追放天使2
第十七使徒『暗夜』の部屋には、真っ暗な虚無だけが広がる。そこにはピアノと腰掛ける椅子があるだけだった。
部屋に『鍵』は掛かっていない。使徒暗夜は、他の使徒の来訪を拒まないという意味でもある。
奇妙な部屋とも呼ばれる母より授かった使徒の部屋には、その部屋を管理する使徒の精神状態が大きく反映する。
暗夜には何もない。
犯した罪の代償に、母の奪う手が殆どの記憶を持って行ったのだ。
おそらく、与えられた名すら知らないだろう。その暗夜が選んだのは、一台のピアノと、そのピアノの前に腰掛ける椅子だけだ。
演奏と呼ぶには烏滸がましい出鱈目な騒音。エルナの目に、暗夜は闇雲に鍵盤を叩いているようにしか見えなかった。
「……お前は誰だ……」
それが、使徒『暗夜』のエルナに対する第一声だった。そして、その間もピアノの鍵盤を叩く事を止めない。
誰も信じていない。
冷たく突き放す『拒絶』と『孤高』。これが第十七使徒『暗夜』の本質だ。
部屋は開放されているが、『鍵』の掛け方を知らないだけだ。エルナを見る暗夜の視線には、全てを拒絶する冷たさがあった。
「……私はエルナです。第三使徒『エルナ』です。貴方の先輩になります。聖エルナと呼びなさい」
「……」
暗夜は、暫く黙ってエルナを見ていたが、やがて興味を失くしたようにピアノに視線を戻した。
エルナは困惑しながらも続ける。
「貴方の名は『暗夜』。第十七使徒『暗夜』ですよ」
「……」
暗夜は答えない。初めて見た同じ使徒のエルナにも興味が湧かないようで、鍵盤を出鱈目に叩いている。
うるさい。
母から罰を受けた事は知っている。希薄になった人間性がこの『部屋』の虚無として発露している事も理解しているが……
「暗夜。少し手を止めて、私と話をしましょう」
「……」
暗夜は答えない。何もかもに興味を失くしたように見えるその様子は、皮肉にも母の姿を連想させる。
暗夜は構わず、騒音を撒き散らし続けた。
エルナはやがて落胆し……その場を去った。
◇◇
一方、エミーリアは、新しい使徒に興味津々だった。
「まるで子供みたいだよ。ばんばんピアノを叩いてるだけ」
一年の時が経過して、暗夜はまだピアノの鍵盤を叩くだけで騒音を撒き散らしているようだ。
その状態に変化が現れたのは、二年目になってからだ。
騒音が旋律に変わる。やがて旋律が演奏に変わる。
エルナが駆け付けると、そこには偉大な母の姿があり、その後ろでエミーリアが跪き、頭を垂れていた。
母は物憂い表情で何も言わず、暗夜の奏でる旋律を聞いていた。
同じ旋律。同じ楽曲。暗夜はひたすら同じ演奏を繰り返した。
暗夜が手を止めた時、母の姿は消えていた。
「……」
暗夜は少し疲れたように伸びをして、それから、冷たい視線をエルナたちに向けた。
そこに声を掛けたのはエミーリアだ。
「聞いた事もない曲だね」
「……」
暗夜は少し俯き、暫く考え込むように眉間に皺を寄せていたが、ぶっきらぼうに答えを返した。
「ショパンの幻想即興曲だ」
「しょぱん?」
「フレデリック・フランソワ・ショパン。十九世紀を代表する音楽家の一人だ」
「じゅうきゅうせいき?」
そこで、暗夜は溜め息混じりに首を振った。
「出て行ってくれ」
何の前置きもないその言葉に、エルナは頭に血が上った。
「暗夜、その態度はないでしょう。先達に、もう少し敬意を払いなさい」
「……」
やはり暫く考え込む様子だった暗夜は、黙って冷たい視線を向けた。呟くように言った。
「……俺には……まだ分からない事ばかりだ……その俺に……礼儀を強要するのか……」
その瞬間、エミーリアが叫んだ。
「ごめん、帰る! また来るね!」
「ああ、そうしてくれ……」
その無礼な態度に、尚も言葉を重ねようとするエルナだったが、慌てた様子のエミーリアに手を引かれ、この時は暗夜の部屋を去った。
◇◇
エルナは、エミーリアに伴われ、エミーリアの部屋に跳んだ。
エミーリアは少し怒っていた。
「エルナ。今のは、貴女が悪い」
「何故、どうしてですか? 何も知らないと言っていたじゃありませんか。教えてやろうと思っただけですよ」
いつになく厳しい表情で、エミーリアは言った。
「暗夜は、そんな事を頼んでない」
エルナは鼻を鳴らして反発した。
「だから、いつまで経っても子供みたいにピアノを叩いていただけだったんですよ」
「…………それでも成長してる。彼は彼なりに必死なんだよ……」
「そうですか。分かりませんがね」
エミーリアは、呆れたように溜め息を吐き出した。
「使徒として未熟でも、彼処に居たのは神官だよ。そう言えば、貴女の非常識さが理解できる?」
