32 死と罪2
闇に……意識が溶けて流れて行く。分け身を作り過ぎた。無数に存在するその全員が俺だ。
これ以上の『分け身』を作るのは不味い。『奇妙な部屋』に意識が拡散して、『俺』が消えてしまう。
俺は何処にも居ない。同時に、何処にでも居る。全ては同時に進行している。
「フラニー、ジナ、下がれ」
無数に存在する分け身の一人。これもまた俺だ。
『使徒』の戦いを見たフラニーとジナは、ガチガチと歯を鳴らして震えていた。
「……師匠……オレ……オレたち……」
その全てが思惑を超えたのだろう。目に涙を溜め、悔しがるフラニーの髪を、くしゃりと撫でる。
剣聖ローランドが死んだ。
そのローランドとロビンの戦いを間近で見たフラニーとジナは、ショックが大きかったようだ。
「フラニー、ジナ、今は見ていろ。逸るな。焦るな。嘆くな。お前たちには、まだ伸び代がある」
ムセイオンにて六年の時間を掛けて鍛え上げた二人をして驚愕させるこの戦場は、人知を超えた領域にある。
「思う所もあるだろうが、今はロビンを補助しろ。油断するな。流石に守ってはやらんぞ」
「……はい」
フラニーが悔しそうに、しかし、はっきりと頷くのを確認して、俺も深く頷く。
己の未熟を認められる内は、まだ伸び代がある。ロビンがフラニーらを苛めるのも期待する所があるからだ。
◇◇
強化の補助術を解き、肩で荒い息を吐くロビンの肩に手を掛ける。
「ロビン、よくやった。褒美をやる。考えておけ」
このロビンが居なければ、如何に有利な状況とはいえ、ローランドの始末には手を焼いただろう。
フラニーらに対する評価も正しい。俺は、このロビンを戦士として高く評価する。
「どうだ。まだやれるか」
「……まだ行けます、と言いたいですが……流石に身体がバキバキです……明日は筋肉痛ですね……」
ローランドを始末する瞬間の、ほんの一瞬とはいえ、強化は限界を超えた筈だ。しかしロビンは未だ戦場に立ち、『運命』を構えて周囲を警戒している。
そのロビンの耳元で囁いた。
「……どうだ。怪しい挙動を見せたヤツは居るか……」
ロビンは小さく頷き、やはり囁くように呟いた。
「……あの弓使いの女に、お気をつけ下さい……」
「弓使いの女……分かった」
第十使徒『クラウディア』だ。ローランドとの激しい戦闘中にありながら、ロビンの警戒網はクラウディアに異変を感じた。
「ロビン、もう無理をするな。後は俺に任せろ。フラニーらを頼む」
「御意。しかし……」
「大丈夫だ。『本体』は別室に移した。今はマリエールと居る」
俺はこの部屋の何処にでも居る。同時に、この部屋の何処にも居ない。二つの『部屋』を管理下に置くという事は、こういう事だ。
未だ戦闘中。しかし、俺は成長している。ギュスターブとローランドの命を喰らい奪り、大幅に力の上限を上げている。たとえ、この部屋の分け身全てが殺されたとしても俺は死なない。
ロビンは、短く溜め息を吐き出した。
「……なら、無理しません。今は下がりますが……」
「うん? なんだ?」
何か言いたそうな顔をするロビンに向き直ると、ロビンは、ぴちゃりと唇を舐めた。
「ご褒美、期待してますよ。何でもいいんですよね?」
「お前は……お前というヤツは……」
褒美をやるとは言ったが、何でもとは言ってない。この極限レベルの戦闘の最中にありながら、そんな事を口走るロビンの余裕には呆れてしまう。
「……俺に出来る事なら、いいだろう……」
「結構」
短く頷くロビンの笑みからは、不吉なものしか感じない。
俺は呆れて首を振った。
◇◇
白蛇は数体の戦乙女を護衛に付け、静かに警戒を絶やさない。その隣に小人の使徒『グラート』が佇み、白蛇の外套を掴んで笑みを浮かべている。
「白蛇、どうだ?」
突如現れた俺の姿にも驚いた様子はなく、白蛇は小さく頷いた。
「ん……ヴォルフとティーナは興味なさそうだな……」
カッサンドラやディートリンデのように参戦を望む使徒が存在する一方で、この乱痴気騒ぎに興味がない使徒もいる。第七使徒『拳聖』ヴォルフと第十四使徒『作曲家』フロレンティーナの二名だ。
白蛇は続けて言った。
「アイネは無視しろ。あいつは平常運転だ。不穏な意思は感じない。エリゼオも放っておけ」
第十一使徒『アイネ・クライネ』は、第十二使徒『エリゼオ』に造られた不死者だ。
『魔人』アイネ・クライネ・ナハトムジーク。母が、この魔人を使徒として召し上げた理由は分からない。
エリゼオはアイネのデータ収集にしか興味がない。そのアイネが参戦の意思を覗かせている以上、この二名も裏切りの可能性は低いというのが白蛇の見解のようだ。
「よーう、暗夜。おいらとも仲良くしようよお!」
使徒全員が戦いを得意としている訳じゃない。この小人の使徒『グラート』なんかがそうだ。白蛇に張り付き、この危機を面白そうに観察している。
そのグラートが、万歳するように手を上げたのを見て、俺は笑いながら手を合わせる。
「よろしく頼む」
「おーう、兄弟って呼んでいいかい?」
「あぁ、構わんよ」
どうも、白蛇とグラートは仲良くやっているようだ。
白蛇は厳しく言った。
「兄弟、動きがあるとしたらここからだ。油断するなよ」
「分かっている」
この瞬間も、『俺』はアウグストと対峙している。白蛇の警告は尤もだ。
