2 聖エミーリア
俺が出したソファに腰掛け、聖エミーリアは静かに語った。
「……実のところ、今のサクソンには私も近付きたくないんですよ……」
――『エミーリア騎士団』。
アスクラピアの本神殿があるニーダーサクソンの騎士団だ。国は勿論、寺院の元締めである本神殿や教皇との繋がりも深い。
エミーリアは、少し考え込むように眉間に皺を寄せている。
「……エミーリア騎士団の元の始まりは、国家には属さないただの修道会でした。『騎士団』を名乗るようになったのは、主な活動が戦場での治癒奉仕にあった為です。勿論、騎士団を名乗る以上、流血は避けられません。北にはアルフリード帝国もありますし、実際には戦う事もありました。しかし、私の死後、サクソンに教皇を頂く本神殿が出来てからというもの、エミーリア騎士団の在り方は変わりました……」
「ふむ……時の流れは残酷だな……」
聖エミーリアが没して、既に千年以上の時が経過している。今の『エミーリア騎士団』は、エミーリアの知っているものとは違うようだ。
「今のエミーリア騎士団の団長……元帥らしいですが、狼人です。優生主義、選民思想の狼人が団長なんて……あり得ない……」
エミーリアは深い溜め息を吐き、険しい表情で首を振った。
「そう思うと、白蛇が嫌がるのも分からない訳ではないです。今のエミーリア騎士団は、国家権力との繋がりが強すぎます。今の私が戻った所で、何かの影響を与えられるとは思えません」
「それは道理だな。だが、寺院の元締めである本神殿や教皇を調べん訳にはいかんだろう……」
「勿論、そうです」
そこで聖エミーリアは白蛇に声を掛けたが、それは敢えなく袖にされてしまった。
「……仲間がいるな。それも優秀なヤツだ。難儀な事だ……」
俺たち『使徒』は強力だが、それはあくまで個としての力に過ぎない。そしてこの問題は『個』で扱う問題ではない。
エミーリアは険しい表情で頷いた。
「……私の没後、千年以上の時間が経過しています。今の私には、何の影響力もありません……」
現状、『エミーリア騎士団』はその名を残すのみ。そもそも、エミーリアが出て行った所で、『聖エミーリア』本人とは思われないだろう。エミーリアの見解と認識は正しい。
「……ゆっくり行こう、聖エミーリア。とりあえず、何か聞くか……?」
「エミーリアでいいですよ。ざっくばらんに行きましょう。私も暗夜と呼びます」
そこから暫く、俺は気儘にピアノを弾き鳴らした。選曲はショパンの『革命のエチュード』だ。
「……いい曲だね。すごくいい。でも、不安な気持ちになるね……」
自ら、ざっくばらんに行こうと言ったエミーリアの言葉は、とても砕けたものになった。
「……嫌な予感がするんだよ……」
十七名の使徒。未だ場所の割れない『人工勇者』と『人工聖女』。そして……
エミーリアは言った。
「暗夜、貴方はアルフリードをどう思う?」
俺は弾き手を止めずに考える。
――『アルフリード帝国』。
軍神アルフリードを始祖に頂くとされる軍事国家。嘘か本当か知らないが、アルフリードの皇族は軍神の血を引くのだという。
「……白蛇もそうだけど……アウグストやギュスターブ、ローランドも無関係じゃない……」
勇者アウグスト。聖騎士ギュスターブ。剣聖ローランド。彼らは戦う者だ。『戦士』である以上、『軍神』とは無関係で居られない。神と神の関係も、人間と同じ……或いはそれ以上に複雑だ。
「軍神アルフリードも動くと?」
「私には、そうならない方が、どうかしてると思う」
「ふむ……だが、我らと敵対する理由はないように思う」
「理屈の上では、そうだけどね……」
『勇者』はあらゆる武技スキルを使い、『聖剣』を所持する人間側の『対魔王』の最終兵器。しかし……その力は『神』に対抗するものにもなりうる。『魔王』、或いはそれに匹敵する邪悪が存在しない現状、『人工勇者』の存在は……
「……不逞を企むか。それも人の業かもしれんな……」
エミーリアは頷いた。
「私もそう思う」
――『神殺し』。
不敬だが……実に興味深い。人工勇者を作り出した者……集団かもしれないが……その目的が『神殺し』にあるなら、母が使徒を動員した理由にも納得行く。エミーリアの不安にも説明がつく。
「それは……正に革命だな……」
人類による神殺しが目的なら、或いは、それは人類の夜明けとも呼べる。
「……さてさて……敵は善なる者か。悪なる者か……」
興味深い。実に興味深い。人は『神』を超え得るか。
