悪魔祓いの少女2
「ぶーん♪」
両手を水平に伸ばし、銀髪の少年が天幕の中を駆け回っている。
白蛇が疲れたように言った。
「……ディ、それは……いったいなんだ……?」
その問いに対し、『ディ』と呼ばれた銀髪の少年は元気よく答えた。
「飛行機! 空を飛ぶんだ!」
「ヒコーキ? 暗夜の知識か……?」
白蛇は体調が優れないのかよろめき、その腰をキサラギが気遣わしげに支えている。
「……」
ゾイは目を剥いた。
……誰だ、こいつ……
目の前の少年は、確かにディだ。でも、ゾイが好きなディじゃない。男を感じさせるディじゃない。ただの……子供だ。
ルシールが、震える唇で言った。
「……誰です? 中身が違う。ディートは何処ですか……?」
「ああ、暗夜さんの事ですね」
……暗夜。
ゾイには欠片も信じられない話だったが、ディの中に居たという『男』の名前だ。
「うそ……誰……?」
ゾイは大きなショックを受けた。
顔形は同じだが、まるで違う。ディじゃないディ。酷い冗談を見える形で押し付けられたような違和感がある。
ディは、あっけらかんと言った。
「暗夜さんは死にました。僕を連れて帰ってくれたのは、シュナイダーさんです」
ルシールは、一瞬、脱け殻のようになって茫然となった。
とてもでないが見ていられなくて、ゾイはディから目を逸らした。
白蛇が言った「ディは死んだ」という言葉は出鱈目だと思っていた。酷い勘違いをしているに違いないと思っていた。それが……
「シュナイダー!」
ルシールは金切り声で叫んだかと思うと、シュナイダーが休んでいるという天幕に恐ろしい剣幕で突っ込んだ。
そこでゾイが見た、レネ・ロビン・シュナイダーは狂っていた。
「ええ、はい。お義母さん。息子さんは、このロビンめにお任せ下さい。確かに承りました」
「……」
ベッドの上に座り込んだシュナイダーは、口元から涎を垂らしてニヤニヤ笑っている。
――完璧に狂っていた。
シュナイダーの事は嫌いだ。だが、ムセイオンにて五年鍛え抜かれた心身の強さを疑った事はない。そのシュナイダーをして、気が狂う程の何かがあったのだ。
……ディが死んだ……
頑固なドワーフであるゾイをして、その事実を認識せずにいられない。そこには過酷な現実があった。
ルシールは激昂して、シュナイダーの襟首を持ち上げた。
「シュナイダー! ディートは何処に行ったんです! 答えなさい!!」
「……ルシール?」
虚ろな目付きを宙にさ迷わせていたシュナイダーだったが、その目の焦点がルシールに定まる。
「ああ、ルシールですか。すみません。ディートさんは死にました。私の責任です。私が間違えました。見た目で勘違いしたんです。とんだ愚か者です。見抜く情報は山ほどあったのに、それでも間違えました。暗夜がディートさんの正体だったんです。愚か者の私は、暗夜に酷い事を言いました。二度と顔を見せるなとまで言ったんです。笑えますよね。最後、暗夜が見せた表情が忘れられません。あんなに悲しそうに笑うディートさんの顔は見た事もありません。私は暗夜を傷付けました。もう謝る事すら出来ません」
シュナイダーは一気に捲し立て、ケラケラと笑った。
アシタが気持ち悪そうに眉をひそめた。
「うわあ……ひでえ……完璧イッてるな……」
その侮辱とも取れるアシタの言葉にもシュナイダーは反応せず、今度はベッドの上に正座して真剣な顔になった。
「しかし、お義母さま。ロビンは青狼族なのです。人間である息子さんとの間には、非常に子供が出来づらいのです。勿論、ロビンは諦めません。数をこなす事でその問題は解決出来ると信じています」
「シュナイダー! さっきから何の話をしているんです! ディート! ディートを返しなさい!!」
「それが出来たら、苦労なんてしませんよ」
そして、シュナイダーはやっぱり笑う。その狂態を見て、ゾイは漸くディの死を理解した。
「嘘……ディが……ディ……」
そして、ゾイは、自分で思っていたよりもずっと、ディが好きだった自分に気付いた。残酷に撥ね付けられても、それでもゾイはディが好きだった。
ルシールが再びシュナイダーの襟首を持ち上げ、激しく叫んだ。
「シュナイダー! お前が! お前が代わりに死ねば良かったのに!!」
「はい。その通りです」
「ディートを返せ! ディートを返せぇえ!!」
