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アスクラピアの子  作者: ピジョン
第四部 青年期『使徒』編(前半)
204/309

7 笑っておくれ2

 開け放たれた窓から、白い陽の光が射し込んでいる。


 白いベッドの上では、エルフの女が静かに眠っていた。


「…………」


 生きているのが不思議な程の痩せ衰えようだった。


 頬はげっそりと肉が削げ落ち、シーツから僅かに覗く腕は枯木のように細かった。


「……何故だ。何故、こんな事になった。薬は山ほどの作り置きがあった筈だ……」


 答えたのはアレックスだ。


「何年経ったと思ってる。そんなん、もうねぇよ。あんたが死んで居なくなって、マリエールは諦めたんだ……」


 エミーリアは僅かに刮目し、居たたまれない表情で首を振った。

 俺はアレックスに噛み付いた。


「ふざけるな、アレックス。俺に何かあった時は、ルシールを頼れと言ってあった筈だ」


 アレックスは視線を伏せ、エミーリアと同じように首を振った。


「あの修道女シスタじゃ、あんたの代わりは出来ねえよ」


「……」


 俺は……人間をやめた。その力は人のそれを凌駕している。だが、限界がない訳じゃない。使徒としての直感が明確に告げている。


 マリエール・グランデは治らない。


 病状は既に末期だ。最早、手の施しようがない。マリエールに残された時間は少ない。人を超えて尚、手の届かぬ領域にこの困難は存在している。


「……あのガキはどうしていた……?」


「ガキ……?」


「俺の力をやったあのガキだ。あいつなら、どうにでも出来ただろう。何の為に力を遺したと思っている」


 アレックスは僅かに困惑し、力なく首を振った。


「すまねえ。何の事を言ってるのか、あたしには分からねえ」


「…………」


 稲妻のように、一つの名が記憶の底から吐き出される。



 ディートハルト・ベッカー!



 俺は軽く唇を舐め、右手で顔を拭った。


「……分かった。全て理解した。大丈夫だ。俺の力は人間の領域を遥かに超えている……不可能はない……」


 酷く頭が痛んだ。記憶の底が僅かに淀む。おりが舞い上がり、世の中、全てに遠慮して死んで行った……俺にとっての聖なる何かが形を以て姿を現す。


「……エミーリア。俺に合わせろ。合唱する……」


 使徒二人による『合唱詠唱』だ。俺の力にエミーリアの力が乗れば、術の効果は倍増する。


「…………」


 エミーリアは、黙って首を振った。


「暗夜、貴方の気持ちはよく分かる。でも、もう手遅れなんだよ……彼女は弱り果ててる。その身体に合唱詠唱は強すぎるよ……」


 俺は鼻を鳴らして嘲笑った。


「無能め。治癒なら誰にも負けないとのたまったのは、何処のどいつだ?」


「……私たち使徒にも限界はある。これは……『悪魔の種子』だよね……」


 そうだ。既に芽吹いた病巣は全身に転移しており、最早、手の施しようがない。今、この瞬間にもマリエールの命の灯火が消えたとしてもなんの不思議もない。だが……


「だから、なんだ?」


「暗夜……」


 俺は静かにベッドに歩み寄り、眠るマリエールの頬を両手で包み込む。


「マリエール、起きろ。俺だ」


 強い鎮痛作用のある薬を使用している。麻薬そのものと言っていい劇薬だ。このまま安らかに永眠ねむらせる事が、アレックスやアネットに出来る精一杯の事なのだろう。


「マリエール、目を覚ませ。もう、誰にも遠慮する事はないんだ」


「暗夜……?」


 術で薬を抜けば覚醒するだろうが、その瞬間やって来る激痛でマリエールは悶え死ぬだろう。

 方法は……

 薬効を抜かず、癒すのでもなく、細胞を活性化させて覚醒を促す。


最も遅く(ラルゴ)


 かつ広範囲に渡って、時間を掛けて術を行使して全身に呼び掛ける。


 今のマリエールの弱りきった身体に、強い術は劇薬でしかない。なら、ゆっくりと辛抱強く時間を掛けねばならない。続けて……


遅く(レント)


 頬に僅かな赤みが差す。


緩やかに(アダージョ)


 0から1を生み出す事は、使徒である俺をしても不可能だ。損なわれた命は帰らない。だが、まだだ。俺が諦める訳には行かない。俺が諦めた瞬間がマリエールの最期だ。俺が負ける訳には行かない。


歩くような速さで(アンダンテ)


 そして――


控え目なスピードで(モデラート)


