15 砂の国にて4
黴臭く、微かに埃の舞う一室にきらきらと銀の星が舞う。
ゾイが、ぽうっとして呟いた。
「……銀だ。銀の祝福……」
「いけないか?」
この時の俺は失念していた。
通常、下界の神官が行使する祝福の輝きはエメラルドグリーンだ。一定以上の強烈な効果を持つ祝福が銀の輝きを放つ。
ゾイの手の震えは酷くなり、酒を注ぐボトルがカチカチとグラスを叩き、その音が耳障りだ。
「……俺が注ごう。貴女は少し落ち着いた方がいい……」
「ご、ごめん……」
ゾイは震える手を抑えながら、俺に代わってソファに腰を下ろした。
酒は嫌いだ。礼を失する事のない最低限の量を一方のグラスに注ぎ、もう一方にはそれなりの量の酒を注いでゾイに手渡した。
「今宵、この奇縁に」
そう告げて、俺は一気にグラスの中を煽った。
「……」
一気にグラスを干した俺を、ゾイが瞬きすらせず見つめている。理由は分からないが、そこまで注目されるとやりづらい。いっそ、不愉快ですらあったが……
エルナとの約束は果たされた。これで二人のお調子者とおさらば出来る。厄介事から解放されると思うと清々する思いだった。
後は『部屋』に帰り、エルナとエミーリアを叩き出して終わりだ。
「ありがとう、ゾイ。さらばだ」
「え、もう!? そ、それはせっかち過ぎるよ!!」
「む……」
確かにそうだ。気が逸るあまり、礼を失する所だった。慌てて腰を上げようとするゾイを制止して、俺は再びソファに腰を下ろした。
「すまん。少し急いていた」
その俺の言葉に、ゾイはホッとしたように胸を撫で下ろし、疲れたように溜め息を吐き出した。
「な、何か大事な用があるの?」
「そうでもない。ただ、ゴミはゴミ箱へ。捨てたいゴミがあるだけだ。特別、急ぐ程でもない。すまなかった」
そこで、ゾイは驚いたように目を見開いて俺を見つめた。
「何故、見る。少しばかり見過ぎだ。俺に何か付いているか?」
「い、いや、同じ事を言ってた人を知ってるから……」
「そうか」
短く答え、俺は懐から取り出した煙草を咥えて火を点ける。
「し、神父さまは、喫煙なさるのですか……?」
「ああ、すまん。迷惑なら消すが……」
『部屋』に帰れば、こんなものは幾らでも創れる。下界ならと思ったが、喫煙者は肩身が狭いのが問題だ。
そこで、ゾイが、くんと鼻を鳴らした。
「伽羅の匂い……」
「違う。メンソールだ」
確か、同じ会話をマリエールとも交わしたように思う。伽羅とはなんだろう。
ゾイが遠慮がちに言った。
「そ、その、神父さま。喫煙は頭を悪くします。止められた方がよろしいかと……」
喫煙は頭を悪くする。母の言葉にもそうある。このゾイに限らず、母を信仰する者は喫煙を嫌う。
「もう、どうにもならん所まで悪くなっている。問題ない」
俺というパーソナリティは大きく損なわれた。そもそも使徒である俺には喫煙によって生じる害はない。
俺は居住まいを正し、深くソファに腰掛け、足を組む。
「少々、強い術を使ってな。記憶がない。概ね、頭の具合はよろしくない。今さらだ」
アスクラピアの術を使う神官にはよくある事だ。人間性、寿命、感性、記憶……様々な物を切り売りして強い力を使うのは、使徒も人も変わりない。
「……強い術……」
「こちらの話だ。気にするな」
ゾイが酒を嗜むように、俺は喫煙を嗜む。どちらがいいも悪いもない。漠然とそんな風に考える。
暫くの沈黙があった。
ゾイは、ちびちびと舐めるようにグラスの酒を飲みながら、気を損なわない程度の視線で俺を観察している。
まず口を開いたのは俺の方だ。
「……所で、いつもこんな生活を……?」
特にゾイの生活に興味はないが、初対面の相手との沈黙は疲れる。
「言ってはなんだが……修道女。貴女の生活は少し荒れているように思う」
「え……」
「貴女から感じる神力は、悪魔祓いに振り切っている。治癒に関するものではない」
フードを下ろしたゾイの顔には多くの傷痕があるが、そのどれもが自然治癒している。祈りと信仰によって得た神力が治癒に寄らず、戦闘方面に特化している事の証拠であり、単独での行動を主にする事の証明でもある。
「貴女は、俺の事より、自身をもっと気遣うべきだ」
「…………はい……」
ゾイは、しゅんとして、俺の言葉に素直に頷いた。頷いたのだが……酷くやりづらい。
また暫くの沈黙を挟み、ゾイは、ぽつりと呟いた。
