20 アスクラピアの子
俺は一つ咳払いして居住まいを正した。
「それでは、アネットさん。前任のヒーラーの方が使っていた部屋を見せて頂けますか?」
「……いいけど、何もないわよ?」
俺はこの面白くもない冗談に笑った。
「まさか、そんな筈はないでしょう。色々と持っていた筈ですよ」
「……そうなの? 見たことないけど……」
「すみません。それは、このクランハウスを出て行ったから、という意味でしょうか?」
「……いや、そういうのは関係ないわ。何かあるの?」
「……」
俺は押し黙った。
冒険者としてはまともなアネットだが、癒者の事は何も知らないように見える。
「……ダンジョン内で神力が切れた時はどうしてるんですか?」
「……それなら、聖水を飲むけど……」
「聖水? あんなもん飲んでどうするんです。砂糖水でも飲んだ方がまだ気が利いて……失礼」
この無知加減に、つい地が出そうになった。俺はまた咳払いして、居住まいを正した。
「……確かに聖水は便利です。結界を張ったり、幽体を祓う事もできます。飲めば神力も多少は回復するでしょう。でも、その回復量でまともな術を行使するつもりなら、風呂桶に一杯ぐらいは飲まないと無理です……」
「え? そ、そうなの?」
「……」
話すのがダルくなって来た。
「あれは身体を洗ったり、普段の飲み水に使ったりするものでしょう……」
そこでアネットは目を見開いた。
「聖水を!? ウソ! あんた、無茶苦茶金持ちなの!?」
「……あんなもの、ヤブの癒者でも簡単に作れるでしょう……」
聖水作りは神官の基本中の基本だ。ディートハルトの力は関係なく、成り立ての俺にだって簡単に作れる。
「そ、そんな事言ったって、ウチの癒者には作れなかったわ……」
「神官も癒者も母の加護を受けている事に違いはありません。母はしみったれていますが、恥知らずじゃありません。毎日の祈りを欠かさなければ、それぐらいの事は……」
……話が長くなりそうだ。
「……ここで立ち話もなんです。落ち着いて話せる場所はありませんか……?」
まだ、このオリュンポスのエントランスに入ったばかりだ。
「あ、ご、ごめんなさい。サロンはあっちに――」
「――仕事の話が出来る場所で頼みます」
俺は呆れて溜め息を吐き出した。
◇◇
その足で、このオリュンポスに所属していたというヒーラー二人の部屋を見て回ったが、アネットの言う通り何もなかった。
あったのは空の酒瓶とか、ベッドやクローゼットのような家具だけだ。生活感が漂う物の残骸があるだけだ。何かしらは残っているだろうと思っていたがアネットの言う通り、本当に何もなかった。
そこには、俺が思う、回復役として必要と思われる道具が、何一つなかった。
「……アレックスさんはアホかと思いましたが、案外キレますね……」
ヒーラーを全員クビにしたのは正解だ。思い切りのいいただの脳筋だと思ったが、そうじゃない。
アネットの先導で向かった多目的室では、ほぼ尋問に近い質問を繰り返した。
「傷薬やポーションもありませんね。何処かに保管場所があるんですか?」
その質問に関して、アネットは自慢気に笑って答えた。
「それはルーキーが使うものよ。ウチには一つだってないわね」
駄目だ、こいつ。早くなんとかしないと……
「だから、ヒーラーの神力が切れた時はどうしてるんだって言ってるんです。俺にしてもそうですが、神力ってのは無限にあるもんじゃないんです」
俺の場合、裏に『ディートハルト』という存在がある為に異常な回復の早さがあるが、通常、神力はそんなに早く回復しない。
アネットは物知り顔で答えた。
「知ってるわよ。それぐらい」
「……ヒーラーが術を使えない時はどうするんですか? 怪我人は放っておくんですか? その場合、神力の回復を待つのが定石になりますよね。その間、怪我人はうんうん呻いて待ってるんですか? 手遅れになったらどうするんです? 繋ぎになるものが必要ですよね」
