追放天使1
それは、汚泥の匂い漂う暗闇から始まった。
「…………」
母が招いた『新しい子』。僅か十歳の少年だが、中身は少年のそれではない。
第三使徒エルナの目に、その少年は不気味なもののように映った。
だが、僅か数日でスラム街の孤児たちを下水道から引っ張り上げ、新しい塒を確保した。
その対価として差し出したのが、なんと寿命二十年。全く馬鹿げている。
「エルナー、何を見てんの?」
「新しい子ですよ。とんだ気違いです。恐ろしく短気で自らを省みるという事を知りません」
「ああ……白蛇の弟の?」
「そうなんですか? 確かに口元が似てますね。好戦的な所もアイツにそっくりですが……」
『半使徒』にして未だ存命中。ただの人間種にありながら、母に抜擢され、使徒を纏める役職に就いた『騎士』。第十六の『使徒』。
白蛇……『レオンハルト・ベッカー』。
使徒として三百年以上の時を過ごした第三使徒エルナにとって、半使徒の白蛇の存在は目障りでしかない。
第一使徒『エミーリア』は、嬉しそうに言った。
「白蛇はさー、サクソンの出身なんだよねー」
「そうなんですか?」
第一の使徒『エミーリア』との仲は悪くない。彼女は経験豊富で物知りだ。
エルナが使徒として召し上げられ、既に三百年以上経つ。エミーリアは、よき師であり、よき友人でもある。こうして同じ部屋で過ごす事も珍しくない。しかし……
「白蛇……あれは人殺しです。大勢の者を殺めています。何故、母は――」
「エルナ」
そこで言葉を遮られ、エルナは口を噤んで黙り込んだ。
「それ以上は聞けないよ。それ以上は言わせない」
第一使徒『エミーリア』は、母に初めて認められた使徒だ。最も長く母に仕える天使とも言える。
エミーリアは厳しく言った。
「母の御心は、誰にも計れない」
「はい……すみません。使徒エミーリア」
エルナは視線を伏せる。
第十六使徒『白蛇』に対する心境は複雑だ。
エルナの見守るザールランドにやって来た、『夜の傭兵団』を率いるあの男は、時に無関心に人を殺す。
「殺せ。徹底的に殺れ。一人も生かして返すな」
白蛇の命令で、砂漠を流離う戦闘部族の殆どが皆殺しの憂き目に遭った。有名な所では鬼人のギル氏族とベル氏族。どちらも盗賊と変わらない唾棄すべき集団だが、だからといって皆殺しにする必要はない。他にもやり方はある。それがエルナの考えだ。
新しい使徒が、己の故郷……しかも『エミーリア騎士団』から出た事は、エミーリアにとっては誇りであるようだ。
上機嫌で言った。
「悪い所ばかりじゃないよ?」
「はい……」
だから質が悪い。
白蛇の残酷な命令に忠実な、残虐無比の『夜の傭兵団』の連中だが、全員が白蛇の事を慕っている。
エミーリアが手を振ると、虚無の闇に現在の白蛇の姿が映し出された。
手足の千切れた団員を見て、白蛇は陽気に笑っている。
「ははは、図々しいヤツだ。まだ生きていたのか」
「団長……団長……助けて……」
「情けない声を出すな。おい、千切れた手と足を持って来い」
白蛇……レオンハルト・ベッカーは陽気に残酷に殺す。両目共に盲いているが、剣を持ち、馬を駈って戦う彼の姿を、砂漠の民は畏怖を持って『砂漠の蛇』と呼ぶ。強い癒しの力を持つ事から『白蛇』とも呼び敬意を払う。
「団長、団長!」
「おう」
「団長、だんちょー♡」
「うぉ、気持ち悪い! 変な声を出すな!!」
怖がるのでなければ畏れるのでもない。傭兵団の連中は、皆、白蛇の事をただただ慕っている。
『夜の傭兵団』は、誰もが脛に傷を持つ者の集団だ。そんな彼らにとって、白蛇は家族同然だった。
エミーリアは、何処か羨ましそうに言った。
「愛に生き……愛に斃れ……」
「分かりませんね」
「……貴女には、まだ早すぎるかもね……」
「……」
そこで使徒の話は終わり、エルナは虚無の闇に浮かぶ『新しい子』の姿に視線を戻す。
新しい子は典型的な『神官』だ。五戒で身を律し、殆ど無駄口を叩かない。瞑想に費やす時間が異常に長い。少しその心を覗いて見たが、思考の全てが異世界言語で形成されており、エルナには理解不能だった。
神官は口が立つ。
新しい子は無駄口を嫌うが、一度口を開くと、エルナですらどきりとする事を言う。
「振り返って見よ。そこかしこにお前たちの犯した罪が散らばっている」
エルナは、第六使徒『聖者』バルナバスに言い負かされた事がある。弁が立つ者は嫌いだった。
だが、あの愚かな犬人を赦した事は評価する。きっと殺すだろうと思ったが、予想を裏切り、新しい子は『慈悲』を示した。
新しい子は露悪的で、エルナにはその性分が理解できない。やり方に大きな問題がある。だが、結果を見るとエルナは複雑な気持ちになる。
「聖エルナ教会に入ったね。エルナ、貴女の後輩になるよ」
「そう、ですね……」
力は、まだ大した事がない。だが、恐るべき苛烈さと異世界の知識と機転で問題を解決する。
己を殺しかけたジナを赦し、冒険者アレクサンドラ・ギルブレスの失われた両手を復元した。
評価する。
外科的措置を用い、悪魔の種子に対抗する手段を修道女たちに伝授した。
