オリュンポスにて
ディートハルト・ベッカー……『暗夜』の作成したワクチンにより、天然痘の危機が去りつつあるアクアディの街。
アレクサンドラ・ギルブレスとアネット・バロアは神話種の討伐というクエストを最後に冒険者を引退し、以降は後進の育成の為、冒険者ギルドの教官としてギルドに留まっている。
クランハウス『オリュンポス』にて、深夜。
唐突に分厚い門戸が叩かれ、その招かれざる客人の姿に恐れ慄いた使用人に代わり、アレックスが返り血に塗れた教会騎士を出迎えた。
「……誰かと思ったら、あんたか……」
「はあい、アレックスさん。お久し振りですう!」
深夜。クランハウス『オリュンポス』を訪ねた招かれざる客の正体は……教会騎士、レネ・ロビン・シュナイダーだ。
「……」
アレックスは、血塗れのロビンの姿に眉間に皺を寄せ、険しい表情を浮かべた。
「……誰にも見られてないだろうね……」
「はあい、お任せ下さあい」
「入りな」
素早くロビンをクランハウスの中に招き入れ、アレックスは短く溜め息を吐き出した。
「酷い格好だ。取り敢えず風呂の用意をさせる。綺麗にして来な。話はそれからだ」
「はあい、すみませぇん」
ヘラヘラと笑って答えるロビンに、以前のような『騎士』としての凛々しい佇まいはない。
ディートハルト・ベッカーにただ事ではない何かがあったのだ。
浴室にロビンを放り込んだ後、アレックスは使用人を通じてアネットとマリエールの二人を呼び出し、リビングの暖炉に再び火を入れて三人でロビンを待った。
寝ぼけ眼を擦りながら、アネットが小さく欠伸した。
「……何よ、アレックス。こんな夜更けに……教会騎士……? あぁ、ロビンとか言ってたわね。それがどうかしたの……?」
アレックスは深くソファに腰掛け、険しい表情で言った。
「……おそらくだけど、ディートが死んだ……」
「え……?」
アネットが眉をひそめ、マリエールは静かにアレックスに向き直る。
「……どういう事……?」
「詳しい事は分かんねえ。でも……いや、まぁ、あの教会騎士を見りゃ分かる」
ややあって――
怯える使用人に伴われ、ロビンが姿を現した。
「はあい、ロビンです。ご無沙汰しておりますう。皆さん、お元気ですかあ?」
何処までも陽気なロビンの様子に、アネットとマリエールは眉を寄せた。
『教会騎士』レネ・ロビン・シュナイダーは狂っていた。
ロビンは、にこやかに言った。
「実はあ、ディートさんが死んでしまいましてえ、今回は、そのご報告に参りましたあ」
「……」
ロビンの言葉にアレックスは額を押さえるようにして手を当て俯き、アネットは目を剥いた。
「ウソ! あいつ、殺したって死なないようなヤツじゃない!」
「そうでもありませぇん。暗夜ならともかくぅ、ディートさんは子供の身体でしたしぃ、呆気なく死んでしまいましたぁ」
「ヨル? はぁ? ちょっとちょっと、教会騎士。あんた、いったい何の話をしてんのよ!」
狂った者に、まともな話し合いは不可能だ。
ロビンは笑って答えた。
「暗夜はディートさんで、ディートさんは暗夜ですう」
「はぁ? あんた、いったい何を――」
そこで、『魔術師』マリエール・グランデが強くテーブルを叩いてアネットの言葉を遮った。
マリエールは深緑の瞳でロビンを見つめる。
「……ディートハルト・ベッカー……正体は稀人……中身だけが違う。『異世界人』……」
そこで、ロビンは笑って手を打った。
「流石、エルフ。賢いですねえ。その『瞳』も普通のものと違いますよねえ!」
純血種のエルフ、マリエール・グランデの瞳は『魔眼』と呼ばれるものだ。その瞳は対象の『魂』を見る事が出来る。そうではないかと思っていた。
「先生、死んだの……そう……」
「はぁい。私が間違えましたあ。奇妙な部屋に置き去りにしましたあ……!」
「奇妙な部屋?」
そこで、今度はアネットが激昂してテーブルを蹴飛ばした。
「教会騎士! それって何よ! あんたがディートを見殺しにしたみたいに聞こえるわ!!」
「はぁい。そう言ってますう」
「……!」
刹那、アネットは腰に手を伸ばしたが、夜着姿の腰には剣を差して居ない。あるべきものがない。
アレックスが静かに首を振った。
「待ちな、アネット。マリエールが話をしてるんだ。今は話を聞こう」
「……そうね」
目を細め、アネットは小さく舌打ちして頷いた。
◇◇
純血種のエルフ、マリエール・グランデは見た目こそ若いが、それはエルフという長い寿命を持つ種族特性によるものだ。その実年齢は二百才を超える。
そのマリエールと、狂ったロビンとの会話は長い時間続いた。
