9 ひたすら進め
俺の新しい『部屋』の中に、『ディートハルト・ベッカー』という異物が入った。
十歳程度のガキだ。暗い海を見ているようでいて、実際は他の物を見ている。それが何かは分からない。
だが……あのガキは、俺の『部屋』……奇妙な部屋に留まるという事の意味を理解しているのだろうか。
俺の損なわれたパーソナリティには回復の見込みがない。元々乏しかったそれは全て蛇に喰われた。俺は『指標』がなく安定していない。それは、この新しい『部屋』を見れば分かる。やむを得ず、この『部屋』の軸をガキに設定した。
エミーリアたちの元に帰ると、いつも『早い』と言われる事からして、ガキの存在する時間軸は過去のものだ。
つまり……
俺の新しい『部屋』は、過去に通じている。尤も……過去に干渉する事は母に固く禁じられていて、そこから過去世界に降りる事は出来ない。
ガキが見ているものは分からない。だが、その無垢な精神に『焼き付け』られる。見ているものが焼き付けられる。
俺は……やむを得ず、ガキに聖痕を与えて祝福する事にした。幼少時期の『焼き付け』は、精神の成長に著しく強い影響を与えるからだ。聖痕があれば、そこに焼き付けられた物を閉じ込められる。『心』は守られる。
ガキ……『ディートハルト・ベッカー』は動かない。冷たい雨に濡れながら、遠い目で何かを見つめている。
聖痕を使うのは、使徒である俺をして疲れる。
その日は新しい部屋に長居せず、エミーリアたちが居る部屋に帰った。
マリエールの経過は順調だ。
使徒三人による集中治癒の効果もあり、その回復速度は俺の想像を遥かに超えている。
「マリエール。食事にしよう」
「うん」
マリエールは遠慮がちに微笑み、それから視線を伏せた。
俺……第十七使徒『暗夜』の部屋は虚無の闇に浮かんでいる。
今は、エミーリアにエルナも居るお陰で物が増えたが、以前はピアノの他には椅子だけしかなかった。元より人間性に乏しかったのだ。
マリエールを助けた今、俺の人間性は更に乏しくなった。使徒としては力を付けたが、益々、人間から程遠い存在になった。
母に与えられた『部屋』の中に於いて、使徒の力は神にも匹敵する。ここでの俺は何でも出来る。
創造した食事を虚無の中から取り出し、ベッドの端に座るマリエールに与えた。
「どうだ? 食事の事は分からないんだ。味は? 量は足りてるか? 何か食べたいものがあるなら、遠慮せずに言ってくれ」
尤も、知らないものは『創造』出来ない。試行錯誤するか、それについて調べる事になるだろう。
エルナが厳しく言った。
「暗夜。貴方が手ずから食べさせる必要はありませんよ。そのエルフに自分で食べさせなさい」
「これも診察の一環だ。放っておいてくれ」
マリエールの回復具合を見る為にやっている事だ。ガキ……『ディートハルト・ベッカー』を観察する片手間にやっている。
「マリエール、次は運動だ。今日は、もう少し遠くまで行ってみよう」
「うん」
やはり遠慮がちに微笑み、小さく頷くマリエールの腰を抱き、俺は人気のない海へ向かって飛んだ。
◇◇
ザールランドの北にある『死の砂漠』。そこを遥かに西に向かった先にある『悲しみの海』の砂浜に着いた。
厳しいエルナとエミーリアの姿がなくなったせいか、マリエールは少しホッとしているように見える。
「どうだ、マリエール。エルナたちに苛められてはいないか?」
下界の者であるせいか、エミーリアもエルナも、マリエールには厳しい。だから、なんだという話ではあるが……
「……」
俺は茶色く濁った『悲しみの海』を見つめる。この海には生命の気配を感じない。だから誰も寄り付かない。周りには人影一つない。
「なあ、マリエール。お前は物知りなんだろう? この海の向こうにある小さい島について、何か知っているか?」
「……え? 何もない筈だけど……」
「そんな事はない。小さいが島がある。魔物だらけだ。行く必要はないが、何かあるのかと思ってな……」
俺は『使徒』だ。人間より遥か遠くを見通せる。だが、何でも知っている訳じゃない。『成り立て』の俺は、圧倒的に経験が足りない。長命種のエルフなら、或いはと思ったがそうでもないようだ。
衰えた筋力と体力を回復させる為、マリエールの腰を支えたまま、暫く砂浜を歩いた。
「なんなんだ、この海は。何故、生物がいない。どうしてこうなった」
「……」
マリエールは、苦笑いを浮かべて答えなかった。彼女はこの海しか知らないのだろう。
少し歩いた所で、マリエールが疲れたようだったので、その場で休ませた。