「だから、それが出来たら苦労しないって言ってるじゃありませんか。本当にしつこいですね」
涎を垂らし、へらへらと笑って答えるシュナイダーの狂態に、ルシールの怒りが爆発した。
「シュナイダー! 殺してやる!」
「あっはっは。暗夜は、お前をクビにした筈ですよね。そんなお前に殺されてやる義理なんてありません」
そこから先は無茶苦茶だった。
半獣化したシュナイダーは、力任せにルシールを殴り付けた。殺さぬように、死なさぬように、執拗に殴り付けた。
「あぁ、ルシール。お前なら間違えなかったんでしょうね。ムカつきます。腹が立ちます。私は、お前が大嫌いです。ディートさんにお前を会わせた事を後悔しない日はありませんでした」
シュナイダーは丁寧にルシールを半殺しにした。術で癒せる程度の負傷に収めた。
「今度、また殴らせて下さい」
狼の獣人はしつこい。シュナイダーは本気で言っている。気が向けば、またルシールを殴りに来るだろう。何度でも殴りに来るだろう。
◇◇
その晩、疲れ切った白蛇から改めて説明があった。
「……お前らの知ってるディは死んだ。しみったれた女に連れて行かれた。もう戻らない……」
そう聞いて、激しく嗚咽を漏らして泣くルシールを、ゾイは茫然として見つめていた。
ゾイの好きだったディートハルト・ベッカーが死んだ。
優しくて残酷で、悲しくて潔い最期。それがディートハルト・ベッカー……『暗夜』という男の生きざまだった。
◇◇
身体の傷は治す事が出来る。しかし、心に負った傷。心が心に負わせた傷は治らない。
《アスクラピア》の言葉より。
◇◇
頑固なドワーフの少女の恋は鋼鉄で出来ている。全てを知って尚、その想いが変わる事はない。
賢い訳だ。強い訳だ。優しい訳だ。怖い訳だ。ディの中に居たのは、『暗夜』という大人の男だった。
……色っぽい訳だ……
ルシールもシュナイダーも少し異常だと思っていたが、その年齢に釣り合った男に恋していただけだった。
狂ったシュナイダーは姿を消し、暗夜の死にショックを受けたルシールは寝込んでしまった。
しかし……『ディートハルト・ベッカー』……『暗夜』という存在には大きな謎が付きまとう。
ゾイの足は、自然な形でディの天幕に向かった。
青い瞳のディートハルト・ベッカーだ。その瞳には聖痕が刻まれている。不吉な少年。
ゾイは、ルシールやシュナイダーのように取り乱さない自分を訝しく思った。ディ……暗夜が死んだという事実を認めて尚、冷静でいる自身を訝しく思った。
特殊クラス『悪魔祓い』。
暗い夜を行き、闇を祓う者は常に冷静でなければならない。暗夜の死を経て、ゾイは悪魔祓いのクラスを得ていた。その精神は『不惑』。道に迷う事はない。
だが、渇く。ゾイは強い渇きを感じている。
「……お酒、飲みたい……」
ドワーフはその鋼鉄の意思と酒豪で知られる種族だ。ゾイは生まれて初めての渇きを覚えた。
ディの天幕は賑やかで、中から子供のはしゃぐ声が聞こえる。ゾイには、それが酷く耳障りに感じた。
幌を捲って天幕の中に入ると、中ではグレタとカレンの姉妹が居て、ディと一緒に砂の地面に落書きして遊んでいた。
「……なにしてんの……」
「あ、ゾイさん。今、大神官さまと遊んでいたんです」
グレタもカレンも子供が好きだ。新しいディは姉妹のお気に召したようだったが……
ゾイは言った。
「……なにやってんだ、お前ら。誰の許可を得て、そんな事をやってんだよ……」
心が荒ぶる。ディはもう、ゾイの好きだったディじゃない。特殊クラス悪魔祓いの特性を得て尚、抑える事の出来ない激情が胸を焼く。
「お前……!」
ゾイは、ディートハルト・ベッカーを名乗る少年の襟首を捻り上げて叫んだ。
「お前、誰だ! お前、誰だ!! ディは何処だ! ディを何処にやった!!」
「ゾイさん!」
激情の迸りは一瞬。『不惑』が感情の波を浚って消えて行く。
「……」
必死で制止するグレタとカレンの姉妹を振り払い、ゾイは天を仰いで息を吐く。
落ち着きを取り戻し、視線を落とすと青い瞳のディートハルト・ベッカーは泣いていた。
「カッコわる……つまんない……こんなの、ディじゃない……」
それだけ言い残し、ゾイはディの天幕を出た。
「お酒、欲しい……」
酒は全てを押し流す良薬だ。
何もかもそれで忘れるに限る。悲しい恋は、特に……