3 遭遇1
突然の侵入者を目前に、俺は短く息を吐き、腰の後ろで手を組んで胸を張る。
厳しく言った。
「お前は誰だ」
「……」
女は……瞬き一つせず俺を見つめている。
何年も着古したような襤褸を纏った女だった。酷く窶れているが、身体に纏う『闘気』は研ぎ澄まされていて、只者のそれではない。
「怪しい女。もう一度問う。お前は誰だ」
女は、俺に会えた事が嬉しくて嬉しくて堪らないといった様子で、にこやかに答えた。
「誰って、貴方のロビンです。レネ・ロビン・シュナイダー。貴方の可愛いコマドリですよ」
「ふざけるな。お前を呼んだ覚えはない。どうやって入った」
「さあ?」
俺は厳しく『ロビン』と名乗った物狂いの女を睨み付けるが、当のロビンは、きょとんとして俺を見つめ返すだけだ。
「…………」
ぎぎ、とロビンの視線が滑り、俺の背後に立つエミーリアを見た。
エミーリア……『聖エミーリア』はいつの間にか魔法銀の装備で身を固めていた。
頭全体を覆う兜に胸当て。スカートのようなコイル。グリーブ。ブーツ。左手に大盾を持ち、右手には連接棍を構えている。全ての装備がミスリルで統一されており、神力を通した全身がうっすらと青く輝いている。明らかな臨戦態勢。
ロビンは首を傾げた。
「ディ~トさん。彼女は、だ~れですかあ~?」
「……何の話をしている。この物狂いめ……」
そう言った時、ロビンの表情が酷く悲しそうに歪んだ。
「……ディートさん……記憶が、ないんですか……?」
「お前には関係ない」
「……」
そこで、ロビンは静かに項垂れた。
「……そうですね。全て私の過ちから生じた事です。全て私が悪いんです……」
「…………」
なんだ、このおかしな女は。狂っているように見えたが、今はまともそうに見える。
しかし……どうやって俺の『部屋』に入った。何を考えている。何をしに来た。その不気味に背筋が粟立つ。敵意はないように見えるが、手にした剣を離さない。
エミーリアが言った。
「暗夜、油断しない。これが狼人だよ。何でも最後は力ずくで押し通す。狂ってても、強い……!」
「分かっている」
俺は短く答え、胸の前で手を組んで身を低くする。臨戦態勢。
だが、そこで……
ロビンは、へなへなと座り込み、しくしくと泣き出した。
「……ごめんなさい。ごめんなさい、ディートさん。貴方に酷い事を言いました。全て取り消します。忘れて下さい。この通りです……」
ロビンは地べたに額を擦り付けて必死になって謝るが、手にした剣を離さない。謝罪する一方で戦意を残している。矛盾。それがどうにも気に障る。
「なんなんだ、お前は……!」
俺は激しく舌打ちした。
このロビンに、敵意があるのかどうかすら分からない。そもそも、こいつの言う「ディート」とは誰だ。
「……俺の名は暗夜だ。お前は人違いしている……」
そこで、ロビンはパッと顔を上げた。
「はぁい! 貴方は暗夜でえ、ディートさんでえ、ディートさんは暗夜でぇす!」
「この物狂いが……!」
こんなヤツを真面目に相手していられるか。それが俺の心境だった。殺す程の価値もない。
俺は指を鳴らした。
「出て行け。ここは俺の部屋だ」
「あっ……!」
ロビンは小さく悲鳴を上げ、次の瞬間には闇の中に消え去った。下界に戻した。母に与えられた『部屋』に於いて、『権限』を行使できる使徒の力は大きい。
ロビンが消え去り……
俺は酷く痛む頭を掻き毟るように額に手を当てた。
「なんなんだ、あいつは……。何故、俺の名を知っている。そもそも、本当に人間か……?」
「……」
エミーリアは武装を解き、暫く難しい表情で考え込んでいたが、ややあって口を開いた。
「……一部の獣人は超能力を使うんだよ。ここに紛れ込んだのはイレギュラーだと思うけど……」
「超能力……イレギュラー? 異例の事態という事か……?」
訳が分からない。だが、俺の名を知っている以上、あの物狂いも俺が生前残した縁の一つなのだ。
頭が酷く痛んだ。
必死で残された記憶を探るが、あの物狂いに関しては何も思い出せない。だが、何故か強い喪失感がある。俺は……
「何故だ……どうして、あんな事に……」
「あんな事……?」
