ハートの天使2
その日のゾイは強気だった。
大きなバックパックに、素材をぎっちり詰め込み、二十層にあるボス部屋を目指した。
狙いは二十層のボスである吸血鬼女王が持つ死の婚約指輪だ。呪われており、装備する事は出来ないが、装飾品としての価値は高い。
そして、二十層。
ソロの冒険者がここまで探索する事は稀だが、今のゾイには天使の強い加護がある。楽勝だった。
「無敵、無敵☆無敵のゾイさん♪」
行ける。ソロで吸血鬼女王に挑戦する事は無茶を通り越して無謀だが、ゾイは躊躇う事なくボス部屋の扉を開いた。
――吸血鬼女王。
――吸血鬼君主。
時を遡る事、六年前。当時のディによって祓われた吸血鬼女王が復活に要した時間は二年だ。吸血鬼君主に至っては五年の月日を要した。
女王にしても君主にしてもそうだが、吸血鬼は魔法生物であると同時に不死者でもある。やられても、翌日には復活する。長くて三日という所だ。それが『ダンジョン』というものだ。
まさに不朽の存在と呼ばれる二体の上級不死者が、復活までに年単位の時間を要した事は脅威であり、第一階梯の神官の恐ろしい程の力を物語っている。
同時に――
これは、素材や財貨を求めてダンジョンを探索する冒険者にとっては非常な痛手でもあった。
現在、ザールランド帝国の大神官ディートハルト・ベッカーには、特別帝国法によりダンジョンアタックが禁止されており、冒険者ギルドからは特別指定冒険者として、やはりダンジョンアタックを禁止されている。帝国とギルドによる二重の制限は、個人への明らかな罰則だった。
勿論、前代未聞の事だ。
◇◇
ボス部屋の扉が開く。
背後にエレベーターのある玄室へ続く扉の前に玉座が置かれていて、そこに悠然と腰掛け、多くの吸血鬼を侍らせる吸血鬼女王は、ゾイを見るなり目を剥いた。
「なっ……! なんぞえ、お前は!?」
ゾイは、にっこり笑ってメイスを構えた。
「撲殺天使のゾイさんです♡」
「くっ、臭い! 臭い臭い臭い! お前からは天使の匂いがするぞえ!!」
ゾイは笑った。
「あはは、そういうのいいから。殺ろうよ、おばさん」
「おっ、おば……!」
容赦ないゾイの挑発の言葉に、吸血鬼女王の眉間に深い皺が寄る。だが……
「嫌ぞえ! えい、こんなものくれてやるわ!!」
そう吸血鬼女王は言い放ち、左手の薬指に填めていた指輪を取り外してゾイに向かって投げ付けた。
「え、くれるの?」
暗夜の残した加護には期待していたが、これは想像以上の効果だ。さすがのゾイも、吸血鬼女王がボスの役割を放棄して戦闘を避けるとまでは思わなかった。
「拾うて、早う行け! 天使臭うて堪らんわ!!」
「……いや、タダでくれるんなら貰うけどさ……だらしなくない?」
その言葉には反応せず、吸血鬼女王と手下の吸血鬼たちはゾイに道を譲るように道を開ける。
「……まぁ、貰うけどさ……」
中石に怪しい光を放つ赤いルビーが填められた指輪を拾い上げ、ポケットに捩じ込んだゾイは、悠然と吸血鬼たちの開けた道を行く。
そのゾイを憎らしげに睨み付けながら、吸血鬼女王は鼻を摘まんでこう言った。
「天使の愛人かえ。それにしても、くっさいのう!」
その次の瞬間、ゾイはメイスを振りかぶり、吸血鬼女王の頭をかち割った。
「……臭いの、おばさんだよね……?」
「な……」
割られた頭からどす黒い血を流しながら、吸血鬼女王はまだ生きていた。
「お、お前は修道女じゃろう……無抵抗の者を……」
ゾイは、にっこり笑った。
「おばさん、違うよ?」
そして、ゾイは再びメイスを振り上げる。
「撲殺天使のゾイさんだよ♡」
そのゾイによる全力のメイスの打ち落としは、今度こそ吸血鬼女王の頭を叩き潰し、絶命させた。
「臭い臭い。鼻が曲がっちゃう。おばさんからは加齢臭がするよ」
打って変わって、ゾイは、にこりともせず、周囲の吸血鬼たちを見回した。
「おばさんに伝えておいて。明日も明後日も、また来るよ。毎日、殺しに来るね。嫌ならさ……」
そこで、ゾイは吸血鬼の群れを一喝した。
「君主の指輪も持って来い!」
「……」
吸血鬼たちは答えない。知性がないからというのもあるが、ゾイから溢れる強い天使の神気にガタガタと震えている。
