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アスクラピアの子  作者: ピジョン
閑話

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ディートハルト・ベッカー『暗夜』

 足元から世界が崩れ落ちて行く。視界の全てが虚無の闇に飲み込まれ――

 何もかもが定かではない世界。

 ディは、この場所を『奇妙な部屋(ストレンジ・ルーム)』と呼んでいた。神の御座みくらであるとも。


 虚無の闇に、黒い神官服リアサを纏う黒髪の男が一人立って居た。

 鷹のような鋭い目付きと眉間に寄った険しい皺。手を後ろに組んで居て、堂々と胸を張っている。

 男は言った。


「まずは……奇妙な部屋(ストレンジ・ルーム)にようこそ」


 半死半生の有り様で息を吐くあたしと、困惑する帝国の騎士たちに続ける。


「全員、動くな」


 黒髪の男は、静かに呟いただけだ。それだけで……あたしたちは動けない。その正体は『雷鳴』だ。


「……間に合ったか」


 男がパチンと指を鳴らすと、あたしとエヴァは目映い銀の光に包まれた。


「あっ……」


 凄まじい威力の回復神法。身体に突き立った矢が抜け落ち、瞬く間に出血が止まり傷が塞がる。

 優しさは時に身を焦がす猛毒。


「……暗夜ヨル?」


 男は寂しそうに微笑う。


「すまない。ルール違反なんだ。答える事はできない。全て察して欲しい」


 男には強い制限がある。でも、あたしの為に駆け付けた。恐ろしいルール違反を犯して駆け付けた。あたしは、あたしの為にそこまでやる高位神官は一人しか知らない。

 そして――

 男は神官服リアサの裾を翻し、帝国の騎士に向き直る。

 残酷に言った。


「帝国騎士の諸君、やってくれたな。諸君には、絶対的な死を約束しよう」


 『転移』に巻き込まれた帝国騎士の数は凡そ三十人……一個小隊という所だが……蛇に睨まれた蛙のように動けずに居る。


 黒髪の男……『暗夜』は低い声で言った。


「ほう……大物が一人紛れ込んでいるな。トビアス憲兵団長」


 一個小隊の帝国騎士は憲兵団の連中のようだ。あたしを狙ったのは、帝国の憲兵団。何でもありで、あたしの命を狙っていた。


 暗夜ヨルは嬉しそうに嗤った。


「これは重畳。誠に結構。俺もナメられたものだ。では地獄を見てもらおう」


 帝国騎士は動かない。微動だに動けない。呟いただけだ。文句なしの第一階梯。これだけ強力な『雷鳴』は第一階梯の神官にしか使えない。


 高位神官は須く言葉を慎むべき、だ。


 暗夜は強く指を鳴らした。

 帝国騎士は、ぎょっとして目を剥いた。あたしから見えるのは暗夜の広い背中だけだ。


 暗夜は、今、どんな顔をして帝国騎士を見つめているのだろう。


「刮目して見るがいい」


 そして、暗夜の口から身の毛もよだつ恐ろしい祝詞が紡がれる。


「死を見て掴もうとし、虚空を見て死が遠くで嘲りの口笛を吹く」


 背筋が粟立つ。あたしの惚れた男は、時に無茶苦茶容赦ない。


「お前は寝床に探り寄る。眠れるものなら眠ってしまうものを……」


 帝国騎士の何人かが、やめてくれと怯えたように首を振った。勿論、そんな事であたしの男は止まらない。


「眠りは怯えた鳥のようになって引き留めておくのは難しいが――殺すのは容易い」


 強烈な『呪詛』の気配を感じる。あたしに分かるのはそれだけだ。


「さよならだ。帝国の諸君」


 容赦なく、暗夜は最後の祝詞を紡ぐ。


「死の鳥が羽ばたき、鋭い嘲りの声で口笛を吹きつつ飛び去る」


 やがて虚無の闇から現れた無数のカラスが嘲りの声で鳴く。無数に現れたカラスが鋭い嘲りの笛を吹く。全ての命が飛び去って行く。


 闇を覆い尽くすカラスの群れが帝国騎士の命を奪って飛び去って行く。


 憲兵団団長、トビアス・バーナー一人を残して帝国騎士全員が息絶えた。


 トビアス・バーナーは厳格な風貌を持つ表情に大汗を浮かべて――怯えている。それでも動けない。悲鳴を発する事すら出来ず、暗夜に命乞いするように、或いは近寄るなというように何度も何度も首を振る。

