11 遭遇2
俺の部屋……母に与えられた使徒の『部屋』に於いて、俺の『権限』は大きい。
だが、その大きな『権限』を扱う俺は、記憶とパーソナリティに著しく欠損がある。俺は熟慮の末、『権限』の一部をマリエールに貸与した。
「マリエール、本だ。本を出してくれ。知識が欲しい」
俺はマリエールの治療を行う間、切り分けた部屋に読書の為のスペースを創り、そこで本を読んで過ごした。
過ごしたのだが……
下界の者であるマリエールに『権限』を貸与した事について、エミーリアからは強い叱責を受けた。
「暗夜、貴方は、いったい何を考えているの!」
エミーリアの叱責は理解できない訳じゃない。だが、人格が乏しくなった俺には必要な事だった。
「エミーリア、知識だ。俺は知識が欲しいんだよ。幸い、彼女はエルフだ」
エルフはか弱いが『長命種』と呼ばれる種族だ。その数は非常に少ない。大抵は他種族と血を交え、その血を薄くして子孫を儲ける。この場合、長命種としての個性は著しく損なわれる。マリエールのような純血種の者となると、その数は更に少ない。下界の者とはいえ二百年以上の時を過ごしたマリエールの経験を軽視する事は出来ない。
そして、これが最も肝要な事だが、『魔術師』マリエール・グランデには古代神の加護がある。母より古い時代から存在する旧神とも呼ばれる存在だ。哲学と知識。そして魔術の神。その名は、使徒である俺をして分からない。加護を受けるマリエールにも分からない。古代神という存在は、その程度には謎に包まれている。……これもマリエールが出してくれた本で得た知識だ。
「その程度の知識なら、私にもあるよ。私でも教えられる」
「エミーリア。貴女には貴女の当為があるだろう。俺の教育にかまけている暇はない筈だ」
エミーリアは難しい表情で黙り込み、暫くの時間、修道女らしく沈黙の内に過ごした。
「……まだ、怒ってるの?」
「なんの事を言っているのか、分からない。怒ってなどいない」
うるさい。
エミーリアは、とにかくうるさい。元が好奇心旺盛で世話焼きな性格なのもあるだろうが、用もないのに俺を構う。構いたがる。鬱陶しい事この上ない。エルナが下界に帰った事で時間を持て余しているのか、その傾向は日に日に強くなる一方だった。
俺には、失ったパーソナリティを再度構築する必要がある。時間は幾らあっても足りない。やむを得ず、『新しい部屋』を切り分けて読書スペースを創る必要を感じ出したその時の事だ。
「ん……」
『部屋』に侵入者の気配を感じた俺は、強い不快感に襲われた。
侵入者の気配には、エミーリアも即座に気付いたようで、こちらは俺よりも激しく反応した。
「また……あの狼人……!」
エミーリアが視線を向けた部屋の一隅に、いつの間にか襤褸を纏った狼人の女が立っていた。
「ディ~~トさんっ! 摘まみ出すなんて、ひっど~いです!」
「……なんなんだ、お前は……」
狼人の女は酷く痩せこけており、右手に錆びた長剣を持っている。見るからにそうだが、狼人の女は物狂いだった。襤褸を纏うその姿からも容易く想像できるが、まともな生活を送っているようには見えない。
「狼人、どうやってこの部屋に入った」
「はいっ! ちょ~の~りょくですっ!」
そう言って、狼人の女は鋭く俺を指差した。
なるべく関わりたくない。その一心から、俺は穏やかに言った。
「指差すな。失礼だろう」
「はいっ! すみませぇん!」
そこで、狼人の女は見事な敬礼の形をして見せた。背筋を伸ばし、左手を胸に添え、僅かに頭を垂れる。
「ふむ……騎士か。狼人、名をなんという」
「…………」
狼人の女は答えず、俺を睨み付けるようにして刮目し、押し黙った。
暫く、この物狂いの狼人と見つめ合う格好になり、俺はその不快感に耐えねばならなかった。
先に口を開いたのは狼人の女だ。
