20 死神『暗夜』1
俺は……癒しと復讐の女神『アスクラピア』の子。
しかし……そんな事とは関係なく、アスクラピアを母と呼び信仰している。何故か?
「聞け、ザームエル。我が母は、使徒たる俺に善を行えとも悪を為せとも言わん。何故か分かるか?」
溢れ出した神力で髪が舞い上がり青白い星が舞うが、ザームエルは余裕の笑みを崩さない。
嗄れた声で楽しそうに言った。
「……天使どののご高説……興味深い……是非ともお伺いしたいものだ……」
俺は鼻を鳴らした。
「そのどちらかを命じた時点で、俺は自由ではなくなるからだ」
それは俺のような『使徒』に限った事ではない。母は人間らしい行いの全てを愛した。そこに綺麗も汚いもない。善も悪もその存在を許した。俺の自由を奪った時点で、母の神性は消え失せる。
「お前がそうであるように、俺の心は俺だけが持っている。自由でない心から生まれた行動に意味はない」
この『ムセイオン』は穢れている。凄まじい怨念の渦巻く呪われた地だ。無念を飲み、絶望の内に死んで行った者のなんと多い事か。
マリエールが、俺の耳元で囁いた。
「……先生、怒らないで……」
「無理だ」
ムセイオン施設長ザームエルは特別だ。特別な『戦士』だ。おそらく、闘技場に集う戦士たちが束になって掛かっても敵わんだろう。
このザームエルの存在こそが『ムセイオン』だ。
母の考えは知らん。だが、運命が俺をこの地に導いた。
俺の行いに、善も悪もない。母はその自由な俺の行いを見守っている。いつだって見つめている。その『アスクラピアの子』第十七使徒『暗夜』はこう答える。
「何事にも程度はある。弁えろよ、ニンゲン」
そうだ。因果は巡る。
鍛え上げ、強い戦士を作り上げる。なるほど素晴らしい事だが、人が人としてある為にやっていい事には限度がある。ムセイオンを取り巻く怨念は、俺が許せる限度を遥かに超えている。
「少し遊んでやろう」
クズを相手に手を汚すのは真っ平だ。因果は巡る。その業の深さが『ムセイオン』を焼くだろう。
ここでなら使える。
「美術館」
俺の『夜の眼』に、このムセイオンはそう映る。数多の戦士たちが無念と怨念を残して息絶えたこの地は、怨霊の美術館。今回はそれを使う。
◇◇
記憶は消えてしまってもよい。今、その瞬間の判断を誤らなければ。
《アスクラピア》の言葉より。
◇◇
使徒詠唱。
「彼らに存在は与えられていない。
彼らは流れに過ぎない。
彼らは喜んであらゆる場に現れる」
母の手は二本ある。だが、それは単純に『奪う』事と『癒す』事だけが全てではない。多を一のように感じろ。一の中に多を見出だせ。そこに全ての始まりと終わりがあるだろう。
「土の中に朽ちる定めを解く。追憶の夢が朝の夢に触れる」
空に暗雲が垂れ込め、闘技場に無数の逆印が現れる。
俺は居並ぶ闘技場の訓練生たちに向けて言った。
「戦士たちよ。どうか、どうか動かないでいてほしい。今から現れる者は、お前たちの敵ではない」
代価を払うのは、この怨念渦巻くムセイオンの施設長ザームエルと、その理念に賛同する者だ。
俺は、永きに渡り奇妙な部屋で遊んでいた訳ではない。永き時を経て、俺は新たな『個性』を身に付けた。それがこの術だ。
斯くして俺は、地獄より『彼ら』を喚び出す。
「開け――暗夜の扉――」
「……!」
そこでザームエルの余裕の笑みが崩れた。
闘技場に浮かんだ無数の逆印から、おどろおどろしい闇が吹き出して、やはり無数の影を結ぶ。地獄よりの使者。地獄より来た戦士たち。
俺は、のんびりと言った。
「神聖術は使えるかね」
これは死霊術の領域だ。通常の神官には扱えない術だが、生憎、俺は通常の神官ではない。
「泣いて喜べ。このムセイオンに集った死の戦士たちだ」
俺は神官服の裾を翻す。
「ザームエル。生きていたら、今度は直に遊んでやろう」
名付けるなら『裏召喚』というべきか。通常の召喚兵とは違う。限られた環境でしか使う事は出来ないが、こいつらは恐ろしく強力だ。この『ムセイオン』に渦巻く怨念がそうさせる。永年の時を経て生まれた業がそうさせる。
闘技場の戦士たちは動かない。皆、この光景に恐怖して動けない。状況を見守っている。
雲霞の如く現れた闇色の戦士たちがザームエルに襲い掛かった。
死の戦士たちは死なない。既に死んでいるのだから当然だ。闘争は無限に続く。或いは、このムセイオンの業が尽きるまで続く。
「うおあああああッ!!」
ザームエルは雄叫びを上げ、複数の護衛と共に応戦するが、それもいつまで持つだろう。
