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アスクラピアの子  作者: ピジョン
第四部 青年期『使徒』編(前半)
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9 ひたすら進め

 俺の新しい『部屋』の中に、『ディートハルト・ベッカー』という異物が入った。


 十歳程度のガキだ。暗い海を見ているようでいて、実際は他の物を見ている。それが何かは分からない。


 だが……あのガキは、俺の『部屋』……奇妙な部屋(ストレンジ・ルーム)に留まるという事の意味を理解しているのだろうか。


 俺の損なわれたパーソナリティには回復の見込みがない。元々乏しかったそれは全て蛇に喰われた。俺は『指標』がなく安定していない。それは、この新しい『部屋』を見れば分かる。やむを得ず、この『部屋』の軸をガキに設定した。


 エミーリアたちの元に帰ると、いつも『早い』と言われる事からして、ガキの存在する時間軸は過去のものだ。

 つまり……

 俺の新しい『部屋』は、過去に通じている。尤も……過去に干渉する事は母に固く禁じられていて、そこから過去世界に降りる事は出来ない。


 ガキが見ているものは分からない。だが、その無垢な精神に『焼き付け』られる。見ているものが焼き付けられる。


 俺は……やむを得ず、ガキに聖痕を与えて祝福する事にした。幼少時期の『焼き付け』は、精神の成長に著しく強い影響を与えるからだ。聖痕があれば、そこに焼き付けられた物を閉じ込められる。『心』は守られる。


 ガキ……『ディートハルト・ベッカー』は動かない。冷たい雨に濡れながら、遠い目で何かを見つめている。


 聖痕を使うのは、使徒である俺をして疲れる。


 その日は新しい部屋に長居せず、エミーリアたちが居る部屋に帰った。


 マリエールの経過は順調だ。

 使徒三人による集中治癒の効果もあり、その回復速度は俺の想像を遥かに超えている。


「マリエール。食事にしよう」


「うん」


 マリエールは遠慮がちに微笑み、それから視線を伏せた。


 俺……第十七使徒『暗夜ヨル』の部屋は虚無の闇に浮かんでいる。


 今は、エミーリアにエルナも居るお陰で物が増えたが、以前はピアノの他には椅子だけしかなかった。元より人間性に乏しかったのだ。


 マリエールを助けた今、俺の人間性は更に乏しくなった。使徒としては力を付けたが、益々、人間から程遠い存在になった。


 母に与えられた『部屋』の中に於いて、使徒の力は神にも匹敵する。ここでの俺は何でも出来る。

 創造した食事を虚無の中から取り出し、ベッドの端に座るマリエールに与えた。


「どうだ? 食事の事は分からないんだ。味は? 量は足りてるか? 何か食べたいものがあるなら、遠慮せずに言ってくれ」


 尤も、知らないものは『創造』出来ない。試行錯誤するか、それについて調べる事になるだろう。

 エルナが厳しく言った。


「暗夜。貴方が手ずから食べさせる必要はありませんよ。そのエルフに自分で食べさせなさい」


「これも診察の一環だ。放っておいてくれ」


 マリエールの回復具合を見る為にやっている事だ。ガキ……『ディートハルト・ベッカー』を観察する片手間にやっている。


「マリエール、次は運動だ。今日は、もう少し遠くまで行ってみよう」


「うん」


 やはり遠慮がちに微笑み、小さく頷くマリエールの腰を抱き、俺は人気のない海へ向かって飛んだ。


◇◇


 ザールランドの北にある『死の砂漠』。そこを遥かに西に向かった先にある『悲しみの海』の砂浜に着いた。


 厳しいエルナとエミーリアの姿がなくなったせいか、マリエールは少しホッとしているように見える。


「どうだ、マリエール。エルナたちに苛められてはいないか?」


 下界の者であるせいか、エミーリアもエルナも、マリエールには厳しい。だから、なんだという話ではあるが……


「……」


 俺は茶色く濁った『悲しみの海』を見つめる。この海には生命の気配を感じない。だから誰も寄り付かない。周りには人影一つない。


「なあ、マリエール。お前は物知りなんだろう? この海の向こうにある小さい島について、何か知っているか?」


「……え? 何もない筈だけど……」


「そんな事はない。小さいが島がある。魔物だらけだ。行く必要はないが、何かあるのかと思ってな……」


 俺は『使徒』だ。人間より遥か遠くを見通せる。だが、何でも知っている訳じゃない。『成り立て』の俺は、圧倒的に経験が足りない。長命種のエルフなら、或いはと思ったがそうでもないようだ。


