6 笑っておくれ1
俺は、目の前の筋肉ダルマに言った。
「俺は暗夜。切れぬ縁により参上した。ここに治療を放棄した悪い患者がいるな? 死なんうちに、そいつはもらって行くぞ」
「あぁん? 野良神官に……野良修道女? 呼んでねぇな。ぶっ殺されない内に消えな!!」
「なんだと?」
ここから先の事は、少し記憶が曖昧な部分がある。エミーリアが片っ端から俺の言葉をメモしていたのは覚えている。
俺は激しい怒りに震えた。
「あぁ、アレックス。アレックス……! お前は何も変わらないな……!」
俺は鬼人が嫌いだ。何事も腕力頼みで、やること成すこと全てがいい加減。
「アレックス! お前は、お仕置きだ!!」
その俺の言葉に、アレックスはぎょっとして目を剥いた。
「ちょっ、待っ……嘘だろ!? ディートか!?」
「黙れ、飲んだくれが。お前ともあろう者が情けない」
指を鳴らすと、オリュンポスの玄関ホールに無数の戦乙女が出現した。
「他者に殺す等と言う時は……!」
激しい怒りに溢れ出した神力が黒髪を巻き上げる。髪の中に銀の星が舞う。
この怒りには覚えがある。
そうだ。人に殺す等という冗談を言う時は、本気で殺すつもりで言うものだ。そうでなければ意味がない。
例えば、こんな風に。
「アレックス……お前を殺す……!」
背後のエミーリアが、手を打って興奮した。
「凄い! 暗夜、それが貴方の個性なんだ! まるで死神だよ!!」
そして、目の前のアレックスだが、酔いが吹き飛んだのか、悲鳴を上げて一目散に逃げ出した。
「うわあぁあぁあ!! わ、悪かった! あたしが悪かった! 頼むから許してくれ!!」
「追え! 戦乙女! あの筋肉ダルマを引き摺って連れて来い!」
玄関には、広いエントランスを埋め尽くす程の無数の戦乙女がいる。階段を上がって逃げようとした筋肉ダルマだったが、あっという間に捕まった。
「ディート! あたしが悪かった! 頼むから勘弁してくれ!!」
「ああ? 何の話だ? 黙っていろ。お前は今から死ぬんだ」
必死で抵抗するアレックスだが、腑抜けた事に帯剣していない。
「アレックス、ナメるなよ。何故、剣を持っていない……!」
「あっ、あ、あたしは引退したんだ! あんたも知ってるだろう!」
「知らん! もういい! 話すのも面倒だ! 死ね!!」
と、そこでこの馬鹿騒ぎに反応したハーフエルフの女が吹き抜けになっている二階の廊下から顔を出した。
アレックスが悲鳴を上げた。
「アネット、助けてくれ! ディートだ! ディートが帰って来た!!」
「うん……アネット?」
そのアレックスの目線を追うと、階段の上から目を剥いて俺を見つめるハーフエルフと目が合った。
「誰、あんた……?」
「お前こそ誰だ」
答えながら、俺は嗤ってアレックスの顔を鷲掴みにした。
「うわあぁあぁあ!!」
「やかましいぞ、アレクサンドラ・ギルブレス。遊びは終わりだ」
俺は、両手で筋肉ダルマの顔を掴んで吊り上げた。
「並木道の間を、おどおどとした風が吹く」
使徒による呪詛詠唱。祝詞を破棄するのは容易いが、この馬鹿は死んでも治らん馬鹿だ。だが、恐怖は即効性があり、獣にも効果的だ。
「お前の後ろの空は赤い」
始まった呪詛の祝詞に、アレックスは恐怖の悲鳴を上げた。
「ひいぃいぃい!!」
「町を振り返って見ると、街路は酷く陰気で湿っている」
エミーリアが感心したように言った。
「う~ん……使徒詠唱とは、ただの鬼人なのに念入りだねえ」
俺は嗤って祝詞を紡ぐ。
「さながら古い歌のようだが、その調べを聞いても誰も笑わない」
まぁ、はったりだ。この呪詛には強い沈黙効果がある。尤も……呪詛抵抗の低い鬼人には効き過ぎて呼吸まで停まってしまうかもしれないが。
「言った筈だぞ、アレックス。人に殺す等という冗談を言う時は、本気で言うものだと……!」
「そ、そんなの、聞いた事もねえよ! 勘弁してくれ!!」
アレックスが再び悲鳴を上げたのと同時に、頭上から雨あられになって投げ刀子が降り注いだ。
「そこまでよ! やめなさいッ!」
