ハートの天使3
聖エルナ教会に帰ったゾイを迎えたのは、草臥れた表情のポリーだった。
「……おかえり、ゾイちゃん……」
暗夜の死で聖エルナ教会の修道女たちが受けたダメージは計り知れない。以降、床に臥しがちになったルシールに次いで影響を受けたのが、このポリーだ。
ポリー・アストンは子供好きだ。この聖エルナ教会に入る前は一児の母であった。その子を失う事がなければ、修道女にはならなかっただろう。
暗夜の死もそうだが、何よりもポリーに影響を与えたのは、パルマへの出入りを禁じられ、アビーが拾って来た子供たちに会えなくなった事だ。
この六年で、ポリーはすっかり痩せてしまった。種族的には土族と他の亜人の血を引いており、まだ老け込むような年齢ではないが、今では髪に白いものが目立つようになり、疲れた顔を見せる事が多くなった。
「久し振りだね、ゾイちゃん。帰ってくるの、十日ぶりかねえ……」
「……そうだね……」
正確には五日ぶりなのだが、ゾイはそれを指摘する事はしなかった。
精神的ショックと、ここ数年の激務がポリーの心を削っている。
ゾイが見る限りではあるが……ポリーは、認知能力に著しい低下が見られる。嫌な予感がする。いずれ取り返しが付かない事になるような気がする。
エルナは何もしない。
あるべきものをあるべきままに。それが、ご立派な聖女エルナの考え方だ。
ポリーには、前向きな強い刺激が必要だ。今ならまだ間に合う。少なくとも、ゾイはそう考える。
ゾイは言った。
「ポリーさん。昨夜、ディに会ったよ」
「……え?」
驚いたような反応をしながらも、ポリーの表情は殆ど変わらない。これも最近の『症状』の一つだ。表情が乏しくなり、小さなミスが多くなった。この状態が続くと不味い。
暗夜が居れば、とそう思う。
ゾイの大好きなハートの天使なら、この状態のポリーを絶対にそのままにはしておかない。
「ポリーさん、しっかりして。天使だよ。天使になってた。ディは天使になったんだよ」
「……天使?」
ポリーは、ぼんやりとして首を傾げている。
「聖エルナと同じだよ。天使。昨夜、アクアディで捕まえた」
「……捕まえたって、トンボ捕まえるみたいに……」
「本当だよ。うろうろしてた。パルマに入ろうとしてた所で、偶然会ったんだ」
「……」
ポリーは、ぼんやりしている。状況が理解できない。この数日で、また症状が進んでいる。
「第十七使徒『暗夜』」
「……ヨル? 天使……エルナさまと同じ……?」
はっきりしないポリーの様子に、ゾイは内心で舌打ちした。
もうポリーに猶予はない。
あのご立派な聖女エルナでは、誰も救えない。『使う』としたら今だ。ここが最後のタイミングになる。
「ポリーさん。口、開けて」
「……なに? 飴くれるの……?」
「そう。すごく美味しいよ。脳天まで突き抜ける」
「ふぅん……」
気がない素振りで言って、首を傾げるポリーの口に、ゾイは『泪石』を一つ突っ込んだ。
「……甘いね。すごく甘い。これは……これは……!」
効果は劇的だった。
恐るべき神力を秘めた泪石の効果は覿面だった。ぼんやりと濁っていた瞳に力が戻り、ポリーは忽ちの内に正気付いたかのようにすら見えた。
「ゾイちゃん。これ、どうしたの!」
やはり、暗夜だ。この苦境を救う天使は、第十七使徒『暗夜』以外に居ない。
「だから、ディは天使になったって言ったよね。先生は?」
「て、天使! ディちゃんが天使! え、でも……!」
反応速度も表情も全然違う。
何よりも、ポリーは困惑しているが、話を理解してない訳じゃない。
「はいはい。次は先生だよ。先生も、きっと元気になるよ」
そうだ。失われた全てを取り戻す。ハートの天使は、その為にこれを使えと言っている。
「……聖エルナは?」
帰って来たその日の内に、ポリーに代わってトップに立ったのはいいが、実際には何もしない役立たずの聖女の事だ。
「エルナさま? え……あれ? そう言えば……何してんだろうね……」
ポリーは困惑していた。効果の強い劇薬を処方され、それまでの自分の状態を訝しんでいる。
ゾイは鼻を鳴らした。
「ポリーさん。アニエスさんとか、他の皆も先生の部屋に呼んで来て。全部、取り戻そう」
「わ、分かった!」
ポリーは袖廊を礼拝堂の方へ駆けて行く。
「……」
ゾイは深く頷いて、正気付いたポリーの様子に、確かな手応えを感じていた。
◇◇
現在、ディとして暗夜が使っていた司祭の部屋に住人は居ない。
聖女エルナは、暗夜の事を酷く嫌っている。暗夜の使っていた部屋を使うのは嫌なのだそうだ。
