ハートの天使1
初めから、ゾイは間違ってなかった。
ディートハルト・ベッカーは、アスクラピアがゾイに遣わした天使だと思っていた。本物の天使だった。本物の天使になったのだ。
第十七使徒『暗夜』。
それがゾイの天使の名前だ。見た目こそ大人の男だが、中身は変わらない。優しい暗闇。抱き締めると震えていた。可愛らしさまで、何もかも変わらない。
一糸も纏わぬあられもない姿で、ゾイは天使の胸に顔を埋める。
「……天使さま……次は、いつ会えますか……?」
ゾイは、その手に掴んだ機会を逃がすような間抜けじゃない。遠慮も容赦もしなかった。
暗夜は困ったように眉を下げ、それでもゾイの肩を抱いて引き寄せる。
「あ、うん。その、ゾイ。昨夜は――」
「昨夜は素敵でした。天使さま」
「……」
少し急過ぎたかとも思うが、この機を逃すゾイじゃない。真剣勝負は、いつだって初擊が重要だ。
乾坤一擲。一撃必殺。
忍耐強いドワーフの戦士は、いつだって一撃に命を賭ける。ゾイの手は間違いなく天使の心を捕らえたのだ。
ふふふ、とゾイは笑う。
「もう一度、愛してくれますか?」
「え……?」
暗夜は困惑しているが、ゾイは全く気にしない。昨夜は逃げなかったではないか。逃げようと思えば、いつでも逃げられた筈なのだ。だから……
――この夜にアスクラピアの祝福あれ!
ゾイは、もう一度、楽しんだ。
◇◇
身体こそ大きくなったが、ゾイから見た暗夜は何も変わらない。いつだって隙だらけ。ゾイに対しては油断している。
暗夜の左胸には『聖痕』があった。『天使』には身体の何処かに聖なる印が刻まれている。
聖典にあった通りだ。
暗夜の場合、それが左胸……ちょうど心臓の辺りにある。アスクラピアの恐ろしく強い加護。これが人間なら、身体が耐えきれず死んでいただろう。
――『心』だ。
これには意味がある。
どんな悪魔も、この天使の心臓は奪えない。この天使は、何よりも『心』を大切にしている。
あれから六年以上の月日が流れている。ゾイは少女ではなく、寡黙なドワーフの女になっている。敬虔なアスクラピアの修道女になっている。
「天使さま、神官服を着るの、手伝いますね」
「あ、ああ……」
ゾイには、その全てが懐かしく、そして新鮮だった。
てきぱきと神官服の着付けを進めるゾイの様子を見ながら、暗夜が感心したように言った。
「慣れてるな」
当たり前だ。何度こうしたと思っているのだ。脱がせるのも、着せるのも目を閉じていたってできる。なんなら、もう一度脱がせて見せてもいいぐらいだ。
だが、賢いゾイは口に出してはこう言った。
「修道女は、神父に仕えて一人前です。神官服の事ぐらいは知ってます」
「そうか」
一見、ぶっきらぼうに見えるこの受け答えも変わらない。ゾイは笑いを堪えるのに必死だった。
暗夜とは、朝早く、アクアディの寂れた街角で別れた。
「……その、ゾイ。これを……」
そう言って、暗夜は何も持たない手の平の中から真銀のメダルを取り出した。
「それは……」
何も持ってなかった筈だ。何もない所から真銀を取り出した。勿論、人間業じゃない。やらないだろうが、金貨や銀貨も『創造』できるだろう。
暗夜が、その真銀のメダルを強く握り締め、再び手を開いた時、メダルには聖印が浮かんでいた。
「……すまない。俺には当為がある。どうする事も出来ないが、せめてこれを……」
暗夜に手渡されたそのメダルには、恐ろしく強い加護が込められていた。持っているだけで、強い治癒の加護がある。弱い悪魔なら触れる事すら出来ない神気を発している。
「……天使さま……」
「ゾイ、天使はよせ。俺は、そんな上等なヤツじゃない」
ゾイは頷いた。
今は大丈夫だが、人の居る場所で『天使』等と呼べば、暗夜は逃げて二度と姿を現さないだろう。
天使との恋は慎重に進めねばならない。
「……それでは、神父さま……」
「うん、そうだな。これからは、そう呼んでくれ」
