0 使徒『暗夜』
――俺は、死んだ。
世界が変わり、場所が変わっても、命の営みには何ら変わる所がない。
――人は死ぬ。
それでいい。それがいい。人は死ねば土に還り……世界に還って行く。
幾つもの重大な罪を犯した俺は、何もない空間、何時でもない時間、何処でもない場所で、ただピアノを弾いていた。
母が好きなのはショパンの幻想即興曲だ。俺がこれを弾いている時は必ず曲の終わりまで待っている。
ところで……俺は、誰だ? 何故、ここに居る?
よく分からない。考えるのも億劫だ。続けて交響曲第九番。ドヴォルザーク。新世界より。
ピアノはいい。こうしている間は全てを忘れられる。
だから――何年もそうしていた。
異世界の楽曲は珍しいそうで、時折、『別の部屋』から客がやって来て、俺のピアノを聞いて行く。
「……素晴らしい。なんという曲だ?」
曲の終わりに声を掛けて来たのは聖ギュスターブ。元教会騎士。今は母に『使徒』の称号を授けられ、『聖騎士』と呼ばれている。
「ヴィヴァルディの『四季』《冬》だ」
「そうか。また聞きに来てもいいか?」
「幾らでも。特別な事がない限り、こうしている」
「ありがたい」
ギュスターブは一年ぐらい俺のピアノを聞いていたが、ある日、唐突に去った。
続いて現れたのは聖エミーリア。古の時代の修道女。
「……さっきの曲は?」
「レクイエム《怒りの日》」
「……貴方のお名前は?」
「分からない。興味もない。何も覚えていないんだ。母から声が掛かるまで、こうしていたいと思っている」
「そうですか……」
聖エミーリアは、悲しそうに言った。
「……貴方は、罪を犯したのですね……」
「そうだ」
最早、己の犯した罪の記憶すらないが……それもまた、どうでもいい。
「母は……しみったれていて容赦ありませんが、貴方の犯した罪が愛ゆえに犯したものであるならば、いずれ赦される日が来るでしょう」
「どうでもいい。今、幸せなんだ。放っておいてくれないか?」
この時が永遠に続けばいい。それが俺の偽らざる心境だ。いつまでもピアノを弾いていたい。何事にも思い煩う事なくいたい。
「白蛇の名に覚えは?」
その問いには無意識にこう答えた。
「俺もヤツも馴れ合いは好かん。とうの昔に別れは済ませた。もう会う事はないだろう…………待て」
『白蛇』という名には、何処かしら聞き覚えがある。これまでに、様々な『使徒』と会ったが、聞き覚えのある名は初めてだ。
だが、それすらも……
無関心という波に浚われて消えて行く。
「どうでもいいな。放っておいてくれ」
「……また、貴方のピアノを聞きに来ても?」
「いつでもこうしている。好きな時に来てくれて構わない。でも……なるべく話し掛けないでくれ。考え事をしてるんだ」
「……何も考えてないように見えますが……」
俺の事は、俺だけが知っていればいい。答える必要を感じない。
聖エミーリアは激しい楽曲を好んだ。戦う事が好きなのだろう。レクイエム《怒りの日》はギュスターブも好きだった。
ピアノを弾く俺は、使徒の間で概ねの好意を得ていたが、時に俺を憎む者もいる。
「耳障りです。やめなさい」
聖エルナ。大昔の『聖女』。何故か分からないが、俺の事を毛嫌いしている。
「失せろ」
ここは俺の『部屋』だ。気に入らないヤツは追い払ってしまえる。指を鳴らすと、聖エルナは虚空の闇に消え去った。座標は設定しなかったから、何処に飛んだか分からない。
だが、聖エルナはまたやって来て、再び俺を口汚く罵った。
「この人殺し。私は、お前がした事を知っていますよ」
「そうか」
どうやら、生きていた時の俺は大勢の人間を殺したようだ。それもまたどうでもいい。
「喧嘩したいなら、他を当たれ。俺はそんなに暇じゃないんだ」
「ちょ、待っ――」
俺は、また指を鳴らして聖エルナを追い払う。今度はなるべく遠くに飛ばしてやった。
しかし、聖エルナは大した間も置かず帰って来た。そして、また俺を罵る。流石、第三使徒、聖女『エルナ』と言うべきか。
「残虐非道の冷血漢。母が、何故、お前のような男を使徒に選んだのか、その気が知れません」
「消えろ。母に対する批判は、面と向かって母にしろ。器が知れるぞ、聖エルナ」
俺は、どうやら自由なようだ。再び指を鳴らして、聖エルナをなるべく遠くに追い払う。今度は力の限り、なるべく遠くに飛ばしてやった。
俺は……馬鹿と騒がしいのは好かん。