革命のエチュードは続く。
エミーリアが目尻を下げ、不安そうに言った。
「暗夜……貴方の考えは……」
俺の敵は俺が決める。母は偉大で尊敬に値するが、俺の当為は俺のものだ。
「まずは、この目で見定める。話はそれからだ」
「……そう、だね……」
そこでエミーリアは大きく伸びをして、だらしなく両足を投げ出した。
「暗夜、貴方に話して、少しすっきりしたよ。それとさ、明るい曲を弾いてくれない?」
「分かった」
そこから暫くは、またピアノを弾き鳴らし、その後は、二人でゆっくりと紅茶を楽しんだ。
話は自然な形でこれからの事に言及する。
「……それで、暗夜。貴方は仲間が必要だって言ったけど、宛はあるの……?」
「あるにはある。『成り立て』だからかもしれんが、未だに切れん縁が幾つかある。とりあえずそれを辿ってみようと思う」
俺は死んだ。だが、死んで日が浅いせいか、未だに俺を待ち望む者との間に切れぬ縁の存在を感じる。
エミーリアは思う所があるようで、酷く難しい顔をしている。
「……下界の者の力を借りる……気が進まないね……」
「やむを得まい。とにかく会ってみて決めよう。力が足らんようなら……その時は、まぁ……それきりという事になるな」
「そうだね……」
俺たち『使徒』の身体は、母が造り出したものだ。当然だが普通の『肉体』ではない。完全なる星辰体だ。人より精霊に近い。その俺たち使徒に付き従う者には、高い次元の強さを要求する事になる。
そう考える俺に、エミーリアは唐突に言った。
「時に、暗夜。貴方は稀人だよね。人間として過ごした記憶は、どの程度残ってるの?」
「殆ど覚えていないな」
俺が稀人である事は知っている。だが、それは思い出した記憶ではない。他の使徒から聞いた事だ。時折、降って湧いたように思い出す事柄もあるが、特別、俺の心に訴えるものはない。
「だが……白蛇と会った時は、不思議な感じがしたな……」
エミーリアは、エメラルドグリーンの瞳で鋭く俺の瞳を覗き込む。
「しみったれてるけど、母は強欲な悪魔じゃない。貴方の自我を保つ為に、必ず何かの記憶を残した筈だよ」
俺は、そのしみったれた母に選ばれた十七人目の使徒だ。それ以上でも以下でもない。
「どうでもいいな。アスクラピアの蛇は悪食だ。何でも喰らう。食い残したものは、余程、不味い代物だろう」
思い返す事が出来るのは、辛く悲しい記憶だけという事だ。暖かいものは残らない。母に代償を払うという事はそういう事だ。
或いは……ただの気紛れによる食い残しか。そんな記憶はなくとも問題ない。寧ろ失われたままでいた方が幸せかもしれない。
エミーリアは目尻を下げ、酷く悲しそうに言った。
「暗夜、貴方もかつては人間だった。『愛』というものを知っていた筈だよ」
「ふむ……愛か。慈しみや思いやりの心の事か?」
俺の答えはお気に召さなかったようだ。エミーリアは眉間に深い皺を寄せた。
「全然、違う。愛って、もっと激しくて我儘な感情だよ」
「知らんな。俺たち『使徒』には必要ない」
「……」
エミーリアは短く聖印を切り、溜め息を吐き出した。その顔には「言っても無駄」と書いてあるような気がした。
俺は鼻を鳴らした。
エミーリアの言う『愛』とやらが俺に残っているのなら、それは自然と俺に帰るだろう。
その時の事だ。
「……む」
「ウソっ!」
俺とエミーリアは驚き、お互いを見合わせた。
「エミーリア、気付いているな? 侵入者だ……!」
あり得ん事だ。使徒の『部屋』は、母に与えられたものだ。神の空間と呼んでもいい。母を除き、使徒以外で出入りできる者は限られる。
俺の存在により安定しているが、ここもまた奇妙な部屋だ。
突然の侵入者に、エミーリアは動揺して視線を激しく泳がせた。
「こっちに来る……来る来る来る……来た!」
エミーリアが『部屋』の一隅を指差し、俺もまた動揺して視線をそちらに向ける。
「……つっ!」
そこには……錆びた剣を引っ下げた、みすぼらしい格好の女が立っていた。
「下界の者、か……?」
女は酷く痩せこけていて、ぼさぼさの伸び放題の髪の間から、コバルトブルーの瞳が辺りを探るように、ぎょろぎょろと忙しなく動いている。
女の虚ろにさ迷う視線が俺を捕まえた。と、同時に笑みの形に歪んだ口元から、だらりと涎が垂れ下がる。言った。
「ディ~トさん、みぃ~つけたっ!」
これが、使徒である俺とレネ・ロビン・シュナイダーとの初めての出会いだ。