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アスクラピアの子  作者: ピジョン
第四部 青年期『使徒』編(前半)
218/309

21 死神『暗夜』2

 ――あんた……死神みてえだな……。


 不意に記憶の底で淀みが生じ、そんな言葉が耳を打つ。


 錆び付いた鉄の扉をアイヴィが開け放った瞬間、えたような匂いが鼻を衝き、宙に浮いていたマリエールの細い手が優しく俺の視線を覆い隠した。


先生ドク、見ないで……」


 その光景は、俺が見るべきものではないのだろう。マリエールの声は震えている。


「よせ、マリエール」


 俺は、この地獄に弟子を探しに来たのだ。これでは弟子の顔が見えない。

 そっとマリエールの手を振り払う。

 視界が開ける。その直後、広がった光景は、俺を絶句させるのに充分な地獄の光景だった。


「……」


 まず、目に映ったのは、砂地の長い一本道だ。その一本の道を挟むように鉄格子の檻が並んでいて、牢屋には多数の訓練生とおぼしき者たちが苦悶の呻き声を上げて転がっている。見る限り、全員、全身がケロイド状に焼け爛れており、重度の火傷を負っている。このまま放置すれば、火傷から来る感染症を起こして全員死ぬだろう。


「なんだ、これは。何故、こうなった」


 牢の扉は開いていて、行き来可能になっている。その苦悶の呻き渦巻く地獄の中を、襤褸を纏った二人の女が行き来して訓練生の治療に当たっているようだ。


「……」


 まさかとは思う。

 この『ムセイオン』の訓練課程に『水泳』がある事は知っている。だが、『悲しみの海』の強酸性の海でそれを行ったとは思いたくない。それはもう、訓練等というものではない。ただの自殺行為だ。


 俺は胸糞悪くなって、強く指を鳴らして回復術を行使した。


 ニンゲンの神官には回復不能の重傷だが、生憎と俺はニンゲンではない。広範囲に渡って目が眩む程の銀の輝きが溢れ返り、地獄のような苦悶の呻きが安らぎの吐息に変わり、俄に静まり返る。


