堕天使
かつて、勇者アウグストはこう語った。
「僕さ、ニンゲンが嫌いなんだよね……」
使徒の間で枢機卿と呼ばれ、敬意を払われるこの男の最期は悲惨なものだった。
魔王ディーテの討滅後は故郷に帰り、革命軍として圧政を敷く王公貴族と戦った。
仲間を人質に取られ、その身を差し出したアウグストは公開処刑された。
人質として捕らえられた仲間が、実は裏切者だったと知ったのは、アウグストが使徒として召し上げられてからだ。
公衆の面前で腸を引き摺り出され、その苦痛に絶叫しながら、最期まで尊厳を汚されたアウグストの絶望と怒りは計り知れない。
母が、そのアウグストを第二の使徒として召し上げたのは、憐れみと深い慈悲によるものだ。そこに疑いの余地はない。
アウグストの最期は悲惨だが、それによって母の神性が損なわれる事は一切ない。
そんなアウグストは、『ニンゲン』が嫌いだと言った。
◇◇
ギュスターブは何も語らない。
寡黙な男だ。エルナの訃報を受けた後の彼の足取りは、未だに謎に包まれている。
伯爵と呼ばれる髭の紳士、剣聖ローランドは静かに語った。
「英雄というのは憐れむべきやつだよ。彼らは散々尽くしたあげく、誰からも感謝されない」
◇◇
実際の世界の大部分は、悪意と嫉妬から成り立っている。
《アスクラピア》の言葉より。
◇◇
魔王ディーテの討滅後の剣聖ローランドは、自らの為だけに剣を振るった。生涯独身を貫き、どのような厚遇を以てしても、彼が国家に属する事はなかった。
「我輩にとっては、アウグストとギュスターだけが家族だよ」
勿論、君もね。とエルナに語ったローランドは、優しい微笑みを浮かべていた。
◇◇
情報が足りない。だが、予感するには充分だ。しかし、アウグストらに個人的な理由があったとしても、母に対する裏切りは許容できない。
混乱するエルナに、白蛇が厳しく言った。
「その可能性を踏まえた上で、両名に問う。お前たちは……兄弟……いや、暗夜を二人掛かりで誅しに来たのか?」
その問いに、エルナは激しく狼狽えた。タイミングが不味すぎる。今、暗夜を誅するという事は、裏切りの嫌疑を掛けられても仕方がない。
「……」
暗夜は、酷く面倒臭そうにエルナたちを見つめていた。
そして――
無造作に懐に手を突っ込み、取り出した『銃』でエミーリアを撃った。質問に答えず、且つ武装を解かなかった事で敵対の意思があると判断したのだ。
「なっ――」
暗夜の部屋で見た事がある『玩具』だ。だが、威力は玩具のそれではない。大きな炸裂音と共に放たれた弾丸は、五発の内、三発がエミーリアの頭部に命中して、魔法銀の兜から青白い火花が散った。
――この男が、大嫌いだ。
暗夜は容赦ない。思えば、生前の彼はいつだってそうだった。一度決めれば躊躇わない。たたらを踏んで跪くエミーリアを見ても顔色一つ変えず、次弾を装填して、エルナに銃口を突き付けた。
暗夜は冷たく言った。
「聖エルナ。よく考えて答えろ。お前たちは、何をしに来たんだ」
その瞬間は目眩がした。
ほんの少しでも、暗夜と友宜を結べたように感じていたのは、とんだ勘違いだったとエルナは思い知った。
思った。
撃たれる。暗夜は本気だ。躊躇いなく撃つ。間違いない。そして今の状況は殺されても文句が言えない状況だ。
エルナもエミーリアも、暗夜を誅するつもりでやって来た。そこには殺害の可能性も含まれる。暗夜の反撃は正当なものだった。それが事態を深刻にしている。
「三」
死のカウントダウンが始まる。
「二」
そしてエルナは嘘を吐く。
「一」
「わ、私たちは貴方の事が心配で――」
その虚言は、聖女の戒律である『公明』の誓いを破ってしまう。
「嘘だな」
報いは即座にやって来た。
暗夜は瞬き程の間も置かず、エルナの虚言を看破した。
エルナは漸く理解した。
第十七使徒『暗夜』は完成している。新しいパーソナリティを獲得している。それは以前より、ずっと激しく苛烈な個性だ。全く以て容赦ない。