ロビンの話は取り留めなく、しばしば脱線したが、マリエールは時に分厚い本を持ち出し、時に辛抱強く話を聞いていた。
「……世界の多層化……?」
「はあい、暗夜は確かにそう言いましたあ」
「何もない空間……」
「はぁい。そこでアスクラピアにも会いましたぁ」
「……」
ロビンの話は不可解かつ難解だったが、マリエールは分厚い本を何冊も持ち出し、確かめるように調べ物をしながら深く考え込む様子で耳を傾けている。
長時間に及ぶ話が終わり……陽が昇る頃になって、マリエールは一つの結論に達した。
「……先生は死んだ……」
「はあい、最初からそう言ってますう」
「アスクラピアが連れて行った」
優秀な神官は早死にする事例が多い。ディートハルト・ベッカー……『暗夜』も多分に漏れず、早死にした。それが全てだ。
「まったく、しみったれた女ですう。容赦ありませんでしたあ」
「……そう」
ロビンの話が終わり、長い沈黙があった。
まず、アレックスが黙って席を立った。
「……どいつもこいつも……あたしを置いて行っちまう……」
その言葉は、豪放磊落を以て為る彼女をして失意に溢れる悲しげなものだった。
その場を去ろうとするアレックスに、ロビンが明るく言った。
「アレックスさん。私を殺してくれますかあ? 貴女になら、殺されても恥ずかしくありませぇん」
アレックスは立ち止まり、鼻で嘲笑った。
「冗談じゃない。仲間を殺すほど、あたしは落ちぶれてないんだ。他を当たりな……!」
長い沈黙の後、ロビンは力なく項垂れた。
「……そうですか……貴女なら、或いはと思いましたが……」
その言葉にだけは狂気を感じられず、アレックスは静かに首を振って、リビングの場を去った。
「……嫌ね、本当……」
アネットは泣いていた。
「あいつって、スッゴい怖いとこあったけど、スッゴく優しかったじゃん。私を診る時とか、滅茶苦茶真剣でさ……二言目には、すぐ大丈夫か、大丈夫かって……ヤんなっちゃう……」
「……すみません。アネットさん……」
そう言って項垂れるロビンは、少なくともアネットの目には正気に見えた。
「いいのよ。あんたのせいじゃない。私でも間違えたと思う」
「……慰めは全て卑劣です。同情しないで下さい……」
「教会騎士……そんな寂しい事、言わないでよ。いつでも来なさいよね……」
その言葉に、ロビンは目尻を下げて泣きそうな顔になった。
アネットは改めて言った。
「……そんで、教会騎士。いや、ロビン。あんたは、これからどうすんのよ」
「……!」
そこで、パッと顔を上げたロビンの顔には、再び狂気があった。
「そうそう! 今、教会騎士を殺して回っているんです。結構、生き残りが居るんですよ!」
狂った狼の当為は終わらない。誰にも止める事は出来ない。アネットはドン引きだった。
「そ、そう……あんたも大変ね……」
「はぁい! それじゃ、アネットさん、また会いましょう!!」
にこやかにそう言って、狂った狼の騎士はオリュンポスを去った。
主の仇討ちという当為が終わった時……その時、レネ・ロビン・シュナイダーという騎士は自らを終わらせるのだろう。
そして――マリエール・グランデは、癌治療を止めた。
◇◇
――六年後。
怒りに震える黒髪の神官と一人の修道女が、オリュンポスの門戸の前に並んで立ち尽くしている。
その客に応対したのはアレックスだ。
男が怒りに震える声で言った。
「おい、筋肉ダルマ。酒臭いぞ。俺の親父は飲んだくれでな……俺は酒と呑兵衛が死ぬほど嫌いなんだ……!」
「あぁ……んだ、テメー。いきなりやって来て、あたしに喧嘩売ってんのか? おん?」
黒髪の男は、今はもう珍しい黒い神官服を着ている。襟章はなし。何処の寺院や教会にも所属しない野良神官だ。
黒髪の男は、ハッとしたように背後の女性に振り返った。
「なあ、エミーリア。今、俺はなんて言った……? 親父は飲んだくれって言わなかったか?」
「言ったね。確かにそう言ったよ」
「忘れん内に、メモしておいてくれないか?」
修道女の方は……珍しい修道服を着ている。日輪を背負う帝国のものでなければ、他の寺院のものでもない。古い時代のものだ。
エミーリアと呼ばれた修道女は、メモを取りながら、唄うように言った。
「暗夜曰く、俺の親父は飲んだくれ。暗夜曰く、俺の親父は飲んだくれ」
「繰り返さんでいい」
男が言った。
「俺は暗夜。切れぬ縁により参上した。ここに治療を放棄した悪い患者がいるな? 死なんうちに、そいつはもらって行くぞ」
願わくば……夜空に流れる銀の星が、新たな運命を指し示しますように……
アスクラピアの戯れる指先が、新しい運命を回している。