29 運命《フォーチュン》
荒涼とした砂の地に白いもやが立ち上っている。
場所は死の砂漠。悲しみの海を臨む地平線に陽の光が射して来て、ロビンが震える声で囁いた。
「……この感覚……久し振りです……痺れますね……」
「……」
俺は腰の後ろに手を組み、僅かに俯いて視線を伏せた。
微かな目眩と共に、俺は何かを思い出しそうになる。
死線を潜る時は、いつも……
連れて来たのはロビンだけだ。対するは聖騎士ギュスターブ。油断していい相手じゃない。
黒い全身鎧に、やはり黒い外套。兜の面頬を下ろして、ロビンが静かに言った。
「フラニーたちの事を考えているんですか? 悔しがっていましたね。まぁ、使い捨てるならあのレベルでもいいですが……」
「……」
「貴方は甘い。二人を使い潰すつもりなら、もっと勝算の高い作戦があった筈です」
それは、俺の戦い方ではない。
「犠牲を受容する事で、より大きな実りを手にする事が出来た筈ですよ」
俺は小さく舌打ちした。
似たような事を言って、エミーリアを言葉で捩じ伏せたのは誰だ?
……だから、俺は説教が嫌いなんだ。
何もかもそうだが、一度だって思った通りに事が運んだためしがない。俺自身の心ですらそうだ。
「ロビン、そろそろ黙れ。陽が昇る……」
まだ、フラニーたちを死なせる訳には行かない。
口先だけの俺……
「……」
悲しみの海の砂浜に、一人、また一人と『使徒』が現れる。
『召集』を掛けたのは白蛇だ。
俺には使徒を召集する権利はない。それは使徒を纏める『指揮官』の役割だ。俺が強く要請し、白蛇が応じた形になる。
いつものように腰の後ろに手を組み、胸を張って朝陽の到来を待ち受ける俺の元に一人の使徒が歩み寄って来る。
「……」
聖エミーリア。エメラルドグリーンの瞳に燃えるような怒りの炎を携えて、俺を上目遣いに睨み付けて来る。挑むような視線だった。
「おはよう、暗夜」
その挨拶に答えたのはロビンだ。エミーリアを見下ろして、口元に嘲笑うような笑みを湛えている。
「ええ、おはようございます。修道女、エミーリア」
「へぇ……何処かで見た事があると思ったら……いつかの狼人だね。貴女に言ったんじゃない」
そして、また一人、使徒が現れる。聖エルナ。こちらは俺の方には視線を向けず、辺りを見回して現状を確認している。
やがて白蛇が現れる。
砂と風に草臥れた外套を風に靡かせて、盲いた視線を地平線に向けている。
ここからだ。白蛇には全てを伝えてあるが、ここに至り、未だギュスターブの背信の確証はない。
「……エミーリア、なんの用だ。用件があるなら手早く済ませろ……」
エミーリアは鼻で嘲笑った。
「別に? あんたが、また何かろくでもない事を考えたみたいだから、近くで見届けてやろうと思っただけだよ」
「……」
黙り込む俺を他所に、ロビンはエミーリアの挑発的な発言を酷く喜んだ。
「さすが修道女。喧嘩を売りに来たような口振りですね。捨てられて、暗夜さんを逆恨みですか」
「……なんですって?」
エミーリアもそうだが、ロビンもロビンだ。今の俺たちに、下らない口喧嘩をしているような余裕はない。
「よせ、二人とも」
やがて、十七名全ての使徒が集結する。そして、寄せては返す悲しみの海の砂浜に立ち、今正に夜明けを迎える瞬間を待ちわびる。
ロビンは、にこにこ笑った。
「可愛いですね。修道女、エミーリア。向こうに行ってくれます? 私、修道女が死ぬほど嫌いなんですよ」
呆れた事に、ロビンはエミーリアに喧嘩を売っている。余程、修道女が嫌いな事は分かるが……
「ロビン、いい加減にしろ」
「は」
短く答え、それきりロビンは黙り込む。一見、従順に見えるが、ロビンにとっては、使徒のエミーリアですら差別対象だ。
デカい戦斧を肩に掛けるように持った女戦士、第九使徒『カッサンドラ』が言った。
「白蛇、皆、揃った。何か言いたい事があるんだろ? 始めなよ」
その言葉に、第十五使徒『ディートリンデ』が頷く。
「然り。まさか、日の出見学に誘った訳ではなかろう?」
そこで白蛇は身を翻し、総勢十七名の使徒に向き直る。言った。
「親愛なる兄弟姉妹。よく集まってくれた。まずはその事に感謝する」
「いいんだよぉ、おいらと白蛇の仲じゃないかあ!」
答えたのは小人の使徒『グラート』だ。愛想よく笑っている。
白蛇はグラートに微笑み返し、静かに頷いた。
「今日、皆に集まってもらったのは他でもない。伝えねばならん事があるからだ」
そこで使徒の間に緊張が走る。