悲しみの海からは、鼻を刺すような匂いがする。
「強酸性の海か。生物がいない訳だな。マリエール、海水には触れるなよ」
「う、うん、分かった」
マリエールは膝を抱えて砂浜に座り込み、俺を見つめている。
手持ち無沙汰になった俺は、煙草を吸って暫く時間を潰した。
マリエールが、ぽそりと呟いた。
「……伽羅の匂い……」
「違う。メンソールだ」
そう答えて、短くなった煙草を腐った海に吐き捨ると、しゅうっと音がして白い煙が上がった。
「まるで地獄だな」
数年間に渡り、床に伏していたマリエールの体力は驚くほど衰えている。砂浜を歩くのはリハビリの一環だが、俺は、そこで一つ失念していた事に気付いた。
マリエールは裸足だった。
「……っ、くそッ。マリエール、足を見せろ」
腐った海の砂浜だ。良くない成分で汚染されていたとしてもおかしくない。急いでマリエールの足を見ると、やはり足の皮が破れ、血が滲んでいた。
「……何故、何も言わない。痛みを訴えない。不平を鳴らさない……!」
「……先生には、もう充分良くしてもらってるから……」
その言葉は、俺自身が意外に思うほど俺の乏しい人間性を強く刺激した。
俺は激昂して叫んだ。
「良くない! 何故だ! 何故、俺に気を遣う!!」
頭が爆発しそうだった。
思い返せば、あの女はいつだってそうだった。他人だけじゃない。息子の俺にまで気を遣っていた。
「もっと我儘に振る舞え! 自己主張しろ! 俺にまで気を遣う必要はない!!」
「……」
マリエールは答えない。
俺の突然の感情の発露に驚いて、意外な物を見たように目を見開いている。
「くそッ!」
いつだってそうだった。俺はこうやって癇癪を起こし、あの女を困らせていた。
「何故だ……どうして、何も伝わらない……!」
俺は怒りに任せ、マリエールを含めた広範囲に強い祝福を与えて浄化した。
浄化範囲は数百mにも及び、砂浜を含めた海も浄化されたが、それは瞬く間に悲しみの海に再び汚染されて行く。
気分が悪い。
所で……『あの女』って誰だ?
また一つ、俺の中から人間性が消えて行った。母の仕業じゃない。おそらくだが、マリエールを助けた事で、俺は一つ現世との柵から解放された。或いは……失った。
「……」
俺は嘘みたいに落ち着いて、マリエールを抱き上げた。
「すまない。少し感情的になった。もうしない」
「……あ、うん……」
マリエールは驚いていたが、怯えてはいなかった。それだけが唯一の救いだった。
「……お前は……軽いな……」
俺は、必死で俺の人間性を繋ぎ止めようとして言葉を紡ぐが、それすらも心をすり抜けて行く。何も残らない。
マリエールは羽根のように軽かった。
術でマリエールの足を癒し、俺はまた『部屋』を使って飛んだ。
◇◇
空が藍色に染まり出した。そろそろ生身のマリエールには厳しい時間になる。極寒の夜が来る。散歩もそろそろおしまいだが……
その前に、一つ確認したいものがあった。
死の砂漠に無数に転がる石の真球『ロゼッタ』だ。
小さい物で五十cm。大きい物でも一mは超えない石の真球。石の球だが……
「マリエール、これがなんだか知っているか?」
「うん。ロゼッタ」
「違う、名前の事じゃない。この石の球がなんであるかだ」
「……わ、分からない……」
おそらく、マリエールにはこれが自然で、考えた事もなかったのだろう。
「この石は『真球』だ。その意味が分かるか?」
そうだ。『ロゼッタ』は『真球』なのだ。この世界の技術では作れない。最も優れたドワーフの技術者をしても無理だろう。この滑らかな真球の石は作れない。
「……」
マリエールは答えない。だが、目の色が少し変わった。エルフは優れた知性を持っている。俺の疑問に気付いたのだろう。
人の枠を超え、使徒となった今でも、この世界は謎に溢れている。
人工勇者や人工聖女だけじゃない。この世界には謎が多過ぎる。その謎を解くには俺一人では無理だ。一緒に考える優秀な頭脳としての人材が必要だ。
「マリエール、俺と来い。一緒に世界の謎を見に行こう」
「……」
マリエールは、またしても驚いたように目を見開き……それから、溢れるような笑みを浮かべた。
「いいよ、先生。一緒に行こう。私も世界の謎を見てみたい」
俺は第十七使徒『暗夜』。『アスクラピアの子』。それ以外に残ったものは――
地球人としての自負。
『幻想』には『現実』で対抗する。まだ負けられない。この世界に埋もれる訳にはいかない。
俺は失いつつも前に進む。
それだけだ。