12 奇妙な部屋にて『暗夜』2
「悪くないですね」
俺たちの新しい住まいに訪れたエルナの第一声がそれだった。
『ディートハルト・ベッカー』が『軸』として留まる限り、この部屋に長居しても問題ない。俺の元居た部屋を経由する必要こそあるが、いつでも『現在』に帰れる。それ故のエルナの「悪くない」という発言だ。
俺は、新しい部屋を幾つかに分割して、その一室を生活の為の居住区とした。
虚無の闇に浮かんでいる事には変わりないが、マリエールの為に必要な家具は一式全て揃えたつもりだ。
「むう……暗夜、これは、いったいどういう代物ですか……?」
等と言うエルナは、難しい表情で電気ポットを弄り倒している。
「むっ! ここにへこみがあります! ――熱ッ! な、なんですか! 危険ですッ!!」
俺は、騒ぎ立てるエルナから電気ポットを取り上げ、チャイルドロックを掛けておいた。
エミーリアは大興奮だ。
「海! 海に行くう! 釣り! 釣りがしたいッ!」
『ディートハルト・ベッカー』のいる部屋には海があり、その海には魚がいる。どうやっても消せないオブジェクトの一つだ。この部屋に来てからのエミーリアは釣りにハマっている。
「好きにしろ……」
俺は頭を抱えた。原始人であるエミーリアとエルナにとって、俺の新しい部屋は格好の遊び場だった。
「エルナっ! ジギングに行くよ! 今日も私のコルトが火を噴くから見ててっ!!」
「じ、じぎんぐとは、いったい……!」
ディートハルト・ベッカーの留まる部屋は寂しい場所だが、エミーリアは満喫している。満喫し過ぎているのが問題だ。
釣りに始まり、映画、音楽、ゲーム……どうやっても消せないオブジェクトの数々が好奇心旺盛なエミーリアを誘惑して止まらない。
エルナもまた……
「むむッ! ここに変な穴が開いていますッ……!」
「コンセントだ。感電の危険がある。金属だけは突っ込むなよ……」
「か、カンデンとは?」
一つ一つ説明して回るのも面倒だ。俺はエルナに真銀のスプーンを投げ渡した。
「やってみれば分かる。そのスプーンの柄でも突っ込んでみろ」
エルナは感電し、一つ賢くなった。
◇◇
エミーリアとエルナが釣竿を手に海へ向かった。ディートハルトがいるのとは離れた埠頭に行くように言ってあるので問題ない。
「……」
一方、マリエールは大人しい。俺の許可なく物に触らないし、一々尋ねる事もしない。療養中という事もあるが、元気がない。優秀な患者である事には違いないが、俺としては少し気掛かりだ。
「……マリエール。エミーリアの真似をしろとまでは言わないが、興味を引く物があれば、何でも聞いてくれて構わないぞ……?」
俺にとっては変更不能のオブジェクトでしかないバグの数々だが、それなりに使い途はある。
「うん、楽しんでる」
マリエールにとって、異世界の品々は見ているだけで楽しいようだ。とにかく大人しいのは助かるが……助かるのだが……俺に引っ付いて、片時も離れない。
「先生、見に行こう」
「……分かった」
マリエールが、一番気にしているものが『ディートハルト・ベッカー』だ。
船の停泊する港に居て、ずっと海を眺め続ける不気味な子供。
「……一度、この目で見てみたい……」
「あまり近付くのは許可できないが……何か考えてみよう」
俺は指を鳴らし、マリエールの衣服を簡素な貫頭衣から魔術師のローブに変更した。下界では不可能な芸当だが、『部屋』の中で『権利』を持つ俺には簡単な事だ。ついでに幅広のとんがり帽子を出して、マリエールの頭に被せておく。サイズが大き過ぎて目元まで隠れてしまったが、マリエールは気にせず、目深に帽子を被り直して対応した。
ローブもそうだが、帽子にも強い加護を与えてある。雨水ぐらいなら簡単に防げる代物だ。
使徒の俺やエミーリア、エルナは気にしないが、ディートハルトのいる部屋は、一日中、雨が降り続けている。病中のマリエールには少し厳しい環境だ。同行には配慮が必要だった。
集中治療の甲斐があり、マリエールの病状は驚くべき速度で快方に向かっている。既に幾つかの腫瘍の摘出を終えたが、まだ幾つかの腫瘍が身体に残っている。
「マリエール、分かっていると思うが……」
「うん、無理はしない」
マリエールは凄腕の魔術師だが、俺のような『使徒』ではない。『部屋』の移動には俺やエミーリア、エルナの力が必要だ。
