36 使徒の日常1
『前室』の炎が消えない。
過去に縛り付けてある『後室』に留まっているからという理由もあるが、アルフリードの燃える血潮で放たれた炎は、一向に消える気配がない。
虚無に浮かぶディスプレイには、未だに燃え盛る前室の様子が映し出されている。
「くそッ……アルフリードめ……」
使徒である俺とエミーリアは問題ないが、後室に留まり続けるのはフラニーらのような下界の『人間』にはよくない。長命種のエルフであるマリエールなら影響も少ないが、命ある存在は『現在』に縛られる。この状態が続くと、フラニーらは『後室』の影響を受け、歳を取るだけでなく『現在』に対応できなくなる。
フラニーたちだけでも下界に送り返せたらいいのだが、話はそう簡単には行かない。
下界に帰るには『前室』を経由する必要がある。使徒である俺とエミーリアなら問題ないが、フラニーたちは、業火に燃え盛る『前室』に入った瞬間にも燃え尽きる。
俺は、早急に前室の炎を消す必要があった。
「エミーリア。早急にディートリンデと会いたい。出来るか?」
「あんたが、自分でやりなよ」
先日の冗談は、却ってエミーリアの機嫌を損ねた。以降、エミーリアの眉間には常に深い皺が寄っていて、俺を見る時は、胡乱な物を見るように目を細める。
結果として、俺は再度謝罪をする羽目になった。
「……もうしないよ、エミーリア。お願いだから、機嫌を直してくれ……」
跪き、手を取って顔を見上げると、唇を尖らせたエミーリアは、満更でもなさそうに口元を緩め、それから顔を逸らしてしまう。
「……もっと謝って」
「すまなかった、エミーリア。この通りだ」
「もっと」
俺は『成り立て』だ。使徒としての経験は浅く、他の使徒と連絡を取る方法は限られる。
「お前だけが頼りなんだ。許してくれ……」
「……もっと」
俺は短く聖印を切り、頭を垂れる。
「聖エミーリア。俺の無思慮な行動を許してほしい。あんな事は、もう二度としないと約束する。お願いだよ。この通りだ……」
「……もっと!」
エミーリアは顔を逸らしたままで、俺を見る事すらしない。
困り果てていると、いらない助けの手が差し伸べられた。
俺の無限謝罪を受けるエミーリアの様子に辟易したロビンが、やれやれと溜め息混じりに言った。
「修道女、エミーリア。貴女の性癖も大概歪んでますね。私の事をとやかく言えないのでは?」
「あ? 黙ってろよ、変態狼人」
エミーリアの眉間に寄った皺が更に深くなり、可憐な唇から飛び出したのは、それまでに聞いた事もないような野蛮な言葉だった。
「お前と同じ変態にするなよ。あ? クソ狼人。暗夜に執着する変態が、誰に向かって言ってんだ。ええ?」
「……」
その口汚さに驚く俺に、ロビンがそれ見たことかと首を振った。
「聞きましたか、暗夜さん。これが修道女エミーリアの正体ですよ」
「エミーリアの、正体……?」
俺が首を傾げると、エミーリアは、あからさまにギクリとした様子で顔を強張らせた。
ロビンは、ふふんと鼻で嘲笑った。
「千年モノの拗らせ処女ですよ。暗夜さんの謝罪が気持ちよくて堪らないんです。とんだ変態ですね」
「……」
あまりの言い草に、エミーリアはロビンを凝視して固まっている。
「暗夜さん、修道女というのはクズですよ。ねぇ、修道女エミーリア。『神父さま』の謝罪には痺れますよね?」
「……」
エミーリアは俯き……肩を震わせていたが、その次の瞬間、権能で取り出したメイスを振りかぶってロビンに襲い掛かった。
「テメー、このクソ狼人がッ!」
「おっ、図星ですか?」
ロビンは嘲笑いながら、腰の鞘からデュランダルを引き抜いて応戦する。
「地金が出ましたね、修道女。神父さまが驚いてますよ。いいんですか?」
「――ッ! テメーのせいだ、この野郎!!」
よく分からないが、目の前でエミーリアとロビンの見るに堪えない死闘が始まった。
「あ……」
もう溜め息しか出ない。ここでもう、俺は思い疲れる。
エミーリアの猛攻をデュランダルでいなしながら、ロビンの暴言は止まらない。
「可愛い修道女、エミーリア。ひょっとしなくても、濡れてますか?」
この下品な言葉がとどめになって、エミーリアは完璧にキレた。