評価する。
ダンジョン『震える死者』の深層で神話種の討伐に成功し、新たな力を得た。ここで人間としては最高峰の神官の一人になるに至る。
評価する。
天然痘が跋扈する貧民街に乗り込み、異世界の知識を用いてこの脅威を取り除いた。こればかりは、新しい子でなければ無理な事だ。
評価する。
だが、スラムヤクザを皆殺しにした。自らも先頭に立ち、手を汚す事すら厭わなかった。
評価できない。
あまりにも殺し過ぎる。新しい子には『殺す』才能がある。『奪う』才能がある。単身で寺院に乗り込み、その恐るべき才能を用いて寺院を壊滅させた。多くの教会騎士、神官、修道女、修道士、その殆どを善悪の区別を問わず殺した。
絶対に評価できない。
忌むべき人工聖女エリシャを誅し、『焼き付け』の邪法を行った大司教コルネリウスをも破滅させた。結果的に、悪の巣窟は滅んだ。
複雑だが……評価する。
『新しい子』ディートハルト・ベッカーの苛烈な行動は、いつもエルナに問題を投げ掛ける。
この存在を善悪の秤に掛けた時、それはどちらに傾くか。
新しい子は、あまりにも露悪的だ。時に残忍ですらある。だが、あの呪われたハイエナ種を更正させた。エルナをして地獄に落ちるべきと判断した者だ。
評価せざるを得ない。
エルナなら、機会を与えず下水道に捨て置いただろう。
裏切者の教会騎士を赦した。
これも評価する。あの優生種がしでかした裏切りで新薬が損なわれ、救われた筈の命が損なわれた。仲間の教会騎士に『死神』ディートハルト・ベッカーの報告を怠った事で、寺院は壊滅的な打撃を被った。それすら赦した。裏切られて尚、母の裁きから逃した。公正である事を放棄した。それが意味する所を知らない訳ではないだろうに。
第三使徒、聖エルナは人の優しさを評価する。
時として人は邪悪だが、同時に慈悲深い存在でもある。新しい子は、何処まで行っても人間だった。
新しい子は、その深き業ゆえに死んだ。
見事な最期だった。
教会騎士を差し出して難を逃れようとした修道女たちは非道であり、非難に値する。破門も已む無しとエルナは考える。
そうなると知りつつ、新しい子は最期まで運命に抗った。
新しい子は、皮肉な事に神官を護る筈の教会騎士マクシミリアン・ファーガソンに殺された。
その生き様は、善悪の秤に掛ければ、恐らく悪に傾斜するだろう。だが……
――俺は、死ねば地獄行きだ。
エルナは複雑な気持ちだった。
アスクラピアの二本の手。
一つは癒し、一つは奪う。
新しい子の生き様は、正に母の手を体現していた。時に残酷ですらあった苛烈さは決して好きになれないが、これを一方的に悪と切り捨てるのは違う。
善と悪とを兼ね備えた新しい使徒が生まれる。やはり新しい可能性を持っているだろう。
第十七使徒『暗夜』。暗い夜から生まれた男。短い生を全力で駆け抜けた。彼は、その最期まで自ら血を流す事を厭わなかった。善も悪も関係なく飲み下した生き様は、聖女エルナをして胸を打った。
そして、死して尚、新しい子は止まらない。『成り立て』の状況では、記憶が定かでない筈だ。それにも関わらず、第十七使徒『暗夜』として生まれ変わった次の瞬間には動き出し、パルマにて今にも燃え尽きそうな運命にあった狐人の少女を助けた。
使徒による下界への必要以上の干渉は大罪だ。母の逆鱗に触れる。恐ろしい罰を受けるだろう。
だが、エルナは評価する。
その大きな『愛』を評価する。
同時にこうも思う。
強すぎる愛は、時に身を焦がす猛毒だ。あの狐人の少女が、その生涯に於いて暗夜の存在を忘れる事はないだろう。
そして選別のとき。
「暗夜、もう私を呼び出さないで下さい。二度とお前の顔は見たくありません」
「……………………分かった」
潔し。
エルナはその性分を評価する。
「お見事」
共に一部始終を見守ったエミーリアもまた、暗夜の潔い散り様を評価した。
第十七使徒『暗夜』は、持っていた全てを世界に返し、潔くその生を終えた。
『神官殺し』は、その名の通り一人の神官を殺した。世界最高峰の神官の一人だ。露悪趣味は甚だ問題だが、その大きな『愛』は、母が最も好む資質の一つだ。
愚かな優生種は、自ら戴いた主を見違え、移し身の持ち主の少年を連れ帰った。
その最期は悲しくて潔くて、母がこれを惜しまぬ筈がない。
聖エルナ教会の神父でもあった新しい子は召し上げられ、完璧な第十七の使徒として生まれ変わった。
新しい始まりから罪を背負った使徒は彼だけだ。生前の記憶は大きく損なわれるが、資質は何も変わらない。
全てを見届けたエルナの目には、安寧があった。
これから悠久に近い時間を、使徒として過ごす事になる暗夜の姿に安心した。
もう休んでいいのだ。
一人の人間として生きた時間は終わった。死と罪を糧に、苦悩の道を駆け抜けた。
エルナは、この新しい使徒に全てを教えてやろうと思った。使徒としての振る舞いや、その在り方。歴史。色々だ。あの露悪趣味は改善せねばならないが……
それもまた楽し。
そう思っていた。
冷たい目で、ひたすらピアノを弾き鳴らすその姿を見るまでは。