 暗夜の肩が嗤いに揺れた。


「心配するな。お前の事は殺さない。だが……とっておきを見せてやろう」


 こういう時のディは、必要以上に残酷だ。死ぬより悲惨な事になる。あたしは、トビアス・バーナーを気の毒に思った。


 暗夜は無造作にトビアスに歩み寄り、やはり無造作に右手でトビアスの顔を掴んだ。


「人は何故なにゆえ生きるか」


 ――愛ゆえ。


「人は何故なにゆえ死ぬのか」


 ――愛なきゆえ。


「人は何によって自己に打ち勝つか」


 ――愛によって。


「人の涙を止めるのは何か」


 ――愛による。


「絶えず人を結び付けるのは何か」


 ――愛である。


 暗夜は祝詞の全てを紡がない。だけど、心の中に祝詞が響く。

 暗夜は言った。


「母の嘆きと怒りを知れ」


 トビアスの顔を掴んだままの暗夜の右手が目映いばかりに光輝く。あたしにも肉眼視可能な程の、恐ろしい神力の滾りだった。


「爺さんに伝えろ」


 暗夜は、嗤って残った左手でトビアスの顔を掴む。両手でトビアスの顔を掴み、吊り上げた。


 トビアス・バーナーは大男だが、その体格を無視した膂力。子供のものでもなければ人間のものでもない。


「また、間違えたな」


 その瞬間、トビアス・バーナーの額から焼きごてを押し付けられたような白い煙があがり、絶叫した。


 暗夜は悪魔のように嗤った。


 そして無造作に投げ捨てられたトビアスの額には、恐ろしいアスクラピアの『逆印』が刻まれた。


 ザールランド帝国憲兵団団長、トビアス・バーナーの額には、復讐と癒しの女神『アスクラピア』の逆印が刻まれた。


 これは……人間が振るっていい力を遥かに超えている。

 あたしは悟った。


 ディは……あたしのディは、死んだんだって。『暗夜』は人間をやめたんだって。


「消えろ。帰れ」


 暗夜は無慈悲に言って、神官服リアサの裾を翻す。


 苦悶の悲鳴を上げ、のたうち回るトビアス・バーナーは虚無の闇に消え去った。戻った。帰った。


 後に残るは静寂のみだ。


◇◇


 死せよ、成れ!

 その一事を会得せざる限り、汝は暗き世界の悲しき住人に過ぎず。


《アスクラピア》の言葉より。


◇◇


 あたしとディは、何もかも定かではない世界で見つめ合った。


 ディートハルト・ベッカー『暗夜』。


 人を超えた成れの果て。アスクラピアに召し上げられた男。


「アビー……」


 暗夜は寂しそうに微笑う。


「……つっ!」


 あたしは答えよう、駆け寄ろうとするけど、身動みじろぎ一つ出来ずに居る。強力な『雷鳴』があたしの自由を奪ったままだ。


 暗夜は、寂しそうに微笑って頷く。


「すまない。ルール違反なんだ」


「……!」


 おそらく……あたしを助けた事で、暗夜は酷い罰を受けるのだろう。


 弱いあたしは、ぽろぽろ泣いて涙を流すだけだ。


「大丈夫だ。エヴァも死んでない。仲良くやれ」


 酷い。あたしはこの男の大きな愛に何も応える事が出来ない。


「アビー……『勘』は、いずれ狂うものだ。その力は、お前の中から失われた。もう信じるな」


 最後の『お説教』だ。

 いつもあたしの身を案じていたこの男は、別れの言葉すら許さず消え去ろうとしている。


 あたしは寂しくて悲しくて情けなくて悔しくて、ただ涙を流すだけだ。


 暗夜は寂しそうに微笑っている。


「すまない。本当にすまない。俺の事は……忘れてくれ……」


「……つっ!!」


 暗夜は笑った。

 最後に見せた笑顔は寂しげなものでなく、何処までも優しい笑顔。あたしには、ぶん殴られるより痛い笑顔だった。


「……そろそろ時間だ。行かなくては……」


 暗夜は、ゆっくりと目を閉じ、胸の前で手を組んで静かに祈りを捧げた。


 潰れた筈の右目に妙な熱を感じる。強い加護の力を感じる。暗夜は、あたしに何かを残そうとしていた。


「……」


 暗夜は祈りを捧げている。


 その暗夜の背後に、巨大な青白い手が二本現れて、優しく覆うように暗夜の身体を包み込んだ。


「…………!!」


 駄目だ! 止めろ! それ以上、力を使うな!!


