『真なる子』(少年期最終話)
やがて、陽が落ちる。
ディートは一度も覚醒する事なく、固く目を閉じて眠り続けている。
夜明けまでもたない。
日中はロゼッタの影に隠れ、灼熱の太陽をやり過ごしたが、ディートの消耗はロビンのそれより激しい。十歳という年齢を考えれば、生きているのが不思議なぐらいだった。
「きしし……」
小さく笑い声を上げるロビンは、焦燥のあまり狂いかけていた。口元に歪んだ笑みを浮かべ、再び半獣化するとディートを抱えて死の砂漠を走り出した。
何処に向かっているのか。
――分からない。
「ディートさん……ディートさん……!」
涙は流れない。
灼熱の太陽で、涙はとうに枯れてしまった。死の砂漠では、如何なロビンといえど、あまり長くはもたない。
正気と狂気の狭間を、青い狼は駆け抜けて行く。
完全に陽が落ちてしまうと、死の砂漠に訪れるのは凍てつく夜だ。
極寒の夜がディートの体温を奪って行く。その命がロビンの手をすり抜けて行く。
「きししっ……!」
ロビンは狂いかけていた。
その狂いかけた頭で導き出した答えは……当てずっぽうに進んでも駄目だという事だ。
『超能力』には、他者の居場所を探る能力もある。『探し人』。
ロビンの超能力の修得は壊滅的だ。だが、言い訳は許されない。潜在能力の全てを出し切らねば、ディートは死ぬ。
発狂寸前のロビンの執念が、その能力の顕現を可能にした。
脳裏に描くのは、白髪、盲の男、白蛇。
足を止め、ロビンは狂いかけた頭で集中する。端から見れば、涎を垂らしたその顔からは正気の欠片も見受けられなかっただろう。
ロビンは呟いた。
『レオンハルト・ベッカーは、北西にいる』
そして、再び、今度は全速力でロビンは駆け出した。
しかし……とロビンはおかしくなりかけた頭で考える。
今、自分はなんと言った? 『レオンハルト・ベッカー』と言ったような気がする。
白蛇……『夜の傭兵団』の団長の名前をロビンは知らない。だが、『超能力』で探り当てた白蛇の名前は『レオンハルト・ベッカー』だ。
ロビンは笑った。
「きししっ……! きしししし……」
ディートは行方不明になった『兄』を探していた。
『ディートハルト・ベッカー』と『レオンハルト・ベッカー』は兄弟だ。ロビンが調べ上げたディートの素性ではそうなっている。
レオンハルト・ベッカー。
アスクラピアの本神殿のあるニーダーサクソンのエミーリア騎士団の元少佐。『白蛇』の年恰好は、生きていれば三十歳ぐらいになると言っていたディートの言葉とも合致する。
弟は兄を探し求め、兄はその弟の命を救う為に待っている。アスクラピアの導く運命のなんと数奇な事か。
間に合う。間に合わせる。狼人は執念深い。決して諦めるという事を知らない。
そのロビンの目に、煌々と輝く篝火が映る。
「きしししし……!」
夜の傭兵団だ。白蛇……レオンハルト・ベッカーがいる。そして、時刻は夜。白蛇は起きてロビンを、青い狼の女を待っている。
ディートは、まだ生きている。間に合ったのだ。
煌々と輝く篝火の固まりから、数騎の騎影が飛び出して、ロビンの元へ駆けて来る。
先頭を駆る騎士は、白髪、盲の男だ。
夜空に輝く満天の星の下で、遂に兄と弟とが邂逅する。
ロビンの目の前で馬の手綱を引き絞り、レオンハルト・ベッカーは言った。
「よくやった。青い狼の女。後は任せろ」
「……」
そこでロビンは力尽き、その場に倒れ込む。全ての潜在能力を出し切った。正気すら失いかけ、辿り着いたのだ。
◇◇
気が付くと、ロビンは、一寸先も見えない闇の中に立っていた。
「……まさか、間に合うとはな……」
そして、虚無の闇の中から、黒髪に黒い瞳。黒い神官服の男が現れる。
ロビンは眉間に皺を寄せた。
「あぁ、暗夜。お前ですか……」
暗夜は微笑んでいる。ロビンは皮肉の一つも言ってやりたかったが、何故かその言葉が口から出ない。
暗夜は気取った仕草で頭を垂れる。
「……奇妙な部屋へ、ようこそ……」
「えぇ……はい……」
暗夜は懐かしむように言った。
「なぁ、ロビン。お前とは、喧嘩ばかりだったなあ……」
「暗夜……何を……」
暗夜は以前から知っているように言うが、ロビンは『暗夜』という男を知らない。
暗夜は微笑んでいる。
「……お袋が死んでからは、誰にも舐められないように突っ張って生きて来た……」
「暗夜……お前の事には興味ないんですよ。私はディートさんの下へ帰りたい。帰して下さい」
「……分かった」