「ぶっ殺す!」
この様子では、エミーリアの助力を仰ぐには少し時間が必要だ。
「主、巻き込まれると危険です。こちらへ」
黙って成り行きを見ていたアイヴィに手を引かれ、俺はソファに腰掛けた。
◇◇
あまりにも見苦しい二人の争いに酷い頭痛がした俺が、ソファで眉間を揉んでいると、気を利かせたアイヴィが伽羅水の入ったコップを持って来てくれたので、一息に中身を煽った。
思い出したのは、ゾイの言葉だ。
――修道女は、神父に仕えて一人前です。
長く奇妙な部屋に引き籠った俺には、もう随分と昔の話になるが、そういう事なのだろうか。痛む頭でそんな事を考える。
少し離れた場所では、コンソールに向き直ったマリエールが、前室の炎を消そうとあれこれ試しているようだが、目立った効果はない。火消しは俺も専門外だ。やはり、ディートリンデの助力が必要という結論に落ち着くが……
使徒はタダでは動かない。
ディートリンデと交渉できたとしても、何らかの代償を求められる事は確かだ。
いよいよ疲れ、俺は両手で顔を覆った。
「なんなんだ、もう……」
献身的なアイヴィが、申し訳なさそうに言った。
「その、主。お疲れの所、申し訳ありません。フラニーとジナが面会を希望していますが……」
遠くから聞こえるエミーリアとロビンの罵り合いが酷い。
使徒二人を手に掛け、力を増したとはいえ、日常ではこの有り様だ。神力の回復に努める俺は、暫くは無能と言っていい。
俺は、すっかり弱気になった。
「なんだ、それは。フラニーは俺の弟子だぞ? 俺は、あいつを避ける口実を持たないよ……」
俺は指を鳴らして、アイヴィと共に『書斎』に移動した。
今のところ、後室は幾つかの空間に区切ってある。
マリエールが部屋を総括管理する『リビング』は生活空間も兼ねているが、今はロビンとエミーリアが見苦しい争いを続けている。
そして、『書斎』。俺の個人的な空間で、七十年間に渡って読み上げた本が山積みになっている他には個人用のソファしかない。
一番多くのリソースを割く部屋は、雨が降り頻る夜の港。海があり、鉄のデカい船が停泊しているそこには、部屋の『軸』として作った十歳のディートハルト・ベッカーの擬似体が存在している。便宜上、『雨の部屋』と呼んでいる。
エルナを保護したフラニーらは基本的に雨の部屋に居て、俺は立ち入らないようにしている。
万が一にもエルナに会わないようにする為だが、そのお陰で、フラニーたちとは暫く会ってない。
俺は、両手で顔を覆ったまま、途方に暮れた。
「……フラニーたちは、怒ってるか……?」
この『書斎』を除いて、部屋移動の権限はロビン以外の全員が持っているが、フラニーたちにして見れば、エルナの存在をいいことに、俺に放置されているように思っていても不思議じゃない。
ちなみに、ロビンだけは全室移動できる。あいつはおかしい。権限に関係なく、俺の個人スペースである『書斎』にも出入りできるのはあいつだけだ。
健気なアイヴィが、労るように俺の背中を擦りながら言った。
「……フラニーたちは、怒ってませんよ。もしそうなら、自分が主に近付けません。ご安心を……」
「そうか……お前にまで気を遣わせてしまって、すまない……」
「いいえ。アイヴィは、天使さまにお仕え出来て幸せ者です……」
俺は、短く溜め息を吐き出した。
「天使さま、か……」
俺自身は、そんな上等なヤツじゃない。『天使さま』とかいう呼ばれ方は好きじゃない。
「…………」
アイヴィは、目を眇て俺を見ている。時折、観察するように俺を見る事がある。
「なんだ……?」
不快感から嗜めると、アイヴィは忽ち目を逸らし、慌てたように一礼して、その場を去った。
「……」
また余計な事をしたと、俺は深く溜め息を吐き出して、自らの短慮を嘆く。
アイヴィは賢い。観察されるのは好きじゃないが、あれは過酷なムセイオンを生き抜いたアイヴィに染み着いた癖のようなものだ。悪意からそうした訳じゃない。
アイヴィにも謝らなければならない。またやるべき事が増える。
はっきり言って、戦っている方がまだマシだ。
分かっている。
俺というヤツは、平和な日常には、とことん向いてない駄目なヤツだ。