14 砂の国にて3
エルナは聖印を切り、上機嫌で言った。
「軽率なお前の、軽率な行動に期待していますよ」
「……」
非道聖女の隣に立つエミーリアは、腕組みして仁王立ちの格好で俺を睨み付けている。
「……エミーリア、怒っているのか?」
「別に?」
嘘だ。直感的にそう思った。
怒り……失望……俺の『眼』ではその程度しか分からない。俺の大きく損なわれたパーソナリティでは、エミーリアの複雑な心情を推し量る事は出来ない。
そして……
そんなエミーリアを面倒臭いと思う俺がいる。
俺は改めて言った。
「聖エミーリア。聖エルナ。我々は少し馴れ合いが過ぎたようだ。アクアディには行ってやる。だが、それきりだ。帰ったら出て行ってくれ」
俺の冷たい視線にも、エルナは自信満々で嘲笑っている。
「何もなければ、いいでしょう」
「あ、う……」
一方、エミーリアは、しどろもどろになり、何か言おうとしたが、俺はその返事を待たずに指を鳴らした。
一路、砂の国、ザールランドへ。
◇◇
幾つかの『部屋』を経由して、夜の凍てつく街、アクアディに降り立った。外気は零下を大きく下回っており、出歩くような環境ではない。
俺は『使徒』だ。母の創ったこの身体がこの程度の冷気で凍える事はない。これが魔力や魔素を伴うものなら別だが、自然現象は怖くない。
石畳の道を冷めた風が吹き、砂に混じり、微かに焦げたような匂いが鼻を衝く。
「ふん……しけた街だ……」
あのエルナの事だ。何事もなく、ただで済むとは思えない。俺は用心深く辺りを見回した。
空には冷めた月が掛かっている。俺は腰の後ろで手を組み、一人の神官として胸を張って歩いた。
「…………」
宛もなく進む。
そして……俺は素寒貧だという事に気付いて短く嘆息した。都合よく金目の物を持ち歩いている訳でもない。
俺は鼻を鳴らした。
さてどうするか。適当に時間を潰して帰ればいい。素直にエルナの言う事を聞いてやる必要などないとも思うが、それは少しばかり癪に障る。
それから暫くは、更に宛もなくアクアディの街を見て歩いた。
通りを真っ直ぐ進むと大きな下水道があり、インフラは整っている。『エーテル』と呼ばれるエレメントのエネルギーを使用した街灯が微かな灯りで道を照らしている。妙な違和感。俺が『稀人』と呼ばれる異世界人であった為だろうか。
貴族や一部の金持ち連中は煉瓦造りの石の家に住み、平民や貧民は木の家に住む。
通りに人影は殆ど見えない。
砂の国、ザールランドの夜は寒過ぎる。人間やエルフ、一部の種族にとってこの環境は過酷なものがある。だが、悪くない。元が異世界人である為か、目に映る光景は酷く目新しいものに映る。暫く進むと、焼け焦げた街並みが見えて来た。
「どういう事だ……?」
河川に掛かる橋を境に、見渡す限りのアクアディの街並みは焼けていた。今はその残骸を残すのみ。だが、橋を挟んで向こうには、一切の被害がない。橋の向こうから、一方的に攻撃を仕掛けられたような痕跡がある。
「……」
察するに、これは『報復』だ。橋の向こうから一方的な攻撃を受け、甚大な被害を被った筈だ。復興作業を行わないのは、また攻撃を受けるからだろう。そして、ザールランド帝国は無抵抗でいる。訳が分からない。
不意に――
「女王蜂だよ。神父さま、これは女王蜂アビゲイルがやったんだ」
その背後からの声に振り返ると、そこには背丈の小さいドワーフの修道女が立っていた。
「外からやって来たんだよね、神父さま。橋の向こうはパルマだよ。行かない方が身の為だ」
「……そうか。分かった。ありがとう……」
だが、俺は『パルマ』に入ってみたい。何故かそう思う。妙に気に掛かるものがある。
「危ないよ、神父さま。ここで会ったのも何かの縁だ。一杯奢るから、引き返そう」
寒気避けの分厚い外套を纏ったドワーフの修道女が歩み寄って来る。街灯の灯りは遠く薄暗いが、使徒の眼の視界は問題ない。
傷だらけの修道女。目深にフードを被った顔はよく見えないが、僅かに覗く頬には無数の傷がある。そして、右手には使い古したメイスを持っていた。
「悪魔祓いか……」
