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アスクラピアの子  作者: ピジョン
第四部 青年期『使徒』編(前半)
213/308

16 懺悔

◇◇


 どんな輝きによっても、お前は暖まらない。


 太陽はもう笑わない。


 全てが虚ろで冷たくつれない。


 優しく輝く星さえも為す術なくお前を見つめている。


 夜空の星は世界を見つめ、世界を侮り、己の熱火に焼け失せる。


◇◇


 心の中に祝詞が湧き出して消えて行く。

 母は平和を与えない。

 心は、こうして時折の感傷を祝詞として留め、俺に祈りと戦いのすべを与えるのみ。


 俺は……第十七使徒『暗夜』。

 最早、人ではない。空虚な心が感傷に揺れる事はあっても、決して愛の暖かさには震えない。


 だが、心は期待する。愛が起こす奇跡がある事を予感して希望する。


 かたん、ことん、と固い床を打つ涙の粒を、ゾイが慎重に拾い集めている。

 ゾイの激情は去った。

 今は、手袋をはめた手で、俺の流した涙の粒を、手巾の中に慎重に拾い集めている。


「…………天使さま……」


 全ての涙の粒を拾い終えて、ゾイは静かに俺を見上げる。


「天使さま、ですよね……?」


 俺は、アスクラピアの『使徒』だ。母への信仰が篤い者は『天使』とも呼ぶ。


「…………」


 正体を見破られた。言い訳は出来ない。青白い輝石の涙の粒は、人の流すそれではない。今は母に自由を保証されているが、使徒が下界の者に干渉する事は、あまり誉められたものではない。

 少々、長居が過ぎたようだ。

 全てゾイが悪い。ゾイの愛に当てられた。ここにはもう居られない。俺は即座に立ち上がり、神官服リアサの裾を翻した。


「天使さま、逃げないで……逃げないで下さい……」


「……」


 愛は、いつだって油断ならない曲者だ。凍てつく寒さも太陽の灼熱も俺を捕らえる事は出来ないが、唯一、愛の情熱だけが使徒たる俺を捕らえて離さない。


 ゾイは、俺が流した涙の粒を大事そうに手巾に包み、それを俺に差し出して来る。


「……忘れ物、ですよ……?」


 名残惜しそうに言うゾイの頬は、滂沱ぼうだたる涙に濡れている。


「いらん。捨てておけ」


 冷たく突き放すが、ゾイは静かに首を振ってこう答える。


「これを捨てるなんて、とんでもない」


 不快だ。恐ろしくすらある。そうだ。俺は恐怖している。ゾイに恐怖している。己の中の何かを書き換えられてしまうような恐怖に怯えている。


 ゾイが、そっと俺の手を取った。


「……っ!」


 身体は怯える少女のように強張るが、ゾイは、その俺の恐怖を深い微笑みで受け止め、包み込む。


 小柄な少女のようにしか見えないが、ゾイのドワーフとしての身体は完成されている。見た目で人を判断してはいけない。ダンジョンで筋骨共に鍛え上げられたそれは、優秀な『戦士』の身体だった。


 その筋骨共に鍛え上げられた身体で、俺に抱き着く。俺は逃げられないままでいて……


 刹那、ゾイが嗤った。


「てんしさま、つかまえた」


 俺は…………


◇◇


 翌朝、早くに『部屋』に帰った俺は跪き、エルナとエミーリアを前に項垂れていた。


 上機嫌のエルナが、唄うように言った。


「おお、使徒暗夜よ。またしても軽率な過ちを犯したのですね。懺悔の機会を与えましょう。お話しなさい」


「くっ……」


 何もかも仕組まれていた訳ではない。ただ、エルナは俺のやらかしを確信していただけだ。この性悪聖女を叩きのめしてやりたいが、罪を犯したのは俺だ。ゾイからは逃げようと思えば逃げられた。俺は、そうしなかった……。


「暗夜よ。母は赤裸々な行いを好まれません。お前は……罪を犯したのですね?」


「……」


 言い訳は全て卑劣だった。

 俺は……ゾイとの間に一夜の過ちを犯した。使徒の身にありながら、許されぬ事だ。この性悪聖女に返す言葉がない。


 黙り込み、俯いて口を閉ざす俺を、エミーリアが冷たく見つめている。


「……」


 エミーリアは何も言わないが、その視線は心を切り刻むナイフのようだ。そのナイフの冷たい視線は、俺の心を幾重にも切り刻んだ。


 エルナはニヤつきながら、こほんと小さく咳払いした。


「さて、使徒暗夜よ。事の顛末を話しなさい。お前が罪を犯したのは誰ですか? 女王蜂? それとも陰険な猫の娘? 行き遅れの女冒険者二人? 節操のないお前の事です。ただの一晩だけとはいえ、その全員と過ちを犯したとしても、この私だけは驚きません」