「さよならだ。聖エルナ」
憤ったムセイオンの戦士たちが、ザームエルの首を投げ込まなかったら、エルナは死んでいただろう。
――この男が、大嫌いだ。
エルナは思う。
成り立てが偉そうに。
お前の『慈悲』と『慈愛』は何処に行ったのだ。口達者な『神官』は好きになれない。暗夜の説教は、第六使徒バルナバスといい勝負だ。
最後に、暗夜は吐き捨てた。
「死ぬまでやってろ。俺は別の道を行く」
徹底的にやり込められた。俯くエルナは、この悔しさに唇を噛み締める。
暗夜と白蛇は、ムセイオンの戦士を引き連れ去り――
エミーリアは激昂した。
「はあ? なんで私が説教されなきゃなんないのよ! 訳分かんないし!!」
その激しい怒りは、側にいるエルナにも向けられた。
「ダサっ……! あんたの言う通りにして、最悪なんだけど!」
戦場育ちの地金が出た。エミーリアの激しい気性は、時に粗暴な形になって現れる。
「最低! 最悪! 何あれ、あの変な武器! あれって玩具だったやつだよね! 死んだかと思ったんだけど! はぁ!?」
エミーリアは激昂すると同時に、暗夜の急激な変化に困惑もしていた。それは『豹変』でもあり、成長とも受け取れたからだ。
「なに? なんなの、あいつ! はあ!? 期待してない!? 期待してない!? 私が! この私が!!」
――エミーリア、お前には何も期待していない。
その暗夜の言葉は、エミーリアのプライドを深く傷付けたようだった。
「……っ」
エミーリアは泣いていた。
その涙は固まらない。深い愛と悲しみに因ってしか、天使の涙は固まらない。エミーリアの涙は、強い怒りと屈辱から流れたものだ。
自らを落ち着けるように、何度も深呼吸を繰り返し、エミーリアは呟くように言った。
「……ねえ、エルナ。あんた、裏切者に心当たりがあるの……?」
「……」
エルナには、答える事が出来なかった。それは明確な肯定とも受け取れる。
「勘弁してよ」
吐き捨てるようにそう言って、エミーリアは去った。自らの『部屋』に帰った。
空には灼熱の太陽が浮かんでいる。
「アウグスト……ギュスター……ローランド……嘘、だよね……」
エルナは天を見上げ、かつての仲間の名を呟いた。
◇◇
ルシール、ポリー、アニエス、クロエ、アンナ、ゾイ……聖エルナ教会の修道女。
エルナにとって、娘とも呼べる存在の者たちだ。
第三使徒エルナの部屋は『聖エルナ教会』だ。
虚無に浮かぶ誰も居ない教会。
世界は、あるがままの姿が一番美しいと信じていたが、エルナには何も分からなくなった。
ふと思い出したのは、あのマリエールの言葉だ。
……後悔しても、もう遅い……
虚無の闇……奇妙な部屋から『聖エルナ教会』 が崩壊して消えて行く。娘たちに見限られ、上手くイメージ出来なくなったのだ。
エルナの聖域は失われた。
エミーリアも去った。
彼女は、サクソンのあの寂しい街並みで何を思うのだろう。
――あんたは寂しいだけだろう。
白蛇は、エミーリアにそう言った。
……愛に生き……愛に斃れ……
第一の使徒『聖エミーリア』の言葉。あの人殺しの白蛇を見る彼女の目は、何処か羨ましそうだった。
第三使徒エルナの部屋は、虚無の闇だけになった。それは、現在のエルナの精神状態を強く反映している。
意味が分からない。
何故、こんな事になったのだ。母は、何故、エルナから全てを奪ったのだ。
「暗夜……」
第十七使徒『暗夜』。その正体は『死神』だ。神官などという生易しいものではない。
何もない虚無の闇の中で、暗夜が嘲笑っているような気がした。
エルナに残ったものは……
「アウグスト……ギュスター……ローランド……」
かつての仲間たちの面影は、いつだってエルナに優しく微笑み掛けている。
だが、死神の手が近付いている。エルナに残った最後の温もりを奪おうとしている。
もう十分に奪っただろう。
まだ奪うのか。
死神に仲間は渡さない。
エルナは…………
エルナ編 終了。
次回より、使徒編(後半)に入ります。