そうだろう。使徒は、基本、それぞれ単独行動だ。仲のよい者もいるが、とことん仲の悪い者同士もいる。それらを一同に会し、伝えねばならない事があるというのは、それほどの大事という事になる。
白蛇は言った。
「我らの中に、背信の徒がいる。裏切者だ。今日はそれを処する」
その言葉に、銀髪隻眼の女、第八使徒『ベアトリクス』が手を打って笑った。
「そいつぁいい! 面白そうだ!」
白蛇は狂暴な笑みを浮かべ、頷いた。
「……それでは、第四使徒『ギュスターブ』。前に出ろ……」
名を呼ばれた瞬間、使徒全員の視線がギュスターブに集まった。
ほんの一瞬、ギュスターブは身体を緊張させる。それで十分。その身の強張りを見逃すような馬鹿はこの場に居ない。
聖騎士ギュスターブが進み出て、白蛇は薄く笑う。
「さて、聖ギュスターブ。偉大なる聖騎士。貴様を告発したのは、第十七使徒暗夜だ」
頷き、一歩前に進み出た俺をエミーリアとエルナが驚愕の面持ちで見つめている。
ここからだ。派手に殺る。俺はギュスターブの背信を証明せねばならない。
地獄の海に射す朝陽に向けて使徒が円陣を組む中央に進み出る。チクリ屋の俺に付き従うのはロビンだけだ。
使徒全員が成り行きを見守っている。俺もギュスターブも、逃げ場は何処にもない。
俺は言った。
「ギュスター、何故だ。どうして裏切った。他にも背信の徒が居るな。それは誰だ? 何名の使徒が母を裏切った?」
「……」
やはりギュスターブは答えない。それは背信の意思を肯定しているようなものだ。
「おいらが訊ねようかあ?」
そう言ったのは第十三使徒『グラート』だ。
白蛇から聞いた話だが、使徒の中には虚言が通じない者がいる。それがこの第十三使徒『商人』のグラートだ。
「……」
ギュスターブは答えない。その背中に巨大な聖槍『運命』が掛かっている。
空気が変わる。沈黙が張り詰める。全ての使徒が、この成り行きを見守っている。
「ギュスター、いい槍を持っているな。少し見せてくれ」
俺は、勢揃いした使徒の中で、ギュスターブに武装を解除しろと言っている。
「…………」
ギュスターブは『運命』を手に取り、少し考え込むように黙り込んだ。
エルナが焦ったように言った。
「ギュスター、う、嘘ですよね。貴方が背信なんて、暗夜の勘違いですよね?」
「……」
ギュスターブは答えない。答える事が出来ない。虚言を吐けば、それは忽ち第十三使徒グラートに見破られる。沈黙するよりない。無論……そのグラートとギュスターブが通じていれば話は変わる。それ故、俺はこの茶番劇を仕組んだ。
「…………」
ギュスターブは名残惜しそうに『運命』を見て、それから俺に灰色の瞳を向ける。
俺は言った。
「なあ、ギュスター。俺の勘違いなら、この非礼は如何様にも詫びる。その槍を見せてくれ」
そう言った俺の背後で、ギュスターブの背信を断言していたロビンが呆れたように大きな溜め息を吐き出した。
エルナが叫んだ。
「ギュスター! 今は『運命』を渡しなさい! 後は私がなんとかします!!」
「……」
ギュスターブは答えない。何もかも想像通りで……反吐が出そうだ。
刹那が揺蕩う。
ギュスターブは、やはり考え込むようにしていたが、手に持った巨大な聖槍『運命』を、俺に向かって投げ渡した。
――今。
その瞬間は、時間が間延びしたかのようにすら感じた。
すかさず俺は進み出て、宙を飛ぶ『運命』に手を伸ばす。
殆ど同時に、ギュスターブも動いた。
俺とギュスターブは、殆ど同時に『運命』に手を伸ばす。
ギュスターブの方が僅かに早い。俺は間に合わない。目の前を運命がすり抜けて行く。
「ギュスター!」
エルナが悲鳴を上げた。
聖槍『運命』は再び聖騎士ギュスターブの手に戻った。
全ては瞬き程の間の出来事だった。
ロビンが俺の腰を抱いて背後に飛び退くのと、ギュスターブが聖槍『運命』で刺突を繰り出したのは殆ど同時の事だった。
これにより、ギュスターブの背信は確定した。
運命は、ロビンの超反応を前に俺の命を捉える事、能わず。
灼熱の太陽が昇る。
その陽光を照り返すように、俺の髪に星が舞う。両手が青白く輝く。
ここで『運命』を手に入れる事が出来れば、それが一番だったが、今となっては是非もなし。
ギュスターブは腰だめに構えた運命を繰り出すが、それはロビンが真銀の剣で弾き飛ばす。
これより、第二シークエンス。
ギュスターブは第二擊を放つべきではなかった。ヤツは形振り構わず逃げるべきだった。
このタイミングだ。絶対に逃がさない。指を鳴らす。
『死神』と『聖騎士』と。
敬愛する母は、そのどちらに微笑み掛けるだろう。
強力な神聖結界を張るのと同時に、俺は使徒全員を伴って『部屋』に跳んだ。