7 笑っておくれ2
開け放たれた窓から、白い陽の光が射し込んでいる。
白いベッドの上では、エルフの女が静かに眠っていた。
「…………」
生きているのが不思議な程の痩せ衰えようだった。
頬はげっそりと肉が削げ落ち、シーツから僅かに覗く腕は枯木のように細かった。
「……何故だ。何故、こんな事になった。薬は山ほどの作り置きがあった筈だ……」
答えたのはアレックスだ。
「何年経ったと思ってる。そんなん、もうねぇよ。あんたが死んで居なくなって、マリエールは諦めたんだ……」
エミーリアは僅かに刮目し、居たたまれない表情で首を振った。
俺はアレックスに噛み付いた。
「ふざけるな、アレックス。俺に何かあった時は、ルシールを頼れと言ってあった筈だ」
アレックスは視線を伏せ、エミーリアと同じように首を振った。
「あの修道女じゃ、あんたの代わりは出来ねえよ」
「……」
俺は……人間をやめた。その力は人のそれを凌駕している。だが、限界がない訳じゃない。使徒としての直感が明確に告げている。
マリエール・グランデは治らない。
病状は既に末期だ。最早、手の施しようがない。マリエールに残された時間は少ない。人を超えて尚、手の届かぬ領域にこの困難は存在している。
「……あのガキはどうしていた……?」
「ガキ……?」
「俺の力をやったあのガキだ。あいつなら、どうにでも出来ただろう。何の為に力を遺したと思っている」
アレックスは僅かに困惑し、力なく首を振った。
「すまねえ。何の事を言ってるのか、あたしには分からねえ」
「…………」
稲妻のように、一つの名が記憶の底から吐き出される。
ディートハルト・ベッカー!
俺は軽く唇を舐め、右手で顔を拭った。
「……分かった。全て理解した。大丈夫だ。俺の力は人間の領域を遥かに超えている……不可能はない……」
酷く頭が痛んだ。記憶の底が僅かに淀む。澱が舞い上がり、世の中、全てに遠慮して死んで行った……俺にとっての聖なる何かが形を以て姿を現す。
「……エミーリア。俺に合わせろ。合唱する……」
使徒二人による『合唱詠唱』だ。俺の力にエミーリアの力が乗れば、術の効果は倍増する。
「…………」
エミーリアは、黙って首を振った。
「暗夜、貴方の気持ちはよく分かる。でも、もう手遅れなんだよ……彼女は弱り果ててる。その身体に合唱詠唱は強すぎるよ……」
俺は鼻を鳴らして嘲笑った。
「無能め。治癒なら誰にも負けないと宣ったのは、何処のどいつだ?」
「……私たち使徒にも限界はある。これは……『悪魔の種子』だよね……」
そうだ。既に芽吹いた病巣は全身に転移しており、最早、手の施しようがない。今、この瞬間にもマリエールの命の灯火が消えたとしてもなんの不思議もない。だが……
「だから、なんだ?」
「暗夜……」
俺は静かにベッドに歩み寄り、眠るマリエールの頬を両手で包み込む。
「マリエール、起きろ。俺だ」
強い鎮痛作用のある薬を使用している。麻薬そのものと言っていい劇薬だ。このまま安らかに永眠らせる事が、アレックスやアネットに出来る精一杯の事なのだろう。
「マリエール、目を覚ませ。もう、誰にも遠慮する事はないんだ」
「暗夜……?」
術で薬を抜けば覚醒するだろうが、その瞬間やって来る激痛でマリエールは悶え死ぬだろう。
方法は……
薬効を抜かず、癒すのでもなく、細胞を活性化させて覚醒を促す。
「最も遅く」
かつ広範囲に渡って、時間を掛けて術を行使して全身に呼び掛ける。
今のマリエールの弱りきった身体に、強い術は劇薬でしかない。なら、ゆっくりと辛抱強く時間を掛けねばならない。続けて……
「遅く」
頬に僅かな赤みが差す。
「緩やかに」
0から1を生み出す事は、使徒である俺をしても不可能だ。損なわれた命は帰らない。だが、まだだ。俺が諦める訳には行かない。俺が諦めた瞬間がマリエールの最期だ。俺が負ける訳には行かない。
「歩くような速さで」
そして――
「控え目なスピードで」
青白かったマリエールの顔に益々赤みが差し、瞼が微かに痙攣して、うっすらと瞳が開いた。
「う、嘘……目を覚ました……」