やったのは、アネットと呼ばれたハーフエルフの女だ。
……おいおい、幾ら呪詛を中断させる為とはいえ、お前の仲間も居るんだが……
俺は神力を纏った右手で、空間を薙ぎ払った。
「ぬるい!」
神力の筋が青白い軌跡を描き、その軌跡の中で投げ刀子が静止した。そして――
「返れ!」
もう一度右手を振ると、空中で停止した無数の投げ刀子が反転して、猛スピードでアネットに跳ね返る。
「きゃあッ!」
悲鳴を上げつつも、咄嗟の判断で通路の陰に隠れたアネットの居た場所の壁に刀子が突き立った。
俺は怒りに任せて叫んだ。
「やってくれたな! この小便垂れが!!」
エミーリアは、この顛末を抱腹絶倒の勢いで笑っている。笑いながらメモを取っている。
「逃がすか!」
俺はアレックスの襟首を引っ掴んだまま、階段を駆け上がった。
ついでに、あの手癖の悪いハーフエルフの女……アネットも締め上げてやるつもりだったのだが……
そのアネットだが、何故か通路を曲がった先で逃げる事もせず、俺が来るのを待っていた。
「……っ!」
仰天した俺とアネットは曲がり角で鉢合わせになり、互いに見つめ合う格好になった。
アネットは、ぽかんとした表情で俺を見つめている。
「ねえ、今、なんて言った?」
俺はムッとした。
「こっちは手加減してやっているのに、いきなり刀子を投げ付けられたんだぞ。当たったらどうするつもりだ。このクソ女……!」
アネットは吹き出した。
「もう一度」
俺は容赦なく叫んだ。
「アネット・バロアはクソ女だ!!」
その瞬間、アネットは満面の笑みで親指を突き立てた。
「そう! 私はクソ女よ!!」
「あ、ああ……?」
そのアネットの言葉に、俺は何故か毒気を抜かれ……溜め息を吐き出すのと同時に、手に持ったままだった筋肉ダルマを投げ出した。
「……マリエールは?」
「こっちよ……」
我ながら、よく分からない展開だった。アネットは目に滲んだ涙を指で拭っているし、筋肉ダルマは顔に付いた俺の手形を気にしている。
「ディート、顔に痣が出来ちまったよ。治してくれ」
「……」
俺は指を鳴らして術を使い、痣を治すのと同時に酒も抜いてやった。
「最初から、ディートだって言えばいいだろ。分かってたら、こっちだってあんな危ねえ事は言わねえよ」
「……誰の話をしている。俺は『暗夜』。そのディートとかいうヤツは……知ら、ん……」
頭が酷く痛んだ。
俺は十七使徒『暗夜』。その筈だ。それ以外の何者でもない。
酒が抜けたアレックスが唇を尖らせた。
「ああ、知ってるよ。暗夜だろ。教会騎士がそう言ってたからな……」
「教会騎士? ギュスターブか?」
「ギュスターブ? 誰だ、そいつ。あたしが言ってるのは、青狼族の教会騎士だよ」
俺は『使徒』だ。人間じゃない。そんなものは既に超越した。その俺が酷い頭痛を感じている。
「……すまない。意味が、分からない……」
「蛇に……喰われたか……」
それきり、口を閉ざしたアレックスに代わって口を開いたのはアネットだ。
「……ありがとうね。マリエールの最期に来てくれて……」
「最期だと……?」
頬を伝う涙を拭う事もせず、アネットは悲しげに頷いた。
「自分一人が賢いって偉ぶってるヤなヤツだったけど、こうなると悲しいものなのね……」
俺は笑った。
「は! 最期なものか。俺を誰だと思っている!」
そうだとも。俺は少し遅れただけだ。今の俺の力は、人のそれを遥かに凌駕している。
アネットは、静かに首を振った。
「……確かにそうね。あんたは、以前よりずっと凄い神官になった。その力は人を超えてる。でも、どうにもならない事もある。あんたは『神』じゃない……」
アネットが、とある一室の扉を開く。その瞬間は、視界が白く染まって見えたように感じた。
大丈夫だ。悲しい事は何も起こらない。何も出来なかったあの時とは違う。今の俺ならやれる。
そこで俺が見たものは……
◇◇
心を甦らせる泉は己の胸中から湧いて来ねば、心を甦らせる事は出来ない。
《アスクラピア》の言葉より
◇◇