「……レネ。レネ・ロビン・シュナイダー……です。ロビンとお呼び下さい……」
「ふむ。ロビンだな」
俺は一つ頷いた。礼に倣わざるは卑賤の輩。こちらも名乗る。
「俺は暗夜。お前がこの部屋に入った方法については不問とする。出て行ってもらいたい」
暫くの沈黙を挟み、狼人の女は消え入りそうな声で呟いた。
「……嫌です……」
「何故?」
それは単純な疑問から出た言葉だったが、ロビンは全く聞いて居らず、そのコバルトブルーの瞳でギョロギョロと辺りを睨み付けるようにして探っている。
「……そこの修道女は、以前も見ましたね……」
エミーリアは眉間に深い皺を寄せ、ロビンを厳しく睨み付けている。
「……なんなの、貴女は。何をしに来たの……」
「そ~れ~はあ、こちらの言葉ですよ、修道女。貴女こそ、な~んで暗夜さんに付きまとうんですかあ?」
部屋に無断で侵入された俺は、不愉快甚だしい。
そこでロビンは、すんと鼻を鳴らした。
「……知ってる匂いがします。ふんふん……」
ロビンのギラギラとした視線が、ベッドに座り込んでこちらを見るマリエールの姿を捕まえた。
「あれれ~? マリエールさんじゃあ、あ~りませんか。な~んで、ここに居るんですか~」
俺は用心深く言った。
「……マリエールの知己か? 今の彼女は集中治療中だ。ここでの騒ぎは控えてもらいたい……」
「……」
ロビンは再び黙り込み、俺を値踏みするようにして睨み付けていたが……
「……魂魄に大きな欠損があります。誰にやられたのですか……?」
レネ・ロビン・シュナイダーは不可解な存在だった。物狂いのように見えたが、時折、まともそうにも見える。
この時はまともそうに見えた。
「……また、あのしみったれにやられたんですか……?」
ざわ、とロビンの髪が巻き上がる。怒髪天。激昂寸前なのは火を見るより明らかだった。
そんな事とは関係なく――
「臭い」
俺は、この不快感に堪えられなくなった。
「ロビン、お前は臭い。格好も汚ならしい。酷い有り様だ」
「え……」
正に激昂寸前のロビンだったが、俺の言葉にハッとしたように己の姿を確認し……恥じ入るように俯いた。
「みっともない。今のお前ほど見苦しいヤツは見た事がない。ちゃんとメシを食え。風呂に入って、まともな服を着ろ。話はそれからだ」
「……は、はい、も、申し訳ありません……」
「分かったら出直せ。見るに堪えん」
俺は指を鳴らしてロビンを下界に落とした。位置は設定してない。大陸の何処へ行ったかは分からない。
ゴミはゴミ箱へ。
ロビンを追い払って、すっきりした俺は、これでよしと一つ頷いた。
また来るだろうが、これで少しは時間が稼げる。新しい部屋に行けば、長い間、あの見苦しい顔を見なくて済むだろう。
「さて、エミーリア。引っ越しするぞ」
「……そうだね」
相手は物狂いの狼人だ。アストラルパターンを記憶して、部屋への出入りを禁止したが、そもそも下界の者がこの奇妙な部屋に入る事自体があり得ない現象だ。常識が通用するかどうかも疑わしい。ディートハルト・ベッカーも気になる。
「エルナにも伝えておくね」
「そうしてくれ」
空間を薙ぎ払うようにして右手を振って、俺はコンソール画面を出現させた。
「ふむ……状況に変化はないな。ディートハルト・ベッカーも動いていない。部屋を分割しよう。位置は……」
キーボードを叩き、マウスを操作して新しい住まいの設定をしていると、エミーリアが、ぎょっとして俺を見つめた。
「な、ちょ、暗夜。貴方、何をしてるの……?」
「何って、新しい住まいを作ってるんだ。話し掛けるな……あ、クソ、バグだ。変更できないオブジェクトが山ほどある。我ながら嫌になるな……」
『新しい部屋』には、俺の精神状態が強く反映している。それとは別にして、俺が俺の部屋を自由に扱えるのは当然の事だった。