酷い頭痛に顔をしかめる俺を、エミーリアが観察するように見つめている。
「気分が悪い……なんだ、この気持ちは……」
エミーリアは首を振った。
「蛇に喰われてるね。その記憶は戻らない。考えるのは止めた方がいい」
「……分かった」
俺はエミーリアの言葉に従って、あの物狂いの女……ロビンに関する思考を放棄した。二度と戻らない記憶の一つの中に、あの女の事が含まれる。それだけだ。それだけの筈だ……
俺は……十七使徒『暗夜』。もう人間じゃない。過去の柵は、全て下界に捨てて来た。
俺が失ったものは……
俺が思うより、ずっと大きいものかもしれない。
◇◇
エミーリアは、難しい表情で言った。
「生前の貴方は、いったい何をしたんだろうね」
「知らん。母に聞け」
人間だった頃の記憶が全てないとは言わない。俺は言葉を理解しているし、ピアノだって弾ける。稀人として異世界……本来の俺の世界だが……そこで学んだ知識も若干だが覚えている。当然だが、高位神官としての『術』も使える。
「でも、母に『使徒』として選ばれたという事は、この世界にそれだけの影響を与えた。貢献したという事だよ。偉大な行いをしたんだ」
「知らん。覚えてない」
そこで、エミーリアは胡散臭そうに俺を見た。
「記憶になくても、貴方は偉大な神官だった。そして、狼人の女に執着されるような事をしている。ひょっとして……」
「ひょっとして、なんだ……?」
頭が酷く痛んだ。俺は『何か』を強く欲している。口が寂しい。『あれ』が必要だ。それが何だか思い出せそうで、思い出せない。
エミーリアは、改めて言った。
「暗夜、貴方は……とんでもないすけこましなのでは……」
俺は、呆れて大きな溜め息を吐き出した。
「エミーリア、俺たちは使徒だ。品のない言葉を使うのはよせ。そもそも、俺は実務的な子供だった」
無意識に出た俺の言葉に、エミーリアは面白そうに笑った。
「へぇ……実務的な『子供』か。一つ思い出したね。メモメモ……暗夜曰く、『俺は実務的な子供だった』」
「エミーリア……そういう所だぞ……」
第一使徒聖エミーリアが他の使徒から煙たがられる理由は幾つかあるが、その原因の一つがこれだ。好奇心旺盛で、ずけずけと他者の内面に踏み込む。それは単純に無礼だ。著しく礼を失している。
「そういう所って、なに?」
「……」
首を振って、俺は短く息を吐く。千年経っても直らない癖が、言葉一つでどうにかなるとは思えない。
「まぁいい。好きにしろ。だが、程度は弁えろ。俺は……」
やられると、やり返したくなるタイプだ。お調子者には目に物見せてやりたくなる。そして、そういう事は突然やるから面白い。
「では、行くか。仲間を求めて」
「そうだね。貴方の縁も気になるし、行こうか。仲間を求めて」
ただ……
俺には一つ気掛かりな事がある。仲間を探すのもいい。当為を果たすのもいいだろう。だが、それらは全て母の思惑と利益に繋がるものだ。俺たち『使徒』には益がない。
その辺り、母はどう思っているのだろう。俺たちが対価を求めずにいると思っているのだろうか。
それは『公正』ではない。五つの戒めの一つに反する。母にも、きっちり対価を支払ってもらわねば困る。面白くない。
「それで、暗夜。とりあえず、何処へ?」
風の吹くまま、気の向くままに。俺は十七使徒『暗夜』。行く手を阻むものは何もない。
「……砂の国ザールランド……」
「はいはい、ザールランドね。エルナの故郷だね。エルナがいる」
「そうなのか? では、会わないように気を付けるとしよう」
また罵られては堪らないし、ギュスターブの件では恨みを買った。聖エルナには気を付けるとしよう。
そして……白蛇が押し付けたこの嫌味な女も、どうにかして撒く事にしよう。
俺は一人を楽しみたい。
「それでは、飛ぶぞ」
正確には、この奇妙な部屋を通じて下界を移動する。『部屋』に居る限り、『権限』がある使徒の力は人間を遥かに超えている。そこから導き出された俺の結論は……
……考えるのはやめだ。
『降臨』の機会は滅多にない。今は楽しもう。
「さて、お次は何が飛び出すやら……」
楽しくなって、俺は嗤った。