真名を呼ぶ事も同様に避ける。
第十七使徒『暗夜』の名は、軽々しく口にするべきではない。
天使には天使のルールがある。
真名には強制力がある。簡単に名乗った暗夜の方がおかしいのだ。
「その、神父さま。大丈夫ですか?」
眉間に皺を寄せ、暗夜は訝しむように首を傾げた。
「……何が?」
記憶がない事は分かる。まだ成ったばかりなのだろう。だが、この常識の欠落はゾイにとって不安でしかない。
ゾイは思い出した。
思えば、暗夜はいつだってそうだった。いつだって危うかった。苛烈で残酷だが、恐ろしく甘い側面がある。
「……」
ゾイは思慮深く考える。
……確か、強い術を使ったと言っていた。記憶の不具合はそのせいだろうが、この常識の欠落は頂けない。誰かがそれを教える必要がある。誰かが彼を支えねばならない。
付いて行きたい。
だが、まだ早い。あまりに急げば暗夜は逃げる。天使とはそういうものだ。距離を誤ると取り返しが付かない事になる。
「……また、会えますよね……?」
だから、ゾイは上目遣いに見つめるだけだ。希って見つめるだけだ。
「……あ、ああ……勿論……」
暗夜は困る。とても困った顔をする。切なる願いほど天使を困らせるものはない。
暗夜は困り果て……ゾイに特別な祝福を与えてくれた。
真摯な祈りは天使に届く。いつだって見ている。見守っている。ゾイが危ない時には駆け付ける。その祝福は、そういう意味を持つ祝福だった。
「……」
それから、暗夜は物凄く困ったようにゾイを見て……覗き込むように腰を屈めて、唇にキスをした。
「……!」
ゾイがそうであるように、暗夜の方でもゾイを心配している。それが手に取るように分かる優しいキスだった。
勿論、この機を逃すゾイじゃない。離れようとした暗夜を引き留め、今度は激しいキスを交わす。
もう子供じゃない。大人のキスだ。暗夜は面食らっていたが、どうにもゾイには抑えられない気持ちの発露だった。
思う存分楽しんで、それから離れたゾイに、暗夜は名残惜しそうにもう一度キスをして離れた。
「……」
ゾイが火照った顔を上げた時、暗夜の姿は消えていた。
別れの言葉はなし。
「もう……変わらないんだから……!」
ゾイの大好きなハートの天使は、いつだって、ひねくれ者の照れ屋なのだ。
◇◇
ゾイは、早朝のアクアディをダンジョンに向かって歩いた。
「♪」
鼻唄混じり。いつになくご機嫌で歩くゾイの手には、十二粒の『天使の涙』が握られている。
浮かれてゾイは唄う。
「すーぱー☆みらくる♪」
天使の涙。別名『泪石』。暗夜は捨てろと言ったが、恐ろしい程の神力が込められている。
これを捨てるなんて、とんでもない。
アクセサリとしても恐ろしい価値があるが、これに秘められた力には値段が付けられない程の価値がある。
この日もゾイは日銭を稼ぐ為にダンジョンに潜る。いつもは何も考えないようにしているが、ゾイは鼻唄混じりのご機嫌でダンジョンに入って行く。
「まいったなあ、魔物が寄って来ないよ……♡」
今のゾイには、『天使』の残した気配がある。強い神気の名残がある。おまけに天使の加護がある『メダル』を持っている。おそらく三十層ぐらい迄は魔物も不死者も寄せ付けないだろう。
十層のボス部屋に入っても、勿論それは変わらない。可哀想な吸血鬼は、ゾイの身体から溢れる天使の気配に怯えて密閉空間のボス部屋を逃げ惑うだけだ。
「それじゃ、かっ飛ばすよー♡」
上機嫌のゾイは、十層のボスである吸血鬼の群れをメイスで一方的に蹂躙した。
「どんどん行ってみよう♡」
吸血鬼の討伐証明である牙は、安いが幾らかの金になる。いつものゾイならここで引き返すが、この日のゾイは乗っている。
十層を越えて進むゾイだったが、やはり不死者は寄って来ない。
「はいぱー・みらくる☆」
鼻唄混じりにゾイは進む。
「みらくる☆ゾイさん♪」
向かうところ敵なし。逃げ惑う不死者を一方的に蹴散らすゾイは、最早、無双状態だった。