところの『神性』というヤツだろうか。
思った。
慈悲など掛けず、いっそ殺しておくんだった。
そうすれば……悩まずに済んだのに……