「……私は、聖エルナ教会に所属する修道女です……」
「聖エルナ教会……」
ゾイの口から飛び出したエルナの名に、俺は即座にこの場から逃げたしたくなったが、ゾイにはなんの罪もない。席に留まる事は非常な自制心を必要としたが、なんとか思い留まった。
あの性悪聖女は、このゾイと俺を引き合わせたかったのだろうか。しかし、ゾイと会ったのは偶然だ。若干、行動に不自然さが見られるが警戒する程のものでもない。
そこでゾイは膝を着き、胸の前で手を組んで祈りの姿勢になった。
「……その、神父さま。私の話を聞いてくれませんか……?」
「む……告解したい事があるのか?」
確かにそれは神父の役目の一つかも知れないが、俺はその告解とやらが好きではない。
ゾイは首を振った。
「……分かりません。ただ、聞いて欲しいんです。貴方に私の話を聞いて欲しい……」
「分かった……それで気が済むのなら、話を聞こう……」
そして、ゾイは己の生活を語り始めた。
現在、聖エルナ教会は窮地に立たされている。ここザールランドの寺院を纏める大神官『ディートハルト・ベッカー』により破門され、一切の聖務を禁じられているのだと言う。
現れたディートハルトの名に思う所がない訳ではなかったが、俺は黙ってゾイの話を聞いていた。
治癒等の聖務の一切を禁じられた聖エルナ教会は、喜捨を受け取る事もままならず、日々の運営は勿論、生活にも苦労している。修道院長は長く臥せっており、その生活を賄う為に、ゾイはダンジョンで日銭を稼いでいるそうだ。
「困窮している事は分かったが……破門されるような事をしたのか?」
「分かりません」
ゾイは静かに首を振った。
「……ただ、一人の人を愛しました……」
「……」
「その人の為なら、何でも出来ると思っていました。どんな汚い事でも……実際、私はそうしました……」
ゾイは俺から視線を外さない。
ドワーフの意思は鋼鉄製だ。その愛も鋼鉄で出来ている。嘘偽りなく、ゾイはそうしたのだろう。
「その人は、そんな私を許しませんでした」
「…………」
俺は、この告解とやらが好きではない。著しく人間性を欠く今となっては、尚更、そう思う。
ただ、使徒『暗夜』はこう思う。
「その者は、既にお前を許している。愛ゆえに犯した過ちが許されないのであれば、人は皆、絶望するよりない」
俺の前で祈りを捧げながら、ゾイは静かに涙を流した。
「……今でも愛しています。何度でも、私は同じ過ちを繰り返します。それでも、許されるでしょうか……?」
「……何度でも許される。時間を置く事だ。全ては時間が解決するだろう……」
俺には何も分からない。ただ、ゾイの語るその者は、この鋼鉄製の愛を打ち砕く為に苛烈に振る舞ったのだろう。そこまでせねば止められぬ程、ゾイの愛は深かったのだ。
◇◇
愛が楔の役目を果たさなかったなら、それは全て破滅の道へと繋がる。
《アスクラピア》の言葉より。
◇◇
俺は静かに聖印を切り、この場に居ないその者に代わって赦しの言葉を告げる。
「ゾイ、誰かを愛する心を憎む事は、誰にもできない。そういうものだ……」
ゾイはその場に泣き崩れ、激しく嗚咽を漏らした。
「……でも、あの人は行ってしまった。それが今生の別れになりました……」
「……」
道を違えたまま、死に別れた。死は全てを奪う。過ちも善意も愛も良心も、何もかも永遠に損なわれた。それは恐らく悲劇なのだろう。
俺には何も分からない。
ただ、哀れだと思う。ゾイは永遠に許されず、赦しを与える事ができる者は、既にこの世界の何処にもいない。
ゾイは這いつくばるようにして床に手を着き、嗚咽を漏らして全身で泣いていた。
「……っ」
黙って見ているだけしか出来ない。俺の胸はもう痞る。
ゾイが絞り出すように言った。
「どうなってもいい。私も……付いて行きたかった……」
血を吐くような思いの吐露に、固い石ころが床を打つ。
かたん、ことん、と床を打つ。
この悲しみに、この愛の深さに、流れた涙が床を打つ。使徒『暗夜』の流した涙は人のそれとは違う。
青白く光る輝石となって床を打つ。
俺は……
「すまない。本当にすまない……俺には、どうする事も出来ない。許してくれ……」
心には、涙の方がずっと近い。
人々は希望する。愛が起こす奇跡がある事を予感して希望する。
俺には何もない。
ただ悲しくて、涙を流すだけだ。