13 奇妙な部屋にて『暗夜』3
マリエールと二人で居住用の部屋に帰ると、エミーリアに冷たい視線で迎えられた。
「ねえ、すけこまし。唇に口紅が付いてるよ?」
「マリエールは口紅なんて付けてない……」
そこまで答えて、俺は、しまったと顔をしかめた。
その瞬間、エミーリアが鬼の首でも取ったかのように叫んだ。
「あーっ、あーっ、このすけこまし! エルナ! エルナ! ここにすけこましが居るよ!!」
「おやおや、まあまあ」
のんびりと答えたエルナは、お茶を飲みながら余裕の澄まし顔だ。この女こそ得意になって俺を口汚く罵るに違いないと思ったが意外だった。
その事に安堵していると、エミーリアがやってくれた。やらかしたと言っていい。
「暗夜、貴方はすけこましだよ! 私の時代なんて、神官も修道女も処女童貞が必須条件だったのに! エルナ! 貴女の時代もそうだよね!!」
そう言って、同意を求めるエミーリアの鳩尾に、エルナの鋭い鉄拳がめり込んだ。
「うぉうっ……!」
エミーリアは、どうとその場に倒れ伏し、それを見下ろしてエルナは鼻を鳴らした。
「今、聞いた事は忘れなさい。私も貴方の赤裸々な行為については不問とします」
「分かった」
エルナが居て良かった。
◇◇
マリエールの件もそうだが、新しい部屋では色々な事が起こる。
『軸』をガキのディートハルトに置いているせいか、ここでの俺は少しばかり鈍い。
ディートハルトから少し離れた波止場で煙草を吸っていると、あの物狂いの狼人、レネ・ロビン・シュナイダーの姿が見えた。
以前、散々、言ってやったからか、黒い甲冑を身に纏い、さっぱりとした身なりで突っ立ち、呆然として辺りを見回している。
俺は小さく舌打ちした。
この物狂いの侵入、接近にも気付かないとは、やはり感覚が鈍くなっている。
俺は、なるべく関わり合いになりたくなくて、さっさと通り抜けようとしたのだが、呆気なく呼び止められた。
「す、すみません。ここは何処ですか……?」
何を今さら。俺は、うんざりして首を振った。
「……お前か。本当にしつこい女だ……」
それでなくともエミーリアには冷たく罵られ、エルナには厳しく当たられ、マリエールには迫られて困っているのに、これ以上、面倒臭い女は必要ない。
その思いが顔に出たようだ。
ロビンは眉間に皺を寄せ、嫌悪の表情で言った。
「なんですか、貴方は。そんな事を初対面の相手に言われる筋合いはありませんね」
……これは面白い。
「初対面? そうか……すまなかった」
このロビンは『過去』のロビンだ。ディートハルトを軸にして現れた過去のレネ・ロビン・シュナイダーだ。
俺は興味から足を止め、煙草を咥えて火を点けた。
「……何処かで会いました……?」
過去に干渉する事は、母に固く禁じられている。
「馬鹿な女だ。紛れ込んだか……」
あの物狂いのロビンがこの部屋に干渉しようとして失敗した。それがこの結果だ。
「だから、貴方にそんな風に言われる筋合いなんてありません」
「そうだな……」
さて、どうしたものかと考える俺を、ロビンが値踏みするように睨み付けて来る。
だが、不意に言った。
「……やっぱり、何処かで会ってますよね……?」
「初対面と言ったのは、お前だろう」
「貴方は……神官ですよね。でも、その神官服は何処のものでもない。階梯は?」
「うるさい」
過去への干渉は禁じられている。どのようなものであれ、質問に答える事は許されない。本当は、こうして対面しているだけでもかなりまずい。
超能力は……厄介だ。
というのが、この力だけは他の力とは違う。あくまでも『己』を根源としている力だ。マリエールのような魔術とも俺のようなアスクラピアの術とも違う。封じる術が限られるという事だ。
レネ・ロビン・シュナイダー。
本当にしつこくて厄介な女だ。あの物狂いは俺に執着している。恐ろしい事に過去の自分にまで干渉している。
可哀想に。目の前のロビンは、ここが何処かすら分かっていない。俺が誰かも知らない。本当の意味で迷い込んだのだ。しかし……
「……ここで俺に会うとは、本当に運の強い女だ。いや、これも……」
因果の内の出来事。母の定めし運命か。それとも……
「まあ、いい。出してやる」
そこで、ロビンが慌てたように言葉を被せる。
「ま、待って下さい。やっぱり、貴方とは何度か会ってます」
レネ・ロビン・シュナイダー。本当に厄介な女だ。
「気のせいだ」
超能力のない俺でも分かる。今、この瞬間にもロビンは過去の自分に干渉している。
目の前のロビンは酷く頭が痛むのか、険しい表情で眉間を揉むように指を当てている。
