追放天使3
第十六使徒『白蛇』より、全使徒に向けて集結の命令があった。
要請ではない。『命令』だ。つまり、全使徒の集結は母の希望であるという事になる。
母の『部屋』に、続々と使徒が集まって行く。『白蛇』は高御座に掛ける母の側に変わらず侍り……これもまだ『成り立て』だ。跪き、母に敬意を払う使徒を見下ろしている。
プライドの高いエルナには、それがどうにも気に障る。
『白蛇』……レオンハルト・ベッカー。
『暗夜』……ディートハルト・ベッカー。
この兄弟は、母のお気に入りだ。
兄は側近として母に侍り、弟は大罪を犯しつつ、それでも使徒として召し上げられた。エルナには、この全てが気に障る。
最後に現れた暗夜は、母に招かれた事すら気付かないのか、気儘にピアノを弾いている。
ショパンの幻想即興曲。
演奏の終わりを待って、母が厳かに言った。
『第十七使徒、暗夜』
「は、これに……」
暗夜は、澄ました顔でピアノを消して膝を着く。その気障な仕草もエルナの気に障る。
やがて、虚無の闇に銀の流星が降り注ぐ。偉大な母の祝福だ。
エルナが、アウグスト、ローランド、ギュスターブと会うのも久し振りだが、彼らは、一切エルナの方を見なかった。
白蛇は言った。
「……邪悪は世界各国に居る。各々、所縁のある地へ向かえ。邪悪は発見次第、処断せよと母は仰せだ……」
偉大な母はお喋りを嫌う。それは白蛇の口を通しても変わらない。
いつだってそうだ。
使徒には自由な裁量が与えられている。エルナには分からない。その自由な裁量で好き勝手行う使徒も居る。
畜生でもあるまいし。凡そ、自由な徒はエルナの気に食わない。
何故、何故、何故……
三百年の時を経て、その疑問はエルナの中で膨らむばかりだ。
白蛇は淡々と言った。
「親愛なる兄弟姉妹に告ぐ。各々、ただちに外界へ向かえ。その中に当為が見つかる。最後に……我が母の祝福あれ……!」
己のすべき事は己で考えろ。
母の偉大さを疑った事はないが、いつだってそうだ。
――当為。
己の為すべき事。母はいつだって独力での問題解決を期待している。分かっているが、エルナには突き放されているようにしか感じない。
第三使徒『エルナ』の当為とは……?
おそらく、焼き付けの邪法によって造られた人工勇者と二人の聖女の事だろう。
エルナにとって、所縁ある地は一つ。ザールランドしかない。『聖エルナ教会』しかない。そこに居る修道女は、皆、エルナにとって娘のようなものだ。
――聖エルナ教会へ!
忽ち思い立ち、行動を起こしたエルナだったが、ギュスターブには一顧だにされず袖にされてしまった。
「ギュスター! 貴方は私の騎士ですよね!! なんで……なん、で……」
聖騎士ギュスターブは答えない。相変わらず寡黙な男だ。誠実で勇敢な男でもある。魔王ディーテとの戦いでは、その身を盾に、最後までエルナを守り抜いた。信頼は厚い。それが……
エルナに背を向け、あの人殺しの暗夜と友宜を結んでいる。
『血の盟約』。お互いの危機には駆け付ける。深い信頼を寄せているという証拠だ。安易に行うものではない。
「……暗夜、お前は……!」
エルナにとって、第十七使徒暗夜は何処までも目障りな存在でしかない。
一瞬、目が合った暗夜は、恐れ慄いたように目を逸らし、慌ててその場を去った。
「――惰弱!」
いっそ神力比べを仕掛け、優劣をはっきりさせてやろうと思ったが逃げられてしまった。
鼻を鳴らして憤るエルナだったが、その一方で、同じように袖にされる者もいる。
第一使徒エミーリアだ。
エミーリアは白蛇と話し合っているが、その話し合いは上手く行っているようには見えない。
「サクソン? 真っ平御免だ、聖エミーリア。俺には俺の仲間がいる。それに……女はいらん。もう足りてる」
「って、白蛇。貴方の所縁の地もサクソンだよね?」
「あんたは寂しいだけだろう。俺じゃなくてもいい筈だ」
寂しいだけ。白蛇のその言葉に、エミーリアは忽ち気分を悪くして眉間に深い皺を寄せた。
「はあ? 誰に向かって言ってんのよ。あんた馬鹿?」
「協力が必要なら、俺より弟の所に行ってやってくれ。あいつは危なっかしい」