エミーリアの目は驚愕に見開かれている。
「……」
目を覚ましたマリエールは、深く長い溜め息を吐き出した。
「先生……遅いよ……」
消え入りそうな声でそう呟いて、マリエールは枯木のように細くなった両腕で俺の首に抱き着いた。
「すまなかった。行こう。ここでは充分な治療が出来ない」
「うん……」
見ろ。簡単な事だ。あらゆる困難も決して諦めず、力と知恵を尽くせば大抵の場合は乗り越えられる。だから……
「マリエール、笑ってくれ……」
「……」
マリエールは、僅かに微笑んだ。これで充分だ。俺は確かな報酬を得た。
「飛ぶぞ」
マリエール・グランデは、集中治療の必要がある。俺の『部屋』なら、大抵の物は手に入る。必要な物は何でも創造できる。
俺は言った。
「手の届かぬ困難を前にして、それを言い訳にして簡単に諦める者に用はない」
今はただ、純然たる怒りが胸を灼く。
「よ、暗夜、私も行くよ……!」
「駄目だ」
俺は俺だ。一人でもこの道を行く。一人でこの道を踏み締める。誰も信用しない。
「エミーリア。お前には何も期待していない」
それだけ言い残し、俺はマリエールを抱き上げると同時に、『部屋』へ飛んだ。
◇◇
俺はマリエールと共に、『奇妙な部屋』に帰った。
先ずはベッドを創造し、そこにマリエールの身体を横たえる。
「アスクラピアの二本の手。一つは癒し、一つは奪う。
彼の者は一である。永遠に唯一の者。
彼の者は全。全にして永遠にただ一つなり」
誰にも邪魔はさせない。母に切り与えられたこの『部屋』に於いて、使徒の力は神に匹敵する。即ち……
今の俺に不可能はない。
「過去は常駐にあり、未来は予め生き、瞬間は永遠となる。命の流れは水にも似たる。空より出でて、空へと還る。永久に変わりて止まず」
使徒詠唱。
マリエールの時間を巻き戻す。俺は負けない。負ける訳には行かない。そんな俺に……誰も、迷う権利を許さない。
「生きよ、望め、咲け、愛せ。そして喜べ。新しい芽を出せ。生を恐れるな!」
しみったれた女! 敬愛する母よ! 俺を持って行け!
「葬られよ。新しく席を譲れ。身を投げ出して、死を恐れるな!」
俺は十七使徒『暗夜』。
祈りに応え、母が降臨する。
俺は『アスクラピアの子』。
失いつつも俺は進む。迷う事も許されず、力の限り、ひたすら前へ。その姿はやがて親たる母に似て……
「地上の者は死すべき定めに創られている。母は優しく暖かく我らを抱くと同時に、揺りかごと墓場を与える。母は我らに平和を与えない。試練と時が幼子を大人にし、我らの戦いと良心とを呼び覚ます」
俺が一心不乱に祈る姿を、母は優しく微笑んで見つめている。
大丈夫。悲しい事は起こらない。
斯くして母は奪い、与えたまう。
◇◇
エルフの女が、激しく嗚咽を漏らして泣きじゃくっている。
俺がなんと言って慰めようと、どんなに優しくしようと、彼女は泣く事をやめない。まるでそれが己の義務とでも言わんばかりに泣き続ける。
エルフの女の衣服には胸の部分に『Marielle Grande』と書いてある。このエルフの女の名前だ。そう名乗ったので、胸にそう書いた。
「もう大丈夫だ。何故泣く。お前の完全な治療には、まだ長い時間が掛かる。最後は腫瘍を摘出する必要があるからな」
俺が何を言っても、エルフの女は泣くのを止めない。
そして、リンドウの花の刺繍がある古い修道服の少女も泣くのを止めない。
「えっと……エミーリアだったか? お前も何故泣くんだ。二人とも、いい加減に泣くのをやめてくれ」
エミーリアもマリエールも泣くのをやめない。
「……ねえ、暗夜……何をどれだけ捧げたの……どれだけの物を失えばそうなるの……!」
「暗夜? 俺の名前は、暗夜というのか?」
そう答えると、二人はいっそう激しく泣き崩れた。
「参ったな……俺は……涙が嫌いなんだ。だから、二人とも……」
……笑っておくれ……
◇◇
太陽が世界のこの上なく美しい半ばとして与えられたように、その半身として与えられた夜もまた美しい半ば。それも、この上なく美しい世界の半ば。
《アスクラピア》の言葉より
◇◇