そのロビンが、呻くように呟いた。
「……暗夜……」
「仰せの通りだ」
俺は指を鳴らしてロビンを追い払った。
恐るべき事に、俺の名を言った。危なかった。ともすれば、過去の自分と完全にリンクして居たかもしれない。
……未来を知るという事だ。
それだけは許されない。過去の者が未来の出来事を知る事は、あってはならない。母の逆鱗に触れる事になる。
「……」
過去をすらねじ曲げる程の執着心。ロビンとは、また会う事になるだろう。
「狼人、か……」
俺は濡れた髪をかき上げ、雨の夜空を見上げて小さく舌打ちした。
◇◇
部屋に帰ると、マリエールが正座させられていて、エミーリアとエルナに責められていた。
マリエールを、ぴしりと指差してエミーリアが叫んだ。
「エロフ!」
エルナは重々しく頷き、声を大にして叫んだ。
「エロフ!」
いかん。とうとう、あの二人の言語が理解できなくなった。
「使徒に手を出すなんて、言語道断だね!」
「この罰当たりがっ」
よほど二人に詰められたのだろう。マリエールは羞恥心からか、頬を赤くして俯いている。
「……」
俺は何も見なかった事にして、神官服の裾を翻した。
「あっ! すけこましが逃げようとしてる!!」
「女の敵ですね」
打てば響くとはこの事だろうか。俺を責める時、二人の息はぴったりだ。
俺は、やむを得ず二人に向き直った。
「……俺とマリエールは、そんな不適切な関係じゃない……」
「嘘おっしゃい。全てエロフが白状しましたよ!」
「すけこましがっ」
「……」
マリエールを見るが、頬を染めて俯いたままで何も答えない。
その日、二人の責苦は激しかった。俺はマリエールと連座させられ、散々、罵られた。
エルナは、ずびしと俺を指差した。
「まったく、あれもこれもと節操のない……お前のようなヤツを女の敵というのです」
俺は途中から反論する事を諦め、マリエールに倣って俯いてやり過ごしていた。
「この、すけこましがっ」
エミーリアは同じ事しか言わない。
そこで、エルナは頬に手を当て、悪役令嬢のように高笑いした。
「罪深いすけこましとエロフ。感謝なさい。聖エミーリアは許さずとも、この聖エルナだけは貴方たちの爛れた罪を許しましょう」
「……言いたい放題だな……」
「むッ、すけこまし。何か言いましたか?」
「いや……」
くそっ、何が赤裸々な行為については不問にする、だ。エルナとエミーリアとでは、エルナの方が数倍質が悪い。
そのエルナが、小さく咳払いして、一先ず説教を打ち切った。
「さて、女の敵、暗夜よ。この聖女エルナが、お前に罪を雪ぐ機会として当為を与えましょう」
偉そうに言い放つエルナの隣では、お調子者のぽんこつが腕組みして難しい顔で頷いている。
「暗夜、お前の言う事が本当なら、何も起こる事はないでしょう」
「……何の話だ?」
エルナは、ふふんと鼻を鳴らして嘲笑った。
「別に、簡単な事ですよ。お前はアクアディの酒場で一杯引っ掛けて帰る。それだけです」
「嫌だ。何故、俺がそんな事をしなければならない」
エミーリアが口汚く言った。
「この、すけこましがっ」
「……」
エルナはニコニコと嘲笑っている。この女が聖女を名乗るとは、本当に質の悪い冗談だ。
「お前が、本当に清廉潔白なら、何も起こりませんよ」
「嫌だ。俺は酒が嫌いなんだ」
「それなら、ミルクでも飲めばいいでしょう」
とにかく、アクアディにある酒場で何でもいいから一杯飲んで来いというのがエルナの言い分だったが……
エミーリアが言った。
「この、すけこましがっ」
駄目だ、こいつ。早くなんとかしないと……
エルナはニヤニヤ嘲笑っている。
「さて、暗夜。改めて問います。この当為を引き受けますか?」
「いや、だから俺は――」
「この、すけこましがっ」
「だから――」
「すけこましがっ」
「……」
なんとかならないかとマリエールを見るが、頬を赤くして俯いたままだ。援護は期待できそうにない。
「いやらしい目でエロフを見るな。この、すけこまし野郎がっ」
「……いい加減にしろ」
ここまで言われて黙っているほど腑抜けちゃいないつもりだ。
俺は立ち上がった。
「いいだろう。アクアディの街で一杯飲んで来ればいいんだな? やってやる」
「先生……!」
そこで漸くマリエールが口を開いたが、もうこの二人だけは勘弁ならない。
「マリエール、止めるな」
どうやら馴れ合いが過ぎたようだ。何もなく帰った暁には、このお調子者二人を俺の部屋から叩き出してやる。
この時の俺はそう思った。
簡単な事だと、そう思っていたんだ……