同じ神を信仰する者の事だ。一目で分かった。
俺はアスクラピアの『使徒』だ。彼女らの先を行く者であり、彼女らの同胞だ。たとえ悪意があったとしても、この忠告を無下に扱う事はしたくない。
聖印を切ると、ドワーフの悪魔祓いも聖印を切って返してくれた。
「こっちだよ、神父さま」
悪魔祓いの修道女の後ろに続き、元来た道を引き返し、裏通りの寂れた路地を進む。
「シスタ。同じ道を行く者として、貴女の厚意に感謝する」
「うん、いいよ。でも、珍しいね。こんな辺境に流れの神父さまなんて。何か当為が?」
「そんな所だ」
ドワーフの修道女からは、うっすら酒の匂いがする。ドワーフは優秀な戦士であり、酒豪としても知られる種族だ。嗜好は人による。喧嘩を売られた訳でもない。特別、気にしない事にした。
「所で、神父さま。この寒さに、神官服だけで大丈夫なの?」
「問題ない。耐性防御の術には自信がある」
勿論、嘘だ。『使徒』にこの程度の寒気は問題ない。耐性術式に頼らねばならない程の冷気ではない。
「ゾイ。私はゾイっていうんだ。神父さまは?」
「俺か? 俺は――」
何気ない会話のつもりだった。
「暗夜だ」
そう名乗った瞬間、寂れた薄暗い路地を行くドワーフの修道女の足が止まった。
◇◇
雰囲気がおかしくなったのは、ここからだ。ドワーフの修道女、ゾイが急にそわそわと落ち着きなく緊張し始めた。
「そ、そう。暗夜。暗夜っていうんだ……」
「ああ、神父さまでも暗夜でも、好きなように呼んでくれ」
「う、うん、分かった。えと、こっち! こっちだよ、し、神父さま!」
急に勢いづいたゾイに手を取られた俺は、路地裏にある小さな酒場に引っ張り込まれた。
ゾイに手を引かれ、入った酒場は、僅かな灯りさえも淀んで見えるような雰囲気の悪い安酒場だった。
アルコールの臭気に混じり、微かな吐瀉物の匂い。やはり、酒は好きになれない。エルナとの事がなければ入らなかっただろう。
「こっち! 奥! 一番奥! ずいっと向こう!」
店の中には何人かの破落戸がいたが、ゾイの姿を見ると慌てて目を逸らした。
「……」
質の悪い店。客ばかりでなく、店員も含め、俺の『眼』で見る限り、誰もがそれなりの凶相の持ち主ばかりだ。
その誰もがゾイを見ない。
妙に緊張していて、何処か、はしゃいで見える悪魔祓いの修道女から目を逸らしている。
ゾイは俺の手を握ったまま、カウンターを叩いてバーテンを呼び出して、ボトルとグラス。そして部屋の鍵を受け取った。
その間、金銭の受け渡しもなく、バーテンは一瞬たりともゾイと目を合わせないのが少し気になった。
店の奥には階段があり、俺は、妙にテンションの高くなったゾイに背中を押されるようにしてその階段を上がった。
「こっちこっち!」
木の階段は踏み締める度に軋んだ音がした。俺はゾイに手を引かれるまま、薄汚れたベッドがある小さな部屋に押し込まれた。
不快になった俺は、そこで繋いだ手を振り払った。
「なんなんだ。何をそんなに慌てている」
そこでゾイはハッとして、それから少し項垂れた。
「ご、ごめんなさい……」
「……」
一杯飲んで、さっさと帰ろう。そんな事を考えながら、俺は壁際にある薄汚れたソファに腰を下ろした。
ゾイは妙に緊張していて、グラスに酒を注ぐ手が少し震えている。
「……」
高位神官は口を慎むべし。俺は黙って薄暗い部屋の中を見渡す。光源の乏しいランプは『光石』が安物の証拠だった。
小さいテーブルの上にグラスを置き、ゾイが震える手で安酒を注ぐ。やはり震えるボトルが何度もグラスを叩く。
「ゾイ……大丈夫か?」
思わず、俺がそう言ってしまうぐらい、ゾイは緊張していた。
「だ、だいじょび……」
噛んだ。ゾイの緊張は増すばかりで酷くなる一方だった。
「い、いつもは一人で飲んでるんだ。だから、その、ちょっと緊張して……」
「そうか……」
ゾイの生活に興味はない。素っ気なく答え、俺は指を鳴らして酒を祝福した。酒は嫌いだが、味を知らない訳じゃない。これで少しはマシな味になるだろう。
部屋中にきらきらと銀の星が舞って、ゾイは、ぽうっとしてその銀の星を見つめていた。