俺は嘲笑った。
ザームエルもそうだが、共に交戦する護衛の戦士たちも獣人だ。『超能力』での対抗は難しい。単純な腕力は役に立たない。神官か悪魔祓いの領分だ。
「アイヴィ、地下施設だ。地下施設に案内しろ」
「……は、はぃ……」
幼いアイヴィは震えていた。
ザームエルは自らが先頭に立ち、護衛の戦士と共に果敢に応戦するが、死の戦士たちは無限に湧いて出る。
「この状況を説明してみる事だ。そうすれば、己のした事の意味が理解できる」
俺は煙草を咥えて火を点けたが、それを忽ちマリエールが取り上げ、澄ました顔で投げ捨てた。
喫煙者は肩身が狭いのが問題だ。
「うおおおおおおッ! 戦士たち、力を貸せッ!!」
背後で焦ったザームエルが何やら吠えているが、知ったこっちゃない。闘技場の戦士たちもそう思うのか、振り返る事すらせず、我先にと吐き出し口から飛び出して行く。出口に向かうのだろう。
宙に浮き、相変わらず俺の首に抱き着いたままのマリエールが、溜め息混じりに呟いた。
「歴史的大問題」
俺は笑って請け合った。
「誠に結構だ」
覚束ない足取りで歩き始めたアイヴィの後に付いて闘技場を出て、トンネル型の通路を行く。
「こ、こちらです。天使さま……」
「アイヴィ、天使はよせ。暗夜だ。俺はそんな大したヤツじゃない」
このアイヴィとは、便宜上、主従の関係を結んだが、俺は戦闘奴隷が欲しい訳じゃない。望むならこの場で解放しても構わない。
俺が欲しいのは、強い『戦士』だ。そういう意味ではザームエルの存在は惜しいが、俺にも好き嫌いはある。人を人とも思わないようなクズは論外だ。そんなヤツを連れていれば、俺自身の品性を疑われる。
マリエールは胡座をかいた姿勢で宙に浮かんで付いて来る。
不意に言った。
「……先生。ここ、燃やしちゃおうか……?」
『大魔術師』のマリエールなら、このムセイオンを灰塵に帰す事も可能だろう。だが……
「いや、訓練を積む戦士たちに罪はない」
「……でも、仕返しに来られても厄介だし……」
「捨て置け。その時はその時だ」
人間にはニンゲンの。俺には使徒としての感性がある。見逃しているものを、敢えて向かってくるというのなら、文句がないように扱うだけだ。
トンネルのような細い通路をアイヴィの先導で進む。
闘技場での異変を感じ取ったのだろう。途中、ムセイオンの警備に当たっている戦士たちの襲撃を受けたが、それらはマリエールが強烈な風の魔法で殺してしまった。
「共犯」
そのマリエールの言葉に、俺は笑った。
「ははは、なら俺は主犯だな」
A級冒険者、大魔術師にして純血のエルダーエルフ。『マリエール・グランデ』の力は伊達じゃない。
『魔術』による鋭い鎌鼬が発生し、出会い頭で不意を突かれた戦士たちの首が飛ぶ。何人かは死に損ね、四肢をばら撒き悶え苦しむ羽目になったが、それを無視して進む。
先を行くアイヴィの足取りは覚束ず、恐怖からか、レギンスは股間の部分が濡れている。やがて細い通路の向こうに階段が見えて来た。地下施設に続く階段だ。
「……弟子、か……」
生前に結んだ縁だ。記憶を失くした今の俺が、その弟子にどう映るかは分からない。或いは他の戦士と同じく俺に立ち向かうかもしれない。
闘技場からは、まだザームエルの咆哮と戦士たちの雄叫びが聞こえる。
階段に近付くに連れて、死臭が鼻に衝くようになって来た。
「ん……」
ずきん、と頭が痛み、俺は眉間を揉んだ。既視感がある。いつだったか、俺は似たような場所に行ったような気がする。
「先生……?」
「……いや、何でもない。大丈夫だ……」
俺の記憶は大きく失われている。それでも覚えている事があるとするなら、それは蛇が嫌う不味い記憶だ。
「少し……急ごうか……」
その俺の言葉に、マリエールが険しい表情で頷いた。
細く長い階段を駆け降りて行く。突き当たりに鉄製の扉があって、俺は僅かに顔をしかめた。『純鉄』ではないが、『鉄』は神官の俺にとって鬼門だ。
錆び付いた鉄の扉。
鉄の閂が掛かっていて、中からは開けられないようになっている。中に居る連中は閉じ込められているという事だ。
「アイヴィ、開けろ」
俺は鉄を苦手にしているし、エルフのマリエールに至っては非力だ。このアイヴィを買った事は無駄じゃなかった。
「は、はい……」
扉が開く。地獄の扉。俺は……いつだったか、似たような地獄の扉を開けた覚えがある。
僅かに揺らぐ記憶の底で稲光のように閃いて消えたのは、悲しそうに俺を見る狐人の少女。
――女王蜂。
そして――