 青白かったマリエールの顔に益々赤みが差し、瞼が微かに痙攣して、うっすらと瞳が開いた。


「う、嘘……目を覚ました……」


 エミーリアの目は驚愕に見開かれている。


「……」


 目を覚ましたマリエールは、深く長い溜め息を吐き出した。


先生ドク……遅いよ……」


 消え入りそうな声でそう呟いて、マリエールは枯木のように細くなった両腕で俺の首に抱き着いた。


「すまなかった。行こう。ここでは充分な治療が出来ない」


「うん……」


 見ろ。簡単な事だ。あらゆる困難も決して諦めず、力と知恵を尽くせば大抵の場合は乗り越えられる。だから……


「マリエール、笑ってくれ……」


「……」


 マリエールは、僅かに微笑んだ。これで充分だ。俺は確かな報酬を得た。


「飛ぶぞ」


 マリエール・グランデは、集中治療の必要がある。俺の『部屋』なら、大抵の物は手に入る。必要な物は何でも創造できる。

 俺は言った。


「手の届かぬ困難を前にして、それを言い訳にして簡単に諦める者に用はない」


 今はただ、純然たる怒りが胸をく。


「よ、暗夜、私も行くよ……!」


「駄目だ」


 俺は俺だ。一人でもこの道を行く。一人でこの道を踏み締める。誰も信用しない。



「エミーリア。お前には何も期待していない」



 それだけ言い残し、俺はマリエールを抱き上げると同時に、『部屋』へ飛んだ。


◇◇


 俺はマリエールと共に、『奇妙な部屋(ストレンジ・ルーム)』に帰った。


 先ずはベッドを創造し、そこにマリエールの身体を横たえる。


「アスクラピアの二本の手。一つは癒し、一つは奪う。

 彼の者は一である。永遠に唯一の者。

 彼の者は全。全にして永遠にただ一つなり」


 誰にも邪魔はさせない。母に切り与えられたこの『部屋』に於いて、使徒の力は神に匹敵する。即ち……

 今の俺に不可能はない。


「過去は常駐にあり、未来は予め生き、瞬間は永遠となる。命の流れは水にも似たる。空より出でて、空へと還る。永久に変わりて止まず」


 使徒詠唱。

 マリエールの時間を巻き戻す。俺は負けない。負ける訳には行かない。そんな俺に……誰も、迷う権利を許さない。


「生きよ、望め、咲け、愛せ。そして喜べ。新しい芽を出せ。生を恐れるな!」


 しみったれた女! 敬愛する母よ! 俺を持って行け!


「葬られよ。新しく席を譲れ。身を投げ出して、死を恐れるな!」


 俺は十七使徒『暗夜』。


 祈りに応え、母が降臨する。


 俺は『アスクラピアの子』。

 失いつつも俺は進む。迷う事も許されず、力の限り、ひたすら前へ。その姿はやがて親たる母に似て……


「地上の者は死すべき定めに創られている。母は優しく暖かく我らを抱くと同時に、揺りかごと墓場を与える。母は我らに平和を与えない。試練と時が幼子を大人にし、我らの戦いと良心とを呼び覚ます」


 俺が一心不乱に祈る姿を、母は優しく微笑んで見つめている。



 大丈夫。悲しい事は起こらない。



 斯くして母は奪い、与えたまう。


◇◇


 エルフの女が、激しく嗚咽を漏らして泣きじゃくっている。


 俺がなんと言って慰めようと、どんなに優しくしようと、彼女は泣く事をやめない。まるでそれが己の義務とでも言わんばかりに泣き続ける。


 エルフの女の衣服には胸の部分に『Marielle(マリエール・) Grande(グランデ)』と書いてある。このエルフの女の名前だ。そう名乗ったので、胸にそう書いた。


「もう大丈夫だ。何故泣く。お前の完全な治療には、まだ長い時間が掛かる。最後は腫瘍を摘出する必要があるからな」


 俺が何を言っても、エルフの女は泣くのを止めない。


 そして、リンドウの花の刺繍がある古い修道服の少女も泣くのを止めない。


「えっと……エミーリアだったか? お前も何故泣くんだ。二人とも、いい加減に泣くのをやめてくれ」


 エミーリアもマリエールも泣くのをやめない。


「……ねえ、暗夜ヨル……何をどれだけ捧げたの……どれだけの物を失えばそうなるの……!」


暗夜ヨル? 俺の名前は、暗夜というのか?」


 そう答えると、二人はいっそう激しく泣き崩れた。


「参ったな……俺は……涙が嫌いなんだ。だから、二人とも……」


 ……笑っておくれ……


◇◇


 太陽が世界のこの上なく美しい半ばとして与えられたように、その半身として与えられた夜もまた美しい半ば。それも、この上なく美しい世界の半ば。


《アスクラピア》の言葉より


◇◇

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― 新着の感想 ―
[一言] 寿命を捧げようが何を削ろうが、それこそ誰もが眉を顰め嘆くような欠損を抱えようが、愛を以て救うべきものを救おうとする在り方はいかにも聖者然としている 愛を以て己を削りながら救済を為して、その削…
[良い点] ランキングから出会い、三日かけてやっと追いつきました! もうめちゃめちゃ面白いです!! アスクレピアの言葉集が欲しい…… 次の更新が待ち遠しいです!これからも頑張ってください!
[良い点] 今一番楽しみな小説です。 欠点も多い暗夜ですが、大切な人を助けるためなら全てを差し出せる、本当にぶれない主人公で、彼の進む道を見守らずにはいられません。
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