 吐息まで、この非道への怒りに震える。俺は言った。


「誰も何も言うな。聞きたくない」


 俺は、この上なく不愉快だった。今はもう治してしまったが、ここに居る訓練生たちは死を待つだけの者たちばかりだった。


 ――弱い者は死ぬ。


 ザームエルの言葉だ。それもまた真理。認めよう。この世界はそんなに甘くない。強くなければ生きて行けない。だが……


「……アイヴィ。一つだけ聞く。泳いだのか……?」


 俺は……今、どんな顔をしているのだろう。分からない。分からないが、アイヴィは涙目になって唇まで震えている。

 アイヴィは小さく頷き、消え入りそうな声で呟いた。


「……はぃ……泳ぎました……」


 瞬間、俺の頭は沸騰した。


「この馬鹿が! 馬鹿共が! あの地獄の海で泳ぐヤツがあるか!!」


 使徒の発する『雷鳴』に、この場の全員が打たれたように身体を震わせた。


 激しい怒りに全身から神力が溢れ出し、青白く輝く。髪が舞い上がり、辺りに銀の星が舞う。


 俺は、この『ムセイオン』を消してしまおうと思った。


 その俺の前に、襤褸を纏った二人の女がふらふらと歩み出て平伏した。


 痩せ痩けていて衰弱甚だしく、所々抜毛が目立つ二人の獣人の女だ。一人はハイエナ種。一人は犬人の女。

 ハイエナ種の女が、震える声で言った。


「……師匠、お久し振りです……ずっと、お待ちしておりました……」


 そう言ったハイエナ種の女からは確かに絆を感じる。強くて儚い絆だ。疑う事なく信じ、たゆまず己を律する事でしか維持できない絆。俺の弟子。


 見る限りだが、俺の弟子は衰弱こそ酷いが火傷は負ってない。


「こんな所で、何をしていた……」


 怒りを噛み殺す俺に、弟子は平伏したままで答えた。


「こいつら、今にも死にそうで……見ていられなくて……オレ……オレたち、必死で……」


 この何もない牢獄で、俺の弟子は良心に従って負傷者に寄り添っていた。俺は……


「顔を上げろ。お前に恥じる所は何もない。俺の弟子が軽々しく額突ぬかずくな」


「……っ! はぃ……はい……!」


 ハイエナ種の女が涙で濡れた顔を上げる。視線が合う。俺の『夜の目』は、この女をこう見定める。


 気性の荒い女。元は邪道にあったが今は正道に立ち戻り、俺の弟子として疑う事なく己の道を信じ、たゆまず己を律し続けていた。


「……俺には記憶がない。名乗れ……」


 記憶がない。そう聞いて、一瞬、顔を歪ませたが、ハイエナ種の女は静かに答える。


「フランチェスカ……」


「そうか。分かった」


 ひざまずくフランチェスカの髪を、くしゃりと撫でると、黒茶斑の髪が指の間に挟まって、ごっそりと抜け落ちた。


「…………」


 俺は黙って指の間に挟まった弟子の抜け落ちた髪を見つめていた。


 その俺に、マリエールが怯えたように言った。


先生ドク……怒らないで……これ以上、怒らないで……」


「…………」


 俺は膝を着き、弟子の肩に手を置いて穏やかに言った。


「フラニー、よくやった。お前を誇らしく思う」


「フラニー?」


 弟子は首を傾げて見せるが、通常、『フランチェスカ』の愛称は『フラニー』か『フラン』だ。


「……フランと呼んだ方が良かったか……?」


 弟子は、一瞬、困惑したように視線を泳がせたが、僅かに微笑み返して頷いた。


「……いぇ、フラニーで……そうお呼び下さぃ……」


 それは、嗚咽につかえたか細い声だった。


「うん。フラニー、少し休め。それより、隣の者は……」


 フラニーの隣で、未だ額突ぬかずいたままでいる犬人の女だ。こちらも衰弱甚だしいが、身体に傷のようなものはない。


「オレの友人です。助け合ってやって来ました……」


 泣きじゃくるフラニーに、俺は優しく微笑みを返す。


「そうか。分かった」


 この地獄で、俺の弟子と手を取り合ってやって来たというなら、それは俺にとって恩人だ。


「……マリエール。後を頼む……」


 俺は強く指を鳴らした。

 その瞬間、マリエール共々、周囲全ての人間が消え去った。


 命ある者は、全員、『部屋』に送った。後は『門番ゲートキーパー』として『権限』を使うマリエールが適切に扱うだろう。衰弱したフラニーとその他の者に食事を与え、休むのに相応しい環境を提供する。


「……」


 俺は立ち上がり、もぬけの殻になった地獄を見回して一つ頷く。


 ここで得るものは、もう何もない。牢屋には間に合わなかった訓練生たちの遺体が転がっている。


 その無念と怨念を飲み込んで、俺は神官服リアサの裾を翻す。


 後に残るは静寂のみだ。


◇◇


 『公正』『奉仕』『慈悲』『慈愛』『無欲』。


 五つの戒め全てがこの胸を熱くいている。


 ムセイオン全体が俺の激しい怒りに鳴動して震えている。裁きの日に怯え、震えている。


 砂地に青白い神力が迸り、八方に突き抜けて行く。


 これより、触れることあたわず。見ること能わず。


 ザームエルの居る闘技場アリーナに取って返す俺に、ムセイオンの戦士たちが群がるが、それらは俺を目にした刹那、倒れ伏して動かなくなる。


 アスクラピアの蛇は悪食だ。なんでも喰らう。俺はこの身に宿す蛇を解放して、ザームエルの居るアリーナを目指した。


 俺は、第十七使徒『暗夜ヨル』。何処までも暗い夜の中よりやって来た死神。


 それが俺の個性オリジナル。人ならざる俺の個性オリジナル


 死屍累々。ムセイオンの理念に従う地獄の獄卒共を皆殺しにして進む。


「うん? どっちだ?」


 少し道に迷ったお陰で死人がまた増える。その命を喰らいながら進む。全身に蛇が浮かび上がり、形あるものとして顕現して身体に纏わり付く。


 アイヴィだけでも残すべきだったのだが、この術は対象を選ばない。是非もなし。

 俺は妙に納得して頷く。


「これもまた運命。迷い道もまた楽し」


 全てを灰塵に帰す。俺という死神が訪れたこの日がムセイオン最後の日だ。


「どんな輝きによっても、お前は暖まらない」


 終わりにしよう。

 俺は新しい祝詞を紡いで、このムセイオンに死を賜る。


「太陽はもう笑わない。

 全てが虚ろで冷たくつれない。

 優しく輝く星さえも為す術なくお前を見つめている。

 夜空の星は世界を見つめ、世界を侮り、己の熱火に焼け失せる」


 俺を中心に青白いほのおが巻き上がり、ムセイオン全体に燃え広がって行く。

 全てを焼き尽くす地獄の焔だ。


「……」


 その焔で煙草に火を点ける。

 風情がある。中々に愉しい。地獄の焔に焼かれ、悶え苦しむ獄卒共を踏み越えながら、流れる紫煙をぼんやりと見送って、俺は呟いた。


「誰も逃がさんよ」


 地獄の焔により浄化され、ムセイオンの全てが焼け落ちる。


◇◇


 孤独は愛すべきである。

 自身と孤高の内に生き、為すべきしっかりした事があれば。


《アスクラピア》の言葉より。


◇◇

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― 新着の感想 ―
[一言] ディーではなく暗夜として確立したが、本質は変わらず苛烈で優しい僕の好きな主人公だった。 使徒になってさらにパワーアップしすぎてこの先が少しおっかない。
[良い点] フランチェスカが身を削りながらも正道に至る道を歩んでいることに涙が出た、、、 ジナもよく耐えた。誇りに思う。 [一言] 更新ありがとうございます。 新しく更新されるのをお待ちしてます!
[良い点] 2人と暗夜が会えてよかった [一言] 暗夜の弟子として鍛えにきたんだから、こんな地獄で他の訓練生を見捨てられないよなあ これだけ徳を積んでたらアスクラピアも喜んでそう
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