 あたしの言葉は届かない。

 暗夜は祈り続ける。最後に言った。


「願わくば……夜空に流れる銀の星が、新たな運命を指し示しますように……」


 そして、ゆっくりとアスクラピアの手が暗夜を拐って虚無の闇に消えて行く。


 その光景を最後に、あたしの視界は暗転して――


◇◇


「ビー!」


「……」


「ビー!!」


「聞こえてるよ。ガタガタ騒ぐんじゃない」


 気が付くと、あたしとエヴァはやしきの寝室に居た。

 暗夜が送ってくれたんだ。


「……」


 ふと鏡を見ると、琥珀色のあたしの目……右目がディと同じ『夜の目』に変わっていた。


「……夢じゃなかったんだねえ……」


 エヴァは、ひたすら困惑している。


「な、何が……あたしは、溜め息橋を越えた所で……」


 あたしは強く鼻を鳴らした。


「あんたは馬鹿だねえ。こんな不思議な事が出来るのは、一人しか居ないだろう」


「……つっ、あいつ……! あのクソ野郎! また……!」


 エヴァは憎まれ口を叩きながら、目元と鼻を真っ赤にして、必死で零れ落ちそうになる涙を堪えていた。


「……」


 あたしの心は動かない。あたしの心は暗夜ヨルのものだ。


 復讐と癒しの女神『アスクラピア』。


 あたしは嗤う。

 生き残ったって事は、あたしには『復讐』の権利があるって事だ。手始めに……


「役立たずは、いらないねえ……」


「ビー?」


 エヴァは意外そうにあたしを見るけど、こんな事は当然の事だ。


 ディを守る事が出来なかった教会騎士シュナイダーと、破門を言い渡された裏切者の修道女シスタたち。ヤツらは、もういらない。あたしのパルマには入らせない。


 ディはもう居ない。死んで暗夜ヨルになった。アスクラピアが連れて行った。もう戻らない。この落とし前はつけさせる。


 そして――あたしは侠客ヤクザだ。


 勿論、帝国にも、この落とし前をつけてもらう。もうやめて下さいって泣きを入れても許さない。


「……そうだろう、ディ?」


 時に、ヤクザはヤクザらしく、だ。


 あたしは女王蜂クイーン・ビー。もう振り返らない。ヤクザらしくこの道を行く。


 でも、暗夜……


 あいつだけだ。あいつだけは特別だ。あいつだけが、あたしを振り向かせる事が出来る。


 こればっかりは惚れた弱味ってヤツだからしょうがない。尤も……もう死んじまったから、あたしに弱味はないって事になる。


「エヴァ……とことんやるよ……」


 本当、全部、夢なら良かったのにねえ……


◇◇


 最悪な日に生まれた者は、最悪な日も心地好く感じるだろう。


《アスクラピア》の言葉より。


◇◇

Special thanks!


読了、お疲れ様でした。

これにて閑話終了です。

ここまでで、ブックマークや評価などして頂けると大変励みになります。よろしくお願いいたします。


第四部 青年期『使徒』編にてまた会いましょう! それでは!

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― 新着の感想 ―
[良い点] なにか一つ違えば彼らのこのバッドエンドはさけられたんだろうな。 一つ慎重になれば、優先順位を見誤らなければ、少し冷静になれば、あとちょっと諦めが悪ければ 似てるようでそれぞれが違った道を…
[良い点] ゲーテの埋め込み方
[良い点] ペナルティを犯してまで仲間を守りに来る暗夜、誰よりも愛深き男過ぎて惚れます。人間を辞めて尚人間であろうとするその性質、信仰する神にあまりにも近い、、、白蛇が危惧するのもわかる。 本当によく…
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