 衰えた筋力と体力を回復させる為、マリエールの腰を支えたまま、暫く砂浜を歩いた。


「なんなんだ、この海は。何故、生物がいない。どうしてこうなった」


「……」


 マリエールは、苦笑いを浮かべて答えなかった。彼女はこの海しか知らないのだろう。


 少し歩いた所で、マリエールが疲れたようだったので、その場で休ませた。


 悲しみの海からは、鼻を刺すような匂いがする。


「強酸性の海か。生物がいない訳だな。マリエール、海水には触れるなよ」


「う、うん、分かった」


 マリエールは膝を抱えて砂浜に座り込み、俺を見つめている。


 手持ち無沙汰になった俺は、煙草を吸って暫く時間を潰した。

 マリエールが、ぽそりと呟いた。


「……伽羅の匂い……」


「違う。メンソールだ」


 そう答えて、短くなった煙草を腐った海に吐き捨ると、しゅうっと音がして白い煙が上がった。


「まるで地獄だな」


 数年間に渡り、床に伏していたマリエールの体力は驚くほど衰えている。砂浜を歩くのはリハビリの一環だが、俺は、そこで一つ失念していた事に気付いた。


 マリエールは裸足だった。


「……っ、くそッ。マリエール、足を見せろ」


 腐った海の砂浜だ。良くない成分で汚染されていたとしてもおかしくない。急いでマリエールの足を見ると、やはり足の皮が破れ、血が滲んでいた。


「……何故、何も言わない。痛みを訴えない。不平を鳴らさない……!」


「……先生ドクには、もう充分良くしてもらってるから……」


 その言葉は、俺自身が意外に思うほど俺の乏しい人間性を強く刺激した。

 俺は激昂して叫んだ。


「良くない! 何故だ! 何故、俺に気を遣う!!」


 頭が爆発しそうだった。

 思い返せば、あの女はいつだってそうだった。他人だけじゃない。息子の俺にまで気を遣っていた。


「もっと我儘に振る舞え! 自己主張しろ! 俺にまで気を遣う必要はない!!」


「……」


 マリエールは答えない。

 俺の突然の感情の発露に驚いて、意外な物を見たように目を見開いている。


「くそッ!」


 いつだってそうだった。俺はこうやって癇癪を起こし、あの女を困らせていた。


「何故だ……どうして、何も伝わらない……!」


 俺は怒りに任せ、マリエールを含めた広範囲に強い祝福を与えて浄化した。


 浄化範囲は数百mにも及び、砂浜を含めた海も浄化されたが、それは瞬く間に悲しみの海に再び汚染されて行く。


 気分が悪い。


 所で……『あの女』って誰だ?


 また一つ、俺の中から人間性が消えて行った。母の仕業じゃない。おそらくだが、マリエールを助けた事で、俺は一つ現世とのしがらみから解放された。或いは……失った。


「……」


 俺は嘘みたいに落ち着いて、マリエールを抱き上げた。


「すまない。少し感情的になった。もうしない」


「……あ、うん……」


 マリエールは驚いていたが、怯えてはいなかった。それだけが唯一の救いだった。


「……お前は……軽いな……」


 俺は、必死で俺の人間性を繋ぎ止めようとして言葉を紡ぐが、それすらも心をすり抜けて行く。何も残らない。


 マリエールは羽根のように軽かった。


 術でマリエールの足を癒し、俺はまた『部屋』を使って飛んだ。


◇◇


 空が藍色に染まり出した。そろそろ生身のマリエールには厳しい時間になる。極寒の夜が来る。散歩もそろそろおしまいだが……

 その前に、一つ確認したいものがあった。


 死の砂漠に無数に転がる石の真球『ロゼッタ』だ。


 小さい物で五十cm。大きい物でも一mは超えない石の真球。石の球だが……


「マリエール、これがなんだか知っているか?」


「うん。ロゼッタ」


「違う、名前の事じゃない。この石の球がなんであるかだ」


「……わ、分からない……」


 おそらく、マリエールにはこれが自然で、考えた事もなかったのだろう。


「この石は『真球』だ。その意味が分かるか?」


 そうだ。『ロゼッタ』は『真球』なのだ。この世界の技術では作れない。最も優れたドワーフの技術者をしても無理だろう。この滑らかな真球の石は作れない。


「……」


 マリエールは答えない。だが、目の色が少し変わった。エルフは優れた知性を持っている。俺の疑問に気付いたのだろう。


 人の枠を超え、使徒となった今でも、この世界は謎に溢れている。


 人工勇者や人工聖女だけじゃない。この世界には謎が多過ぎる。その謎を解くには俺一人では無理だ。一緒に考える優秀な頭脳ブレーンとしての人材が必要だ。


「マリエール、俺と来い。一緒に世界の謎を見に行こう」


「……」


 マリエールは、またしても驚いたように目を見開き……それから、溢れるような笑みを浮かべた。


「いいよ、先生ドク。一緒に行こう。私も世界の謎を見てみたい」


 俺は第十七使徒『暗夜ヨル』。『アスクラピアの子』。それ以外に残ったものは――


 地球人としての自負。


 『幻想ファンタジー』には『現実リアル』で対抗する。まだ負けられない。この世界に埋もれる訳にはいかない。


 俺は失いつつも前に進む。


 それだけだ。

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― 新着の感想 ―
[一言] 海ヤバ……神に祟られでもしてんの?急にめっちゃ怖い要素出てくる 海洋資源に頼れないのがこの世界が貧しい原因にもなってそうだなあ……
[一言] 「忘却は救済」とは誰の言葉だったか……
[良い点] マリエールは二歩も三歩も引いて見ていたキャラだったから、青年期編に入って距離が近くなってくれて嬉しい [気になる点] 振り返るとドワーフ、狼、妖精はセクシャルな視線が混じっていたり自己主…
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