「…………」


「どうしました、節操なしの暗夜。お前は、自らの罪を告白する事すら出来ない卑怯者なのですか?」


 力なく項垂れる俺を見るエミーリアと、ちゃっかり遠くから見守るマリエールの視線が激しく痛い。

 俺は短く聖印を切り、一息に言った。


悪魔祓い(エクソシスト)修道女シスタだ……」


 答えた瞬間、エルナは目を丸くして仰天した。


「え、ゾイですか……?」


 ゾイは聖エルナ教会所属の修道女シスタだ。エルナが知っていたとしてもなんの不思議もない。むしろ知らない方がどうかしている。


「いつも想像の斜め上を突き抜けるお前は、パルマに入るものだとばかり……」


 エルナは目眩を覚えたのか、額を抑え、ふらふらと覚束ない足取りで二、三歩引き下がった。


「……嘘でしょう? ゾイは修道女シスタですよ? まさか修道女シスタ相手に姦淫の罪に及ぶとは……」


「……」


 言い訳はしない。ただ、ゾイは嵐のようだった。遠慮も容赦もなかった。激しく求められるまま、俺も当てられて過ちを犯した。何度も罪を重ねた。


 今にも倒れてしまいそうなエルナを、エミーリアが支えている。


「……おお、使徒暗夜よ。お前の節操のなさは、私の予想を超えました。よもや私の娘に手を出すとは……」


「め、面目ない……」


 そう答えるのがやっとの俺に、エルナは恐ろしい獣を見るような侮蔑の視線を向けて来る。


「……それで、お前はどうしたのです……?」


「……」


 窓から青白い光が射して来て朝を告げた時、ベッドでは、あられもない姿のゾイが満足そうな微笑みを浮かべて眠っていた。


 そのゾイの身体は、日常の困窮を物語るように全身傷だらけで、俺の胸は酷く痛んだ。


 勿論、逃げるような真似はしなかった。ゾイが目を覚ますのを待ち、ちゃんと別れを告げて去った。


「天使さま、次はいつ会えますか?」


 俺はやむを得ず、ゾイに特別な祝福を与えた。ゾイの祈りが、使徒暗夜に届くように。


 ゾイは晴々とした笑顔だった。


 あの悔恨の言葉はなんだったのだ。虚偽の類いではないだろうが、その真意を疑わずには居られない。どうにも……ゾイには裏の顔がある。


「……」


 再会の約束をしたなどとは、死んでも言えない。斯くして俺は沈黙を選ぶ。

 エミーリアが冷たく言った。


「この、すけこましがっ」


 その罵倒にも、返す言葉がない。


「……すまなかった。以降、謹慎して改める……」


「そうなさい……」


 エルナは俺を罵る事すらせず、エミーリアに支えられるようにして俺の部屋を去った。二人で聖エルナ教会に帰るのだと言う。


 その去り際、エミーリアは、べっと舌を突き出した。子供のような仕草だったが、この時はそれが堪えた。


 予期せず二人を追い出せた訳だが……俺の思っていた形とは随分違う。情けない。今の俺は出来損ないだ。二人に愛想を尽かされたと言っていい。


 ちゃっかり全ての話を聞いていたマリエールが、物凄く嫌そうに言った。


悪魔祓い(エクソシスト)修道女シスタ……?」


「……ドワーフの修道女シスタだ。頼む、これ以上は聞くな……」


 なんとか言葉を絞り出した俺の前で、マリエールはハッと息を飲み込んだ。


「ドワーフ!」


 エルフとドワーフの種族相性は最悪だ。とことん悪い。マリエールは、俺に言いたい事が山ほどあるだろう。


「……そう」


 だが、マリエールが選んだのは沈黙だ。唇を尖らせ、不服そうにしていたが、俺を非難する事はなかった。だが、この沈黙が恐ろしい。エルフは思慮と知略に長ける。この先が思いやられた。


 エミーリアとエルナが出て行って、マリエールは何かと迫って来る。非力なエルフだから突き放す事は容易いが、未だ病身の身体を手荒に扱う訳には行かない。


 そのマリエールの誘惑を躱すのに、俺は酷く手を焼く羽目になった。


 そして、俺の降臨を望むゾイの祈りは日に日にその強さと思いの丈を増して行く。


 失ったパーソナリティの存在が思い偲ばれる。今の俺には強固な意思がない。マリエールには押し切られそうだし、ゾイの捧げる祈りの吸引力に逆らえそうにない。


 俺は新しい部屋を切り分け、独りになれる空間を創らねばならなかった。

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― 新着の感想 ―
真剣な場面なのにドラクエ語録によってコメディにしか見えなくなってしまった。
[一言] ゾイは嫌だったー(←ゾイが嫌いなだけ) というか自分を失ってる話でも、一夜の過ち的な話になるのは残念でした。 またその手の話が来るんだろうなという悲観。
[一言] うーんこの罪深いタラシ
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