追放天使5
たったの一日だ。
ほんの一日、目を離した隙に、第十七使徒暗夜は腑抜けになった。
「……聖エミーリア。貴女が付いていながら、なんでこんな事になったのです……!」
俯き、黙り込むエミーリアの足下に多数の『泪石』が転がっていた。
◇◇
エルナの思惑の全てが台無しになった。
マリエール・グランデ。
エルダーエルフ。長命種。エルナの見立てでは、年齢は軽く二百歳を超えている筈だ。落ち着きがあるのは結構だが、達観した所がある。運命を受け入れたと言えば聞こえはいいが、簡単に諦めたのだろう。
エルナの苛立ちは止まらない。
そして、暗夜。自己犠牲、多いに結構だが、使徒のそれは人のものとは価値が違う。エルナには、マリエールというエルフの女にそこまでの価値は感じない。
また振り出しだ。
暗夜は使徒として転生した時と同様に、全てに対して興味を失っているように見えた。何を言っても、その殆どに「そうか」としか答えない。実際に興味がないのだろう。
だが、厚かましいエルフの世話だけは忘れない。手ずから食事を与え、毎日欠かさず祝福して治療する事は忘れない。何もかも台無しにされたエルナには面白くない。
「早く治して、このエルフを追い出しましょう」
「そうだね。そうしよう」
エミーリアは、こうなった詳しい経緯を話さないが、マリエールに対する怒りは大きかった。
暗夜は、マリエールの事に関係しない限り、全てに於いて無関心だった。
そこで、エルナはマリエールの頭を強く叩いた。暗夜の精神状態を知る為だ。
この行為には流石に不快感を覚えたらしく、暗夜は一気に険しい表情になって感情を現した。
「聖エルナ。何故、そんな酷い事をする。マリエールは何もしていないだろう」
だが、暗夜の言動がエルナの想像を超える事はなかった。腑抜けている。以前の暗夜なら、苛烈な反応をしただろう。
罪と死を糧に生を駆け抜けた神官、ディートハルト・ベッカー『暗夜』のパーソナリティは、完全に損なわれた。
この暗夜では、ルシールもポリーも救えない。ゾイも却って荒れてしまう。
危うい。白蛇が言っていた以上に、暗夜は危うい。こんな個性をエルナは知らない。目を離せない。何をするか分からないからだ。
母は、暗夜から容赦なく奪った。そして与える。『自己犠牲』は、母が最も好む徳の一つだ。
恐ろしい事だ。この一事により、暗夜は大きくパーソナリティを欠いたが、使徒としては、より高みに立った。力を得た。偉大な母が斯くあるべきと判断したのだ。
『成り立て』でありながら、暗夜は完全に人である事をやめてしまったと言っていい。二つ以上の『部屋』の管理者になった使徒は彼が初めてだ。
そして、新しく得た部屋には、管理者たる使徒の精神状態が強く反映する。
暗夜の新しい部屋は、酷く寂しい場所だった。エルナやエミーリアが所属する世界のものではない。夜の港。常に雨が降っていて、見たこともない大きな鉄の……そう……『鉄』だ。恐ろしい事に、『鉄』の船が停泊している。
これが意味する所は何か。
エルナは恐怖せずにいられない。第十七使徒『暗夜』は、エルナの想像を超えた存在になりつつある。おそらく、想像を超えた力を振るうようになるだろう。
新しい部屋には未知があった。
そこには、十歳の『ディートハルト・ベッカー』が存在した。
現在、ザールランドで大神官の地位に就くディートハルト・ベッカーは十六歳だ。そろそろ十七歳になる筈だが、新しい部屋に居る彼は十歳の子供なのだ。つまり、新しい暗夜の『部屋』は過去に通じているという事になる。
時間への干渉が可能だ。
エルナはそれが恐ろしい。この部屋は無限の可能性を秘めている。使い方によっては世界を滅ぼす事も出来るだろう。
暗夜は稀人……異世界人だ。
その思考回路は、エルナやエミーリアのものと大きく違う。暗夜は驚くべき事に、新しい部屋に『過去』を縛り付けた。部屋の軸を自らでなく、過去のディートハルトに移す事で時間を縫い付けたのだ。そこでは長い時間が確保される。元の部屋を経由する必要があるが、そうする事で『過去』と『現在』を行き来できる。
時間の確保は心のゆとりと余裕を生む。
そしてエミーリアは、暗夜の新しい部屋に夢中になった。暗夜が『バグ』と呼ぶ代物は異世界の品々で、それにはエルナも目移りした。