そしてエミーリアとエルナは、マリエールの治療に関しては協力的だが、それ以外の事になると途端に消極的になる。
――『使徒』。
下界では、『天使』などと呼ばれているその存在は、もう人間ではない。エミーリアとエルナの思考は『天使』のそれだ。マリエールの事は下界の者としてしか見ていない。
俺はマリエールの細い腰を抱き、ディートハルトのいる部屋に飛んだ。
◇◇
雨が降り続ける港。遠くにディートハルトが見える埠頭に降り立った俺は、マリエールの腰から手を離し、咥え煙草に火を点けた。
「……どうだ、マリエール」
「ちょっと遠い。よく見えない」
「ふむ……」
俺は少し考えて、虚無の中から眼鏡を取り出して、それをマリエールに渡した。勿論、特別な眼鏡だ。視力を強化できる。尤も……効果は俺の『部屋』の中だけに限られるが。
「……」
まるでセンスの欠片もない瓶底眼鏡を手に、マリエールは顔をしかめていたが、小さく首を振って、それから眼鏡を掛けた。
「……先生だ。本当に先生が居る……」
マリエール・グランデは魔眼の持ち主だ。その眼は特別製で対象の『魂』を見る事が出来る。
「……少し違う。無垢。博愛。無邪気……繊細……潔癖……」
「そうか。他に分かる事はあるか?」
加護のある幅広のとんがり帽子が雨を弾いている。マリエールは、瓶底眼鏡越しにディートハルトを観察している。
「……変な感じ……先生だけど、先生じゃない……本当によく似てるけど……違う」
たとえ根源を同じくしているとしても、大人と子供の感性が一致する訳がない。
「そうか」
特別気を引くような情報はない。『ディートハルト』がいつまで此処に留まるのかは分からない。
俺は、ヤツがこの部屋に留まる間に新しいパーソナリティを獲得する必要がある。それも重要だが、今はマリエールの体調が気掛かりだ。
「つまらん。帰ろう」
俺は短くなった煙草を海に吐き捨てた。
「……」
マリエールは動かない。
「どうした?」
「……」
マリエールは瓶底眼鏡を掛けたまま、じっと俺を見つめている。
さらさらとした雨が降っていて、一向に止む気配がない。この『部屋』を創ったのが俺だと思うと嫌になる。
マリエールが呟くように言った。
「……先生は、壊れてる……」
「ああ、分かってる。問題ない」
俺のパーソナリティは大きく損なわれた。エルナやエミーリアからは消滅の危険があると指摘されているが、それも特別気にはならない。
それが問題なのだろう。分かってはいる。だが、どうしようもない。母に捧げたものは返らない。どうでもいいと思う俺がいるだけだ。
「マリエール、帰るぞ」
「……だ」
マリエールの言葉は、潮風に浚われて消えて行く。
「……嫌だ。まだ帰らない……」
マリエールは帽子を目深に被り、瓶底眼鏡を掛けたままだ。その表情は分からない。
「そうか。分かった」
マリエールが初めて言った我儘に、俺は少し安心して新しい煙草に火を点けた。
ここが気に入ったというなら、それにいつまででも付き合うつもりだった。
そこで強い風が吹き付け、マリエールのとんがり帽子を拐って吹き抜けて行った。
俺は小さく舌打ちした。
『軸』がずれた。理由は分からないが、『ディートハルト』の心が動いた。それ故の強風だ。
その強風に煽られ、マリエールの細い身体が僅かに傾いだのを見て、俺は煙草を吐き捨てるのと同時に飛び出して、細い腰を抱き留めた。
「やはり帰ろう。不安定になって来た」
「嫌だ」
マリエールは強情に言った。
「帰らない。まだ、ここに居る」
「…………」
雨と風が強くなる。ディートハルトが動揺している。
抱き合うようにして身体を支える俺の首に手を回し、マリエールが唇を合わせて来た。
瓶底眼鏡がずり落ち、風に拐われて海に消えた。
「…………」
雨に濡れ、強風に煽られながら、マリエールは激しい口付けを止めない。
熱い吐息。重なる唇。
口中を舌がさ迷い、銀の糸を引いて出て行った。
細い身体が風に流されないように固く抱き締めると、その耳元で、マリエールが掠れた声で囁いた。
「先生、あいしてるよ」
「……こういうつもりで助けたんじゃない……」
「そんなの、関係ない……!」
焦れったそうに呟いて、マリエールがまた唇を合わせて来る。
ここからは、大人の時間だ。
求めるほど、与えられるほどに空虚が満たされて行くような気がして……俺は……
暫く、そうしていた。