続いて現れたのは聖アウグスト。第二使徒。『枢機卿』とも呼ばれている身なりのいい男だ。
「やあ、暗夜。また聞きに来た」
「……」
名前を呼ばれたのは、これが初めての事だ。どうやら……俺の名は『暗夜』というようだ。
アウグストは物静かで鷹揚な男だ。大罪人の俺に対して、好意的な使徒の一人でもある。
「また、エルナを飛ばしたんだって?」
「あの女は五月蝿い。呼びもせんのにやって来て、俺を口汚く罵る。そんなヤツに示す好意は持ち合わせがない」
アウグストは腹を抱えて笑った。
「エルナは潔癖性だからね。そして執念深い。君の犯した過ちの中に、彼女の怒りを買うものがあったんだろう」
「どうでもいい。それより、枢機卿。久し振りだ。何かリクエストはあるか?」
アウグストは笑みを深くして、軽く唇を舐めた。
「では……アリアを……」
「ふむ……『G線上のアリア』か。いいだろう。聞いて行け」
この男は気紛れで、いつも唐突にやって来て俺のピアノを聞いていく。ギュスターブのように長く聞き浸る事はないが、度々やって来て、アリアを聞いて去って行く。
やはり俺のピアノを気に入ってくれている聖ローランド……『伯爵』と呼ばれる男に、こう尋ねられた事がある。
「何故、弾き続けるのかね。最初は同じ曲ばかり弾いていたように思うが……今は数えきれない程の曲を弾いているね。何か関係が?」
「伯爵……無心だよ。それ以外にない」
もう五年。既に五年間の月日が経過した。俺は、ひたすらこうする事で、失くした記憶と人間性をかき集めている。
いずれ訪れる運命に備えている。
それだけだ。
◇◇
そして、また聖エルナがやって来た。前は力の限り遠くに飛ばしてやったから、今回は帰って来るのに暫く掛かった。
俺は変わらない。いつものようにピアノを弾いている。
だが、聖エルナの方は違うようだ。怒りに満ちた表情で俺を睨み付けながら、それでも辛抱強く俺のピアノを聞いている。こんな事は初めてだ。
俺は弾き手を止め、右手を掲げる。次は何処に飛ばしてやろうか。
「待ちなさい。今の曲は?」
「リスト。『愛の夢』第三番」
「……続けなさい」
「お断りだ、聖エルナ。俺の世界では、仏の顔も三度までという言葉があってな。俺の顔は二度までだ。三度もない。消えろ。二度と入って来るな」
「待っ――」
俺は指を鳴らして聖エルナを追い払う。今回は出禁に設定した。ヤツは二度と俺の『部屋』には入れない。
『使徒』には、母から、それぞれ『部屋』が与えられている。そこでは大抵の事を自由に出来る権利がある。俺は、他の使徒に対する自らの『部屋』への出入りを禁じてない数少ない使徒の一人だったが……
「おめでとう、聖エルナ。お前が第一号だ」
俺は、軽く鼻を鳴らして嘲笑った。
◇◇
――私は公正である事を約束しよう。ただし、不偏不党である事は約束しない――
《アスクラピア》の言葉より。
◇◇
そして、月日は流れる。俺はピアノを弾き続ける。六年目の運命の日、訪れた母の為に、母の好きなショパンの幻想即興曲を弾いていた。
『…………』
母は沈黙を守り、お気に入りの曲を聞いている。古ぼけた高御座に深く腰掛け、肘掛けに凭れ掛かるようにしていつもの憂鬱な表情。
何かを深く考え込んでいるようにも見える。
やがて曲が終わり……母は厳かに呟く。
『……死せよ、成れ。その一事を会得せざる限り、汝は暗き世界の悲しき住人に過ぎず……』
そうだ。
俺という存在は『死』という概念を超越し、次のステージに進んだ。
「…………」
恐れていた時が……時満ちる日がやって来た。
母は疲れたように呟いた。
『第十七使徒、暗夜』
「は、これに……」
俺はピアノを消して、その場に膝を折って頭を垂れる。
『……』
母は何も言わない。
だが……気が付くと、俺を含めた総勢十七名の使徒が母の部屋……奇妙な部屋に集結しており、俺と同じく、皆、膝を折って母の言葉を待っている。
母の戯れる指先が、儚い虚空にその名を描く。
「これはまた……」
虚空に刻まれたその名の数のあまりの多さに『枢機卿』が辟易して肩を竦めた。
「……」
やはりか、と俺は短く息を吐く。
次なる当為は――
母の手によって選ばれた総勢十七名の使徒による人工勇者殺しと二名の人工聖女殺し。及び、それを為した者の排除と抹消だ。
これは始まりに過ぎない。
斯くして――運命は回り始めた。