ロビンは、どうしても、この残酷で正しい男が好きになれない。言った。
「暗夜、もう私を呼び出さないで下さい。二度とお前の顔は見たくありません」
暫しの沈黙を挟み、暗夜は頷いた。
「……………………分かった」
暗夜は微笑んでいる。酷く悲しそうな笑顔だった。
「……な、なんで、そんな顔をするんですか……?」
「……」
暗夜は答えない。
その返事代わりという訳でもないだろうが、パチンと指を鳴らすと、その隣に銀髪の少年が現れた。
「ディートさん!」
ディートは固く目を閉じていて、その場に倒れ込む。
「……」
暗夜は黙っていて、そのディートに駆け寄るロビンを見つめていた。
「ディートさん……ディートさん……!」
「大丈夫。じきに目を覚ます」
その言葉に視線を上げると、ロビンは、暗夜の周囲に無数の戦乙女が立ち尽くしている事に気付いた。
暗夜は言った。
「……なあ、ロビン。俺は戦った。戦い抜いた。『お前は、よくやった』と言ってくれないか……?」
それは、戦士の最期に手向ける言葉だ。
「何を……」
ロビンは胸の中の主ではなく、寂しそうに微笑う暗夜の姿から目を離せずにいる。
「……帰れるのは、一人だけだ……」
「……」
お前はよくやった。ロビンは、その言葉を吐き出せずにいる。
暗夜は残念そうに首を振った。
「……もう時間だ……」
虚無の闇の中、神官服の裾を翻す暗夜に、ロビンは宙を掻くように手を伸ばす。
「ちょ、待っ、暗夜……」
最後に、暗夜は言った。
「……白蛇に伝えておいてくれ。借りは返したとな……」
「暗夜!」
酷い間違いを犯しているような気がして、ロビンは叫んだ。
「待って! 待って下さい! 暗夜!!」
その刹那。虚無の闇から伸びて来た巨大な青白い手が暗夜の姿を毟り取った。
「よ、る……」
ロビンは呆然として、暗夜の最後を見送った。
「暗夜……!」
この瞬間、『暗夜』という男の存在は消え去った。母の手が全てを奪い取ったのだ。
「……」
ロビンは、固くディートを抱き寄せた。何故か唇まで震える。恐ろしい間違いを犯したような気がしてならない。
無数に立ち尽くしていた戦乙女たちが、一体、また一体と姿を消して行く。
「…………」
後に残るは静寂のみだ。
◇◇
人は、愛するところの者だけを知る。
《アスクラピア》の言葉より。
◇◇
目を覚まして、ロビンは両の掌を穴が開くほど見つめた。
酷かった日焼けの痕も、すっかり癒えていて、白蛇が癒してくれた事は理解できる。
「……」
ベッドから身体を起こすと、そこは大きな天幕の中だった。
天幕の中央では、白髪の男に、銀髪の少年が抱き着いていた。
銀髪の少年が呟くように言った。
「兄さん、会いたかった……」
「……」
白髪の男は答えない。小さく頷いただけだ。その表情が酷く険しいものに見えるのは……ロビンの気のせいだろうか。
それから、銀髪の少年は両手を水平に伸ばし、天幕の中を踊るように駆けた。
「ぶーん♪」
「……」
白髪、盲の男……白蛇は疲れたように顔を拭った。
銀髪の少年が言った。
「……すごい力だ。これが……」
ロビンは、口の中に湧き出した生唾を飲み込んだ。酷い間違いを犯したような気がしてならない。
銀髪の少年……ディートがロビンに向き直る。
「……ディートさん……?」
「はい。ああ……シュナイダーさん。初めましてと言うべきでしょうね」
ロビンを見つめる青い瞳には、聖痕が浮かび上がっている。
少年は薄く嗤った。
それから、芝居掛かった仕草で何度も咳払いした。
「えぇっと……彼なら、こう言うと思いますので、言いますね?」
「……」
ロビンは呆然として、かつて彼女の主であった少年を見つめる。
ディートハルト・ベッカーは残酷に言った。
「お前は間違えたんだよ、マヌケ」
――帰れるのは、一人だけだ。
犯した過ちに唇まで震える。
ここに居るのは『誰』だ? レネ・ロビン・シュナイダーは、奇妙な部屋から誰を連れ帰ったのだ。
ロビンの精神は崩壊した。
◇◇
人はそれぞれ特性を持っていて、そこから脱却する事が出来ない。そして、その特性故に破滅する事が珍しくない。それは善であれ悪であれ、なんら変わる所はない。
《アスクラピア》の言葉より。
◇◇
読了、お疲れ様でした!
『アスクラピアの子』は、これにて全体プロットの大きな折り返しに入ります。第四部青年期にて、また会いましょう。
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