後に残るは静寂のみだ。
◇◇
エレベーターで地上に戻り、今回の探索で得た死の指輪を含む素材の全てをギルドに卸したゾイは、空になったバックパックを背に、アクアディの街を寂れた裏通りに向かって歩いた。
今回の探索で得た実入りは大きい。溜まっていた酒場のツケを全額払っても、大半がゾイの手元に残る。
困窮の日々は終わった。
今のゾイには天使の強い加護がある。もうお金には困らない。手元には『泪石』も残っている。
「……」
ゾイは寡黙なドワーフの女だ。
てくてくと歩きながら、思慮深く生真面目に考える。その頭の中は天使の事でいっぱいだ。
やがて修道女が入るには似合わない薄暗い路地に入ったが、そこかしこに屯する破落戸たちは、ゾイを見るなり目を逸らす。
このアクアディの裏町で、ゾイの名前と顔を知らない者は堅気の連中か命知らずの馬鹿だけだ。
ゾイはアスクラピアに仕える修道女だ。だから、破落戸に絡まれても命を奪う事はしない。伊達にして返すだけだ。それが却ってゾイを有名にしている。
「…………」
ゾイが考えるのは、暗夜の残した『泪石』の使い途だ。自分に使えば、大幅に神力の上限を上げる事が出来る。通常の修道女として癒しの力を得る事は諦めていたが、それも叶うかもしれない。天使の流した涙には、それほどの力がある。
「うん。決めた」
ゾイは来た道を取って返し、その足を聖エルナ教会に向けた。いつもなら一杯飲みたくなるが、何故か、飲みたいとは思わなかった。
今の聖エルナ教会には、天使が居る。
――聖エルナ。
三百年ほど昔、勇者アウグストの魔王討滅に貢献したザールランド出身の『聖女』だ。聖典にはアスクラピアの使徒として召し上げられたとあったが、まさか本当の事だとは思わなかった。
その聖女エルナが、自らの生を終えた聖エルナ教会に帰ったのが二ヶ月近く前になる。
出鱈目に疑わしい存在だったが、紫の瞳に刻まれた聖痕は、正しく天使の証である。暗夜がそうであるように、エルナもまた聖痕を持っている。アスクラピアに仕える修道女としては、信じない訳には行かない。
スラム育ちのゾイの目から見て、聖エルナは嫌な少女だ。潔癖性で神経質。生真面目なのはいいが規律を重んじるあまり厳しく、その性格には余裕がない。
暗夜が神父をやっていた時は自由な事柄が多く、修道女たちには給金すら支給されていたが、倹約と清貧を理由にその気風と給金支払いの制度は廃止になった。
理念こそ違うが、聖エルナのやっている事は、悪名高い前寺院がやっていた事と同じだ。皆、黙っているのは、破門が解かれず生活が困窮しており、暗夜の定めた規則が形骸化して時間が経ってしまったからだ。
ルシールが元気なら、こんな事にはならなかっただろう。
ゾイは漠然と考える。
暗夜を喪ったルシールが床に臥して久しい。ポリーが代理として頑張っていたが、聖務の一切を禁じられた現状、教会の維持は難しい。その責務に耐えかねていたというのが実情だ。
そのポリーに代わり、新たに聖エルナ教会のトップに立ったエルナは寛容で正しいが、一方で規律に厳しく、仕切り屋で命令的だ。
これは暗夜とは真逆の性質だ。
暗夜は殆どの聖務に無関心である代わりに、修道女たちに自由を許した。道を示す事はあっても、指示や命令は嫌っていた。
エルナと暗夜。
どちらがいいとも悪いとも言えないが、ゾイを含め、皆、暗夜が神父であった頃を懐かしく思っている。破門を言い渡され、尚も慕わしく思っている。
ゾイも同じように思っている。
大昔でもあるまいに。倹約も清貧もいいが、それはもう流行らない。前寺院のように強欲になれとまでは言わないが、せめて自由でいたい。
口を開けば、やれ飲むな、肉を食うな、早起き早寝、黙行、水行、整理整頓清掃清潔……口うるさい事この上ない。しかも、教会の設備維持と生活の為だと言って、ゾイから金を巻き上げる。
言われずとも、ダンジョンで得た報酬は、その殆どを差し出していた。ポリーはいつもすまなそうにしていたが、エルナは当然のように全てを巻き上げる。
ゾイは、ぽつりと呟いた。
「あの天使は……いらないかな……」