18 何処までも暗い夜の中より、『暗夜』2
永い……永い時間が経過した。
あらゆる本を読破し、あらゆる知識を集積し、そして飽くなき考察を重ねた。長命種であるエルフのマリエールでなければ付き合い切れなかっただろう。
――第十七使徒『暗夜』は完成した。
それまで生きて来た時間より、更に長い時間を奇妙な部屋で過ごした。新しいパーソナリティを得るのは当然の事だ。
「見ろ。使徒誕生の瞬間が見られるぞ」
マリエールを膝の上に座らせ、ソファに深く腰掛けた俺は闇に浮かぶディスプレイ画面を指差した。
俺自身を解析する事により得られた過去のデータだ。情報量は少なく、使徒になる直前のものだけを再現できた。
映し出された画面の中で、『神官殺し』で刺された俺が元の身体に帰る。黒髪、黒目の男。それは紛れもない俺自身の姿だ。まだ肉体を所持しているが、それも……
過去を映す画面には、第十七使徒『暗夜』が写し出されており、全身に矢を受け、瀕死になった狐人の少女を助けていた。
「……まだ記憶が残っているな。あの狐人の少女は……」
画面に映っているのは紛れもない俺だが、狐人の少女には見覚えがない。
俺の首筋に顔を埋めたマリエールが、興味なさそうにディスプレイを見やり、ぽつりと呟いた。
「……女王蜂……」
「あれが……」
――『女王蜂』。
現パルマの支配者。何故か分からないが気に掛かる。必死で突っ張って生きている路地裏の少女。その姿に俺は……
「ん……」
何も思い出せない。何も感じない。そして、それは、もう過ぎた事だ。俺は頭を振って感傷のようなものを追い払う。
だが、母に罰された理由には納得した。使徒になった直後の俺は、母の許可なく即座に下界に干渉し、あの狐人の少女を救った。
世界は薄い膜の集積体だ。
別の世界線から『俺』を見る俺は、『俺自身』の行動を他人事のように観察している。
全てを失う前の俺は、余程、あの狐人の少女を気に掛けていたのだろう。命を助けた事もそうだが、母の許しなく強い加護を与えた。それは下界の者への必要以上の干渉だ。エルナの言った通り、俺は恣意的に公正を欠いた。
「……愛、か……」
他でもない俺のした事だ。理解できない訳じゃない。ただ……それはもう過ぎた事だと思う俺がいる。
そして、レネ・ロビン・シュナイダーは最後まで俺という『人間』を理解しなかった。
ディスプレイの中に映る過去のロビンは、嫌悪感剥き出しの表情でこう言った。
『暗夜、もう私を呼び出さないで下さい。二度とお前の顔は見たくありません』
俺は不愉快になり、強く鼻を鳴らした。
「悲劇だな。狂う訳だ」
結局、ロビンは過去を変えられなかった。俺というパーソナリティは損なわれ、ロビンが求めた『俺』は永遠に帰らない。
『神官殺し』に刺された俺は、なんとか『移し身』のガキ……『ディートハルト・ベッカー』を下界に帰してその生を全うした。
「…………」
暗い虚無を映すだけになったディスプレイを見続ける俺に、マリエールが心配そうに言った。
「先生、何か思い出した……?」
「いや、何も。全て忘却の彼方だ」
何も感じない。もう終わった事だ。長い時間をこの奇妙な部屋で過ごした事で、全てを過去の事だと割り切れる。
「……愛もまた死ぬ……」
闇に浮かぶディスプレイを掻き消して、俺はマリエールを抱えたまま、暫く煙草を吸った。
「……無常だな……」
人の生は儚い。生滅流転の法則。永遠不滅のものはない。人の枠組みを超え、使徒として存在する俺はその無常を嘆いた。
「……そろそろ、帰るか……」
おかしな表現になるが、俺にとっては過去になる『現在』に帰るのだ。他の使徒の動向も気になる。
「……元の世界には、帰らないの……?」
「……」
長い時間をこの奇妙な部屋で過ごした。考察を重ね、理論的にではあるが、元の世界に帰る方法も分かった。
俺を見つめるマリエールは、目元を赤くして、今にも泣き出しそうな顔をしている。「帰る」と言えば必ず泣くだろう。だが……
「心配するな、マリエール。元の世界に未練はない。この世界の方が面白そうだ」
元の世界……『地球』に帰るには『特異点』に行く必要がある。『部屋』から『部屋』への移動を繰り返せば不可能ではないが、使徒たる俺をして、それには非常な困難と危険が伴う。
帰らないと言った俺の言葉に安堵して、マリエールは微笑む。
「……聖エミーリアと聖エルナが部屋に干渉してる。どうする……?」
「捨て置け。考えがある」
「lock levelは?」