それもゾイには気に障る。
何もしない癖に。
そうだ。聖エルナは何もしないのだ。教会の運営には積極的だが、留守がちで居ない事も多い。ゾイや他の修道女たちを馴れ馴れしく『娘』と呼び指導するが、弱ったルシールやポリーには何もしない。
暗夜が知れば、きっと役立たずと罵っただろう。
聖エルナは、ルシールが使っていた助祭の部屋を自室として使っているがこれも腹立たしい。今のルシールは、他の修道女と同様に居住塔に住居を移している。
足早に進む。
ゾイには……いや、この聖エルナ教会には、聖女エルナその人ではなく、ルシール・フェアバンクスが必要だ。
ルシールの部屋の扉をノックする。
「先生、ゾイです。今、帰りました」
部屋の中から返事代わりの咳払いが聞こえる。ルシールが床に臥してもう久しい。ここ二年の間に立てなくなった。
扉を開けると、ルシール・フェアバンクスの居室からは、明確な死の匂いがしたが……それも終わりだ。
痩せ細った身体と、すっかり白くなった髪。余命幾ばくもない老婆だと言っても通用しただろう。
それがルシールの現状だった。
「……ゾイ。帰ったのですね……いつも、すみません……」
ルシール・フェアバンクスは、ゾイにとって、道を示した教師であり、尊敬すべき修道女だ。
もう立つ事も出来なくなったが、ベッドの上のルシールは、身体を起こしてゾイを見つめる。
ゾイは言った。
「先生。母は、ディを召し上げました」
「……召し上げた?」
「天使です。第十七使徒『暗夜』。そう名乗りました」
「……!」
そこで、ぱたぱたと廊下を駆ける音がして、ポリーが他の修道女を引き連れて部屋に入って来る。
ゾイはその場に膝を着き、昨夜の一部始終を報告した。
どういう経緯からか分からないが、暗夜はアクアディの街をさ迷っていた事。
またしても強い術を使い、記憶を失くしてしまっていた事。
聖エルナ教会の窮状とゾイの話を聞いて、涙を流した事。
「ディートが、涙を……」
「はい。どうする事も出来ない、許してほしいと……」
暗夜には、ディートハルト・ベッカーとして生きていた頃の記憶がない。ゾイやルシールらの為に泣く事ぐらいしかできないと涙を流したのだ。
ハートの天使の愛は、あまりにも深い。
「……」
ルシールの老いた瞳に涙の粒が浮かんで落ちる。
全く躊躇いがない訳ではない。
ゾイは、今からする事で、強力過ぎる恋敵に手を貸す事になる。
「先生。これを……」
「……それは……『泪石』ですか……? 十粒以上も……」
流石にルシールは『泪石』の事を知っている。この一粒一粒に、どれ程の『奇跡』が詰まっているか知っている。
「暗夜は言っていました。誰かを愛する心を憎む事は、誰にも出来ないと。もう許していると。愛ゆえに犯した過ちが許されないのであれば、人は皆、絶望するよりないと……」
その言葉に、ルシールを含めた修道女の全員が静かに涙を流した。
「先生、これを……」
ルシール・フェアバンクスの身体は、その半分が星辰体だ。天使により近い身体を持っていると言える。泪石が及ぼす効果は、ポリーよりずっと大きく、より劇的なものになるだろう。
◇◇
心には、涙の方がずっと近い。
人々は希望する。愛が起こす奇跡がある事を予感して希望する。
――第十七使徒『暗夜』――
◇◇
そして、三粒の泪石が起こした奇跡で一人の修道女が力強く立ち上がる。
髪には輝きが戻り、背筋をぴんと伸ばし、切れ長の目元は凛として涼やかだ。
「……」
窓際まで歩いたルシールは、さっとカーテンを開け放ち、ザールランドの灼熱の日輪を眩しそうに見上げる。
ルシールは静かに言った。
「……聖エルナは?」
「今は出払ってます」
「そうですか」
無関心に言い放つその姿にも、以前と同じ威厳と迫力がある。
「皆、迷惑を掛けました。私は、もう大丈夫です。そんな事より……」
これで全て正しい。
ゾイをして、ハートの天使との恋は難関だ。最強の恋敵に手を貸した事になるが、この恋に疵があってはならない。正々堂々と進む道にこそ活路がある。
ルシールは言った。
「全員、使徒『暗夜』を迎える準備をなさい。ここは暗夜のものです。古臭い大昔の聖女のものではありません」
そのルシールの言葉に、ゾイを含めた修道女の全員が強く頷いた。
この場にいる修道女たちの為に、涙一つ流す事の出来ない天使はいらない。
それが、甦ったルシール・フェアバンクスの出した答えだった。
ゾイ編終了。次回よりエルナ編。