「エルナの様子がおかしい。ヤツにも注意しろ」
それには、既に気付いている。
エルナにして見れば、魔王討滅組のメンバーは、死線を共に潜った深い間柄だ。ギュスターブとローランドが既にやられたこの状況で、変化を見せない方がどうかしている。
「……面倒だな……」
エルナはその場にへたり込み、茫然自失の状態にあるが、放置していいほど無力な存在ではない。
「捕らえるか。今なら容易い」
「いや、泳がせよう」
今は泳がせて様子を見る。捕まえて尋問するのは後だ。
「エミーリアは……」
その俺の言葉に、白蛇は嘲るように鼻を鳴らしただけだ。
状況の変化に付いて来れず、ひたすら戸惑い、ただ途方に暮れて様子を見ている。
それが第一使徒『聖エミーリア』の状態だった。
◇◇
俺は嘲笑って言った。
「枢機卿。さよならだ」
俺は、アウグストの事情には興味がない。聞けば鈍る可能性がある事もそうだが、どのような事情があれ、母には関係のない話だ。
母の神性が損なわれぬ以上、俺の当為は変わらない。
だが、一つだけ聞いておきたい事がある。これだけは聞いておきたい。それは……
「なぁ、勇者アウグスト。一つだけ聞きたい。人工勇者は……お前が肩入れするに相応しい存在か?」
「……っ」
アウグストは答えない。だが、一瞬、顔を歪ませた。
人工勇者を知っている。面識がある。その上で、俺の問い掛けに顔色を曇らせた。つまり……
俺は首を振った。
「……どうやら、遠慮はいらんようだな……」
人工勇者の人格はアウグストの信を得るに足らず、その背信は、人工勇者の存在を起因としたものではない。
「もういい。消えろ、アウグスト」
ギュスターブを葬る為の『無常』は、もう発動させるだけだ。一呼吸の間もなく『無常』に送ってやれる。
殺しはしない。ただ消えてもらう。これでも母の定めた『勇者』だ。勇者ではなく、母に敬意を払いたい。死ぬのと何も変わらんが、最後は慈悲で送ってやりたい。
ギュスターブとローランドの命により高められた俺の力は、完全なる『無常』を創り出した。
――lock level5
ここより、永遠。
術を発動させる瞬間、アウグストは最後の意地を見せて聖剣レーヴァテインを振るった。
光の尾を引く飛ぶ斬撃。
魔王ディーテを殺した聖剣レーヴァテイン。おそらく、母をも殺せるだろう。伝説では、その危険性故に九つの封印を施されたというが……
「違う、アウグスト。そういう問題じゃないんだよ」
時には誰も逆らえない。
俺は構わず『無常』を発動させる。瞬間、神をも殺せる斬撃は永遠の中に溶け去り、無常に消え去る。
「……悲しいな、アウグスト……」
まだか。
まだ動かないか。
アウグストを翻意させ、人工勇者を匿い、得体の知れない不逞を企む親玉は、まだ姿を見せない。
俺は短く息を吐く。
姿を現せば、アウグストごと『無常』に叩き込んでやろうと思っていたが、話はそう簡単に運ばないようだ。
「あ……」
消えた斬撃に、アウグストは怯んで後退る。自信があったのだろう。確かに素晴らしい威力の斬撃だ。当たればだが、母の命にすら手が届く。神殺しすら為し得ただろう。
発動した無常が無情に広がる。
永遠が全てを飲み込む正にその瞬間の事だ。
――とん、
と脇腹を軽く突いたような衝撃を感じて、俺は僅かに視線を落とす。
「……そう来たか……」
『分け身』の一人……俺だが、刺された。
涙で顔をぐしゃぐしゃにしたエルナに刺された。
数多く存在する。何処にでも存在するという事は、何処にでも弱点が存在するという事に置き換えられる。
エルナは絶叫した。
「あ、ああああああ! 死ね! 死ね! 暗夜! お前は死ねぇえぇえぇえぇ!!」
意外だったのは、エルナが俺を刺した短剣が純鉄製であった事だ。
――神官殺し。
何かするだろうと思っていた。その可能性も考えていた。鉄だけは不味い。だが……
「……聖エルナ……とても、残念だ……」
純鉄の短剣『神官殺し』は、俺の明確な弱点だが、俺は俺の弱点を知りつつ、それへの対策を怠る馬鹿じゃない。
神官服の下には真銀の鎖帷子を着込んでいる。エルナの刃は届かない。確かに『神官殺し』は俺の弱点だが、純鉄の短剣自体は強力な武器ではない。真銀の鎖帷子で防いでしまえる。
『無常』がアウグストを飲み込み、永遠の中に消え去るのを見送って、俺はエルナの顔を両手で掴んで吊り上げた。
「暗夜! 暗夜!! ギュスターを返せ! ローランドを返せ! アウグストを返せえぇえぇえ!!」
「あ、そう……」
じたばたともがき、神官殺しを振り回すエルナの手を『分け身』の俺が打ち落とす。
つまらない。笑う気にもなれない。
第三使徒『聖エルナ』の最期の言葉が憎悪に塗れた繰り言とは情けない。
ギュスターブとローランドは死に、アウグストは無常の中に消え去った。エルナを片付けて、この件は終わりだ。
アウグストは切り捨てられた。使い捨てられたのだ。
憐れで愚かなアウグスト。可哀想な勇者アウグスト。愛を忘れた勇者は、もう勇者ではない。
◇◇
詰まるところ、我々は何を以て信仰と為すべきか。
愛を知り、憎しみを知り、善と悪を知り、全てを知りつつ、それでも世界を軽蔑せぬ事だ。
《アスクラピア》の言葉より。
◇◇
その瞬間、俺は確かに油断した。
第十使徒『クラウディア』が矢を放ったのと同時の出来事だった。