そのやり取りを最後に、二人は殆ど同時に背を向けてその場を去った。
使徒は個性の強い集団だ。それ故、衝突する事も珍しくない。取り立てて驚くような事ではないが、『成り立て』 の兄弟二人は、何処までもエルナの気に障る。
「人殺しが……偉そうに……!」
気が付くと、部屋にはエルナ一人が残っているだけだった。
◇◇
斯くして、第三の使徒、聖エルナはザールランドの地に降臨した。
聖エルナ教会にいる娘たちの窮状は知っている。
新たに作られた寺院のトップに収まった大神官の破門は未だ解かれていない。聖務の一切を禁じられた娘たちは喜捨を受け取る事もならず、本来はその立場を保証する帝国の保護や優遇を受ける事も出来ない。その日の食事にも事欠くような有り様に落ちぶれている。
下界の物は、人も物もすぐ傷む。
改めて聖エルナ教会の門戸を叩くエルナの『部屋』は、三百年前の『聖エルナ』教会だ。
設備管理もままならない、今の聖エルナ教会は、六年の時を経て廃墟染みた趣を見せるようになっていた。
嘆かわしい。
ずっと見ていた。見守っていたから知っている。院長のルシールは床に臥せるようになって久しく、そのルシールに代わって教会を纏めるポリーは、日常の激務と心労で疲れ切っている。
この現状を捨て置く訳には行かない。第三使徒『エルナ』の当為は、この聖エルナ教会の再建だ。
エルナの紫の瞳には聖痕が刻まれている。それは、あの人工聖女エリシャの紛い物とは違う。母に授かった本物の聖痕だ。
錆び付いた門戸を開き、外庭を抜けて教会の扉を叩く。
「第三使徒、エルナです。今、帰りました」
衰弱し切ったルシールは余命幾ばくもない老女のような有り様だ。ポリーに至っては認知症の疑いがある。その他の娘たちは神力に乏しく、エルナとまともに目を合わせる事すら出来ない。
スキル『威厳』。
聖女のクラスが持つ特殊スキルが『聖痕』により強化されている。実権を取り戻すのは簡単な事だ。
だが、その翌日、ダンジョンから戻った悪魔祓いの修道女、ゾイだけは違う。
「聖女エルナ? へぇ……」
その身に纏う神力が悪魔祓いに特化しており、過酷なダンジョンで鍛えられている。心身共に強靭なドワーフの修道女。真っ向から聖エルナを値踏みする。
伝説の聖女エルナにも、全く気後れせず、ゾイは言った。
「ここはもう終わってる。好きにしなよ、天使さま」
「まだです。まだ終わってません」
「二年ぐらい帰るのが遅かったね。あと、その瞳の聖痕は、なんとかした方がいい。目の『印付き』は、有無を言わさずしょっぴかれる」
それは、あのエリシャの影響だ。『人工聖女』と同じ瞳の聖痕は、ザールランドでは忌避の対象とされている。
ダンジョンから帰ったばかりのゾイは、フードの付いた外套に身を包み、酒の匂いをぷんぷんさせていた。
典型的なドワーフの戦士。
ゾイはエルナに関心を示さず、ポリーにダンジョンで得た報酬を押し付けた後は、井戸のある外庭で裸になり、真水で身体を洗った。
「感心ですね。水行ですか?」
ゾイは、そのエルナの言葉を鼻で嘲笑った。
――そんな訳があるか。
ただ、ゾイの中にある愛の思い出がこうさせる。暗夜は、いつだって清潔にしていろと言った。だからそうしているだけだ。
死んだ目をした悪魔祓いの修道女。ゾイだけは、聖エルナに気後れしない。
「……」
寡黙。だが、その性質はギュスターブとは全く違う。ゾイの沈黙は無関心から来るものだ。
エルナは気に入らない。
あの暗夜が贔屓しただけあって、このドワーフの少女……今はもう成長して立派な大人だが……筋金入りだ。
「…………」
エルナは眉間に皺を寄せ睨むように、ゾイは無関心に見つめ合う。
だが……
不意に、ゾイは濡れた髪を掻き上げて天を見上げる。
「……天使……そっか……そういう可能性もあるのか……」
ドワーフの慧眼が、第十七使徒『暗夜』の存在の可能性を示唆した事を、聖エルナは見逃さない。
時を追って、暗夜もザールランドに訪れるだろう。気に入らないあの『成り立て』は、それでもエルナの後輩なのだ。
――あいつは危なっかしい。
この時のエルナは、白蛇が発した言葉の意味を何も理解していなかった。