8 奇妙な部屋にて『暗夜』1
翌日現れた聖エルナは、俺を見て激怒した。
「……暗夜……! お前は、また……!」
「俺がまた、なんだ?」
俺が首を傾げて見せると、エルナは一瞬だけ目を見張り、今度はエミーリアに向き直った。
「……聖エミーリア。貴女が付いていながら、なんでこんな事になったのです……!」
「……」
エミーリアは俯き、唇を噛み締めてエルナの言葉を聞いていた。
◇◇
『肉体』というものは不自由だ。
俺は弱ったマリエールに一日三度の食事を与え、半日置きに強い浄化の祝福を与えた。
マリエールは非常に従順で優秀な患者だった。食事は食欲の有無に関係なく頑張って完食するし、夜間も無理せず時間通りに眠る。衰えた筋力を回復させる為のリハビリにも積極的だ。エミーリアの協力もあり、マリエールの完治はそう遠くない。
エミーリアの祝福は俺のように激しくなく、効果は俺よりやや劣るものの持続時間が長い。優しい祝福だった。
「ありがとう。聖エミーリア」
俺が素直に礼を言うと、何故かエミーリアは顔を背け、険しい表情で口を噤んだ。
小うるさいエルナは、毎日のように俺の部屋に現れて愚痴を垂れ流した。
「暗夜。お前のせいで全てが台無しです。今のお前の姿を見れば、ゾイもルシールも深く悲しむでしょう」
「す、すまない……」
よく分からないが、怒っているので謝ると、エルナは益々怒り出した。
「自己犠牲、大いに結構ですが、お前は無責任で独り善がりです。お前が何かを失う度に、お前を想って悲しむ誰かの存在を考えた事がありますか?」
「俺を想う……そんな者が居るのか……?」
俺がそう答えた時、エルナの顔はくしゃくしゃに歪んだ。今にも泣き出しそうな顔だった。
「……お前、本気でそう思っているのですか……?」
暫くの沈黙を挟み、落ち着いたエルナが言うには、以前の俺は、もっと嫌なヤツだったそうだ。だが、それがなくなった。
「……ある種の欠点は、自我の確立の為に必要です。もし……もしですが……私の友人が、ある種の欠点を失くしたとすれば……私はそれを不快に思います……」
「そうか」
短く答え、俺が頷くと、エルナは眉間に深い皺を寄せて押し黙った。
エミーリアとエルナは古参の使徒だ。行動は似てないようで、よく似ている。俺と話していると、不快感を露にして唐突に黙り込む。
マリエールの治療にはエルナも協力してくれた。それはいい。同じ使徒とはいえ、祝福には個性が出る。
エルナの祝福はザールランドの陽光を思わせる程の激しさがある。目映く美しい。そして強力だ。
そのエルナとエミーリアの会話だが、マリエールの事に関しての内容は非常に剣呑だ。
「早く治して、このエルフを追い出しましょう」
「そうだね。そうしよう」
その厳しい物言いも、最初は人ならざる使徒故のものだと思っていたが、そんなある日、エルナが唐突にマリエールの頭を強く叩いた。
怪我をさせる程ではないが、凄い音がして、俺は一遍に不愉快になった。
「聖エルナ。何故、そんな酷い事をする。マリエールは何もしていないだろう」
そのエルナだが、悪びれもせず俺を厳しく睨み付けて来る。
「その『何もしていない』というのが問題なんですよ」
そして、叩かれたマリエールだが、俯いて文句の一つも言わない。
「エルフ。お前は、なんの為に長生きして来たのです。これまで何を学んだのですか?」
「……」
マリエールは項垂れて答えない。
「聖エルナ、何も叩く事はないだろう」
「誰かが、彼女を叱らねばなりません。お前が甘やかすだけでそうしないから、私がそうしたまでの事ですよ」
その勝手な言い草に、俺は呆れて溜め息を吐き出した。
「聖エルナ、貴女は感情的になって怒っているだけだ。怒るのと叱るのでは、全然、意味が違う。それが分からない貴女ではないだろう」
「論理的なお前は、以前と違う別次元のムカつきがありますね」
「……嫌な女だ……」
あまりに不愉快でそう言うと、エルナは何故か嬉しそうに笑った。
「いいですね。その感じです。以前のお前は、そういう事を堂々と言う嫌なヤツでした」
俺は呆れて首を振った。
「とにかく、聖エルナ。もうマリエールを叩くな。次は出て行ってもらう」
「分かりました。いいでしょう。それと、私だけ『聖エルナ』と呼ぶのはやめてくれますか? エルナでいいです」
それから暫くして、俺は母より別の『部屋』を与えられた。総勢十七人の使徒の中でも、二つ以上の『部屋』を持つ者はいない。『権利』が広がるという事だ。名誉な事だが、エミーリアもエルナも喜ばなかった。
「暗夜、これがどういう事か、ちゃんと理解していますか?」
「……?」
「今のお前は欠損甚だしい状態です。存在自体に大きな問題を抱えていると言えるでしょう。新しい『部屋』には、お前の抱えた問題が反映します」
意味が分からない。腕組みして難しく考えるフリをしていると、エミーリアが口を開いた。
「暗夜、個性の喪失だよ。貴方は消滅する可能性がある」
エルナが忌々しそうに言った。
「要するに、今のお前は腑抜けているんですよ。もう少し、しゃきっとなさい」
俺たち使徒の身体は星辰体だ。精神状態が肉体の状態にも強く関係する。個性の喪失は消滅を意味していた。