「5(永続的)にしておいてくれ。今は関係したくない」
つるむのは性に合わない。特にあの二人は騒がしい。そして信用できない。
「マリエール、お前が居れば充分だ」
「……」
マリエールは微笑むだけだ。彼女は、とにかく静かな所がいい。知的探究心も旺盛で、俺のイカれた提案にも面白そうに乗って来る。身体的接触が多いのが玉に瑕だったが、もう慣れた。
「先生、宛はあるの?」
「ああ、ある。顔は分からんが、どうも俺には弟子がいる」
生前の俺が結んだ絆だ。 その縁が未だ切れてない。健気に俺を待っている。不出来な師匠としては、その思いに報いてやりたい。
「弟子? ああ……あの……ハイエナ種の……」
「なんだ、知ってるのか?」
この部屋での長い暮らしで忘れていたが、マリエールとの縁もまた、生前の俺が結んだ縁の一つだ。弟子の存在を知っていたとしても不思議じゃない。
マリエールは小首を傾げた。
「うーん……あんまり覚えてない。でも、二人いたような気がする……」
「二人? 感じる縁は一つだが……まあいい。行ってみるか」
弟子はもう、俺の存在に気付いている。とても強くて儚い絆。俺を固く信じて待っている。
「何処に居るの?」
この弟子は期待できる。俺の降臨に備えている。
「ムセイオン」
俺はマリエールの腰を抱えたまま、指を鳴らして飛んだ。
◇◇
優れた獣人の戦士を養成する施設『ムセイオン』は死の砂漠に聳え立つ殺人施設だ。そこでの訓練過程は正に地獄だ。単純な戦闘訓練は勿論、断食、拷問等の常軌を逸した訓練も行っている。その過酷な訓練に耐えきれず、多くの訓練生が死んだ。呪われた殺人施設。神官の俺にしてみれば、怨念渦巻く穢れた地だ。
久し振りに降り立った下界は荒れていて、強烈な砂と風が吹きすさぶ嵐。
「マリエール、大丈夫か?」
「問題ない」
短く答えたマリエールは、だぶついたローブにとんがり帽子。典型的な魔術師の格好で、僅かに宙に浮いて俺の後に付いて来る。
ふわりと飛んで、俺の首に抱き着いた。
「楽しみ?」
「少しな」
砂嵐の中に、古代ローマの円形闘技場に似た巨大な建築物がある。
吹き荒れる砂塵の中を進む。
使徒である俺は無論だが、マリエールもまた下界に於いては強力な魔術師だ。特に問題はない。
巨大な岩で造られた門の前には、傷だらけの二人の門番の男が立っている。
首にマリエールを纏わり付かせた俺を見て、門番の男たちが誰何の声を張り上げた。
「貴様は誰か!」
「俺は暗夜。ここに弟子がいる。迎えに来た。会わせてもらいたい」
「では、待て!!」
無骨だが、率直なやり取りは嫌いじゃない。門番の一人が奥へ姿を消し、俺は嗤って残った一人の門番の男と見つめ合う。
「あまり見るなよ。殺したくなる」
狂暴に答えたのは、このムセイオンに感じる凄まじい怨念に当てられての事だ。
だが、門番の男も負けてない。俺の不敵な言葉にも、狂暴な笑みを浮かべて切り返す。
「やってみろ、神官」
「冗談だ」
俺は笑って目を逸らした。
下界の者だが、かなりの闘気だ。そしてデカい。獅子を連想させる風貌。素手だが強力な『戦士』だ。身体に不思議な力の波動を感じる。……超能力。擬態して本性を隠している。底が知れない。
たかが門番風情がこの風格。殺人施設は伊達じゃないという訳だ。
「この死の砂漠を、身一つで女連れか、神官。余裕だな」
「ははは、いけないかね。木偶の坊くん」
俺は俺だ。腰の後ろで手を組んで、いつものように胸を張る。身体から神力が溢れ出し、俄に空気が張り詰めて行く。
俺は第十七使徒『暗夜』。アスクラピアの子にして、下界では強力無比な神官だ。
門番の男は僅かに眉を寄せ、目を凝らして俺を睨んでいたが、警戒心も露に言った。
「……階梯は?」
「勝手に想像しろ。待っているのも退屈だ。少し、遊んでくれないか?」
「……」
黙って睨み合う俺と門番の男から、マリエールがふらりと飛んで距離を取る。
俺は……闘争を好む。向かって来る相手なら尚いい。純粋な意思と意思とのぶつかり合いは、いつだって好ましい。
決着の瞬間、命の花が咲いて散る。その瞬間のなんと甘美な事か。
「安心しろ。俺ぐらい慈悲深い神官は居ない。速やかにあの世に送ってやる」
嗤う俺を見る門番の男の額に、汗が浮かんで頬を伝う。
「い、いや、やめておこう……」
「そうかね。残念だ」
強いだけでは駄目だ。俺との戦闘を避けた門番の男は強いだけでなく敏い。
さて、この地獄で長きに渡って鍛えた俺の弟子はどうだろう。
俺は、改めて狂暴に嗤った。