エルナは電気ポットで熱湯を被る羽目になり、コンセントでは感電した。
『カンデン』は癖になりそうな新感覚でピリピリする。エミーリアも面白がって何度も感電して遊んでいた。
その新しい部屋で過ごす内に、暗夜が喫煙の悪癖を身に付けた。忌むべき悪癖だったが、これもまた『個性』である。喫煙は母も忌避する悪習だが、今は見逃すよりない。
エルフの女、マリエール・グランデは大人しい。長命種。エルフだけに限った事ではないが、長命種は長く生きた者ほど感情の起伏が乏しくなる。
しかし――
マリエール・グランデは、暗夜を愛していた。苦界で長く生きる内に擦り切れ、乏しくなった感情の全てで暗夜を愛していた。
異世界人『暗夜』の行動は、エルナとエミーリアにとって、理解不能な所がある。咥え煙草でふらりと出て行ったかと思うと、丸一日帰らない事も珍しくない。
その暗夜の留守中、エルナはマリエールを厳しく問い詰めた。
「エルフ、お前は何を考えているのですか」
「……先生を愛してる……」
「はあ?」
耳に手を当て、嘲笑ったのはエミーリアだ。
「あんたも殆ど人間を辞めてるよね。幾ら長命種って言っても、あんたぐらい生きてるエルフも珍しい。苦界で二百年以上も生きてさ。植物みたいなもんでしょ、あんたって」
そうだ。エルフが森人とも呼ばれる所以はそこにある。
「ちょっと優しくされたからって、舞い上がってんの? 植物の癖に」
「……植物じゃない……」
愛……エルナには、よく分からない感情だ。最も近しい異性としてはギュスターブを意識するが、彼は出会った時には既に妻帯しており、子供も居た。信頼の対象ではあっても、恋愛の対象にはならない。
エミーリアが、マリエールを羨んでいる事は、なんとなくだが分かる。エルナも少しだけ羨ましい。同時に分からなくもある。
「暗夜の……あれの何処がいいんですか?」
その問いに、マリエールは僅かに赤面して答えた。
「……全部……」
「はあ……あばたもえくぼというやつですか? 私にはよく分かりませんが……」
エルナには分からない。
暗夜の今の状態がどうであれ、元の資質には何ら変わる所がないと考える。
第十七使徒『暗夜』の本質は孤高であり、人殺しだ。その全てを愛すると言うマリエールの心情は分からない。
エミーリアが、酷く苛々して言った。
「あんたの病気って、厄介だよね。使徒が三人掛かりで、まだ治らない。早く治って出て行けばいいのに」
それにはエルナも同意見だ。
あの人殺しは、無法を行う反面で非常に慈悲深い。長く居着くと必ず情けを掛ける。それはよくない影響しか与えない。
エルナとしては、この厄介者のエルフには早く出て行ってほしいというのが本当の所だ。
「男が欲しいなら、下界で探せばいいでしょう。エルフの美貌なら、大抵の男は手に入る筈です」
「……」
そこでマリエールは黙り込み、俯き加減になってエルナを睨み付けた。
エミーリアは鼻を鳴らした。
「ふん、言いたい事があるんなら、言ってみなよ」
暫くの沈黙を挟んで、マリエールは低い声で言った。
「……なんにも分かってない。天使の癖に……愛を知らない……いつか思い知る……思い知る時が来る……」
その言葉に、エルナは鼻を鳴らして嘲笑った。
「は! 私たちが、何を思い知るんですか?」
「……愛を……」
長命種。長く生きるが、命に限りある存在だ。その力は、使徒であるエミーリアやエルナには到底及ばない。その筈だが……
「いつか……先生が思い知らせる……その時になって……後悔しても、もう遅い……」
上目遣いに睨み付けて来るマリエールのその迫力に、エルナは僅かに怯んで息を飲む。
だが、エミーリアは負けじと嫌悪感剥き出しでやり返す。
「やだ……このエロフ。草木みたいなもんの癖に、色気付いて……気持ち悪い……」
「……」
侮蔑すら感じるマリエールの視線に、エミーリアは益々苛立ちを募らせた。
「そもそもさあ、あいつ使徒だし? 上手く行くとか思ってんの?」
そうだ。第十七使徒『暗夜』は人ではない。幾ら思いを募らせようと、その思いが叶う事は決してない。長命種のエルフと言えど、使徒の歩みには付いて来られない。いつか別れがやって来る。かつて……マリエール・グランデが多くの者にそうしたように……