馬鹿と話すのは疲れる。一気に捲し立てる内に、俺はだんだんと腹が立って来た。
「……いいか、とんがり耳。一度しか言わんからよく聞けよ。ポーションだの傷薬だの毒消しだのは嵩張るからな。嫌うのは分かる。だがこれらはちょっと勉強すりゃ、誰にでも作れるし、誰にでも使える。この利便性を理解出来ないヤツは救いようのない馬鹿だ」
そもそも、お前のつまらんプライドに幾らの価値があるんだ? お前自身や仲間の命に見合う物なのか? と、続けようとした所で、ゾイが俺の口に伽羅の破片を突っ込んだ。
「…………」
僅かな甘味。ハッカとはミントの和名だ。爽やかな匂いが鼻腔を突き抜けて行く。俺は……
「……失礼しました」
「……」
俺が正気付いた時、アネットは口をへの字に曲げ、目に涙を溜めていた。
「……アレックスさんが山師共をクビにしたのは当然の事ですね……」
おそらくだが……筋肉ダルマは、クランのヒーラー共が山師の類いだと知っていて使っていた。
これも少し考えれば分かる事だが、ヒーラーがダンジョンに潜る事によって得る利益は少ない。アビーが俺にやらせたように、ダンジョンの外で待っていれば怪我人は山ほど来る。何も危険なダンジョンに入る必要はない。
……だが、俺を見付けて気が変わった。嫌な感じだ。まるで……
今、考えるべき事でない。俺は首を振って思索を追い払った。
ここから先の展開が俺の予想通りなら、のんびりしている暇はない。
「アレックスさんが帰るまでに、必要なものを揃えなければなりません。費用は全てそっち持ち。如何」
「…………分かった……」
大人が十歳程度のガキにやり込められたからって泣くなよ……面倒臭い……
俺は髪の毛を掻き回した。
とりあえず――
「一階に私専用の部屋を作って頂きたい」
「……」
アネットは赤くなった目元を擦りながら、それでも健気に笑って見せた。
「……いいわよ。ウチのクランに来るつもりになったのね……」
俺は、アネットの顔目掛け、口の中で転がしていた伽羅の破片を吹き掛けた。
「誰がそんな話をした! 愚か者が! 怪我人が担ぎ込まれた場合、一番都合がいい場所は一階だろうが!!」
一刻も早い処置を争う場合、怪我人をあっちこっちに運んでいる余裕なんてない。運び込まれた怪我人の数や症状によっては、一階エントランスは地獄になるだろう。その為、一階にはヒーラー専用の道具や薬を保管したり、怪我人を収容する為のスペースが必要だ。そう考えての発言だったのだが……
「とんがり耳、命をなんだと思っている。ナメるのも大概にしろ……!」
「な、何よ、あんた。そんなに怒る事はないじゃない……!」
とうとうアネットは泣き出した。
益々苛立つ俺に、そっとゾイが新しい伽羅の破片を差し出して来たので口の中に放り込む。
爽やかなハッカの香りは、いつだって俺を落ち着かせてくれるから……
「…………アネットさん。少し忙しくします。今、クランハウスにいる全員をここに集めてくれませんか……」
今日は、アシタの治療で大量の神力を消費している。多少は回復しているが、今の調子は三割といった所だ。絶不調と言っていい。
それに足して……
とんがり耳の無知無能と命知らずの筋肉ダルマのおかげで、今日は想像を超えて面倒臭い話になるかもしれない。
格好付けてる場合じゃない。
俺は死人も怪我人も大嫌いだ。プライドのようなものは、一先ず何処かに置いておく。そんなものは後で充分取り戻せる。
何もなければ、何もないでそれでいい。それが一番いい。俺一人が笑われればそれで済む。そんなものは取るに足らん。
◇◇
我が子よ。
時間は有限である。
想像される危機は、いつか確実に起こり得る困難である。
時間ある内に備えよ!
必要なら名誉も財産も擲ってしまえ!!
困難を乗り切ったとき。
それらは後から付いて来るだろう。
《アスクラピア》の言葉より。
◇◇