「神官……」
そこでエルナは唇を噛み締めた。
神官にとって、『礼儀』は平和な暴力だ。今回、エルナは何も知らない子供に礼儀を強要したと言っていい。しかも、必死になって自らを取り戻そうとしている子供相手にだ。
「貴女の言葉は思いやりから出たものだったんだろうけど、少し頭を冷やした方がいいね」
「……」
「もう少し時間を置こう。彼が話を聞けるようになるその時まで」
それがエルナには我慢ならない。
『成り立て』が先達の使徒に指導を受ける事は名誉な事だ。母がやむを得ず雇ったあの『殺し屋』ベアトリクスが使徒として転生し、個としてパーソナリティを形成した結果、どうなったか。
出来上がったのは、精神が破綻した『殺し屋』だ。殆ど『魔人』と言っていい。好き勝手に下界に降り、時として人を殺める。彼女の部屋は奢侈に尽くされており、母に仕える使徒として相応しくない。
凡そ自由の徒という者は、エルナの気に食わなかった。
そのエルナの内心を感じ取ったエミーリアが、厳しく言った。
「エルナ。貴女は少し潔癖過ぎる。綺麗事と真実だけで世界は回らない。その上からの物言いも改めた方がいい」
「私は! ただ……!」
ただ少し、優しくしてやりたかっただけだ。それが余計なお世話なのは分かっている。分かっているが、エルナには我慢ならない。
第一使徒『聖エミーリア』の部屋は、虚無に浮かぶニーダーサクソンの首都『サクソン』の街だ。
冷たい木枯らしの吹く、誰一人いない街並みは、エミーリアの孤独と厳しさを現している。
「……あの様子だと、多分、私たちの顔も覚えてないね。運がいいよ。気になるのは分かるけど、暫くはあのままにして置こう……」
「……ですね。分かりました……」
納得し難いが、納得するよりない。エミーリアの言う通りだったからだ。
◇◇
そしてまた時間が流れる。暗夜の部屋は開放されたままで、そこには様々な使徒が客として訪れ、暗夜が弾くピアノを楽しんでいるようだった。
『部屋』を開放し続けている使徒は暗夜だけだ。それは隠す物がない事を意味している。他の使徒はそれを大いに好ましく思い、あの『殺し屋』ベアトリクスやプライドの高い『氷騎士』ディートリンデまで暗夜の部屋を訪れたというから驚きだ。
「上手くやってるみたいだよ」
エミーリアの言うには、そうだ。
暗夜は他の使徒に興味がない。基本的には他の使徒もそうだ。勝手に訪れ、ピアノを聞いて去る。それを何度か繰り返した所で興味が湧けば、そこで漸く会話に至る。
エルナが腹立たしく思うのは、そこに勇者アウグストや剣聖ローランド、更にはエルナに仕えた聖騎士ギュスターブまでもが含まれる事だ。
魔王ディーテとの戦いでは、共に死力を尽くして戦った仲間だが、彼らはこの数年、エルナの元を訪れず、暗夜の部屋に入り浸っている。
エルナとしては面白くない。不愉快ですらある。あの暗夜が、アウグストらの何を知っているのだ。彼らと死力を尽くして魔王と戦ったのは暗夜ではない。他でもない自分だという自負があった。
暗夜は悪くない。理屈では理解しているが納得できない。
エミーリアと共に暗夜の部屋に訪れ、ピアノを聞いて去る。エルナとしては気に入らないが、接点を持つには他の使徒の足取りに倣うのが近道だ。
暗夜は変わらず、気儘にピアノを弾き鳴らしている。変わったのは、凄まじい数の曲を弾いている事だ。
「すごい……綺麗……」
エミーリアは感心して聞き入っていたが、エルナには騒音にしか聞こえない。心の持ちようがそうさせる。分かっているが止められない。
そのエルナの苛立ちは、暗夜の部屋でギュスターブとの再会を経た所で最高潮に達した。
エルナの顔を見たギュスターブは眉間に皺を寄せ、不快感を露にしてその場を去り、二度と現れなかった。
訳が分からない。
エルナの怒りは暗夜に対する嫌悪に転換し、時間を置いて爆発した。
「この人殺し。私は、お前がした事を知っていますよ」
それから暫くして、エルナは暗夜の部屋を出禁になった。
来る者は拒まずの暗夜に出入りを拒まれた事は、使徒の間で凄まじい噂になった。
暗夜に対して、エルナがとんでもない無礼を働いたという噂が使徒中を駆け巡っている。駄目商人、第十三使徒の『グラート』が面白おかしく触れ回ったお陰だ。
なんでこうなった? 全てに無関心な使徒、暗夜に唯一嫌われた使徒という不名誉なレッテルを貼られたエルナの前で、エミーリアは呆れたように言った。
「……エルナ。貴女は何をしているの……?」
「わ、私は……それは……」
エルナには、とんでもない赤っ恥だった。