「そうか」
興味がなかったので、短く答えると、エルナとエミーリアは揃って黙り込んだ。
◇◇
新しく与えられた『部屋』は、俺の精神状態が強く影響する。
訪れた新しい『部屋』は酷く寂しい場所だった。
夜の港。しとしとと雨が降っていて、鉄のデカい船が停泊している。
エルナが険しい表情で言った。
「ここは、お前の心象風景で創られた世界です。暫くここで休みなさい。ある程度の回復が見込める筈です」
それにはエミーリアも同意見だったようで、深く頷いた。
「……そうだね。きっと何かを思い出す筈だよ。それは貴方の人間性に起因する事だから、大事にした方がいい……」
「ここに居ればいいのか?」
エルナは頷いた。
「そうです。あのエルフは、責任を持って私たちが面倒を見ます。お前は少し休みなさい」
「……ここは駄目だ。酷く不安定で長居するような場所じゃない。時間軸も世界観も、何もかも出鱈目だ……」
「それが、今の貴方の状態なんだよ」
「そうか」
やはり興味が持てなくて、短く答えた俺に、エルナが優しく言った。
「好きなだけ休みなさい。そして、気が向いた時には帰って来なさい。私たちが、貴方の部屋で、貴方の帰りを待っている事だけは忘れないように」
「……分かった」
エルナとエミーリアが去り、俺は、俺の『心象風景』から創られたという部屋に留まった。
二つ並んだ埠頭の先で、灯台の緑と赤の光が点滅しているのが見えた。
雨が降っていて、優しい潮風が吹き付ける。神官服を濡らす冷たい雨が心地よかった。
「……」
どれぐらい海を眺めていたか分からない。寄せては返す波の音をいつまでも聞いていた。
気が付くと俺は煙草を吸っていて、深く物思いに沈むようになっていた。そして、それに飽きるとエミーリアたちが居る部屋に帰った。
煙草を吸う俺に、エミーリアとエルナは物凄く嫌そうな顔をしたが、やめろとは言われなかった。
マリエールは、順調に快方に向かっている。
それからの俺はというと、マリエールの様子を診て、あの『部屋』に戻って物思いに耽る。暫くそういう日々を繰り返した。
そんなある日の事だ。
いつものように雨が降り頻る港で煙草を吸っていると、十歳程の小さい子供が現れた。
「……どうかしたんですか……?」
妙に引っ掛かる所のあるガキだった。
俺は何と言って言いか分からずに、暫くは煙草を吸っていた。
ガキは消えず、いつまでも俺の言葉を待っている。
やむを得ず答えた。
「……たまに来たくなる。それだけだ……」
「そうですか」
俺は……殆どの記憶を失ったが、全てを失った訳じゃない。マリエールの一件で思い出した事もある。
「お袋が死んでからは……ただ、がむしゃらに生きて来た……」
そうだ。俺は負けない。負ける訳には行かない。世の中全てに気を使って、全てを抱えて死んで行ったお袋を悲しませる訳には行かない。誰よりも強くなりたい。誰よりも強く生きねばならない。
色々やった。
喧嘩もお勉強も散々やったが、それだけじゃ駄目だ。特技がいる。だからピアノを覚えた。社会に出てからは、それなりに上手くやった。
「気が付くと、ポケットの中に金が唸ってた」
金で幸せは買えない。陳腐な理屈だが真理だ。実際、金は俺を幸せにはしてくれなかった。
「……」
俺という『個性』を構成する記憶の殆どが、アスクラピアの蛇に喰われて消えた。今の俺には『指標』となる意思がない。手探りで進む暗い道はまるで……
「……終わりのない夜のようだ……」
そうだ……俺は……『暗夜』。暗い夜……虚無の闇から生まれた男。
「疲れたんですか?」
「どうだろうな。よく分からない」
こいつと話していると、何故か気に障る。心が動く。エルナとエミーリアが聞けば喜ぶだろう。
冗談で煙草を勧めると、躊躇う事なく咥えたので火を点けてやった。
「……悪くないね」
俺は……かつては人間だった筈だ。もし、子供が居ればなんていう下らない事を考えた。
子供は嫌いじゃない。
俺と違って汚れてないからだろう。何もかも計算ずくの俺とは違う。
「……悲しいんですか……?」
「さぁ……どうだろうな。本当は、よく分からないんだ……」
今の俺には、何もかも分からない事だらけだ。
雨と潮風と強いメンソールの香り。それだけが今の俺の全て。短くなった煙草を吐き捨てると、波に浚われて消えて行った。
「……そろそろ、帰る……」
雨に濡れたアスファルトから照り返すオレンジの輝きが美しい。
「そうですか。僕はここに残ります」
俺は黙って神官服の裾を翻す。
「また、会えますか?」
その問い掛けに、俺は黙って雨の夜空を見上げる。
また一つ思い出した。
ディートハルト・ベッカー。
俺は新しい煙草に火を点ける。紫煙が潮風に流されて消えて行くのを見送って……
冷たく言った。
「いや、これきりだ」
このガキを見ていると、うっかり殺してしまいそうだ。
「幸運を祈ります」
俺は、その言葉を鼻で嘲笑った。
◇◇
愛のない者だけが欠点を克服し得る。したがって、完全足り得るには愛をなくさねばならない。
しかし――
必要以上に愛をなくすべきではない。
《アスクラピア》の言葉より。
◇◇