青い狼の女13
暗夜は口汚く言った。
「馬鹿め、身一つで飛び出すヤツがあるか。妖精族の女に応急処置ぐらいさせればよかったんだ」
互いの姿を除き、何もない虚無の中で、ロビンは眉間に険しい皺を寄せて暗夜の話を聞いている。
「『神官殺し』か。僅かに急所を外してあるが、危ないな……俺なら動かさん。その場で処置する」
その暗夜の言葉を、ロビンは鼻で嘲笑った。
「そうですね、暗夜。貴方が居れば良かった」
暗夜は呆れたように短い溜め息を吐き、古ぼけた椅子に深く腰掛けた。
「なあ、ロビン。俺は嫌味を言ってるんじゃないんだよ。真面目な話をしてるんだ」
「そうですか」
一方のロビンは気のない素振りで視線を逸らす。暗夜は益々呆れたように首を振った。
「移動中の振動で傷口が広がっている。今すぐ処置しろ」
「……処置? 私が……?」
「お前以外に誰が居る。さっさとやらんとガキが死ぬぞ」
正体不明の男『暗夜』。
黒い瞳。黒い髪。そして、襟章のない黒い神官服。この奇妙な部屋に留まり続ける以上、高位の神官である事だけは間違いないが……尊大な態度は頂けない。
ロビンは牙を剥いて叫んだ。
「ディートさんを、そこらの子供扱いするな!」
そのロビンの剣幕に、暗夜は、うんざりしたように言った。
「やかましい。愚か者め」
「暗夜、お前に偉そうにされる筋合いはないんですよ。私は白蛇の居る場所を目指している。好き勝手に呼び出すな……!」
「だから……」
暗夜は大きく溜め息を吐き、今度は疲れたように言った。
「『神官殺し』は、心臓の大血管の近くを通っている。お前の移動は素早く繊細だが、それでも無振動という訳じゃない。そのまま進めば、白蛇の下に辿り着く前にディートは死ぬ。それでいいのか……?」
「え……?」
「問題は、それだけじゃない。そもそも、白蛇のヤツは何処に居る? この広大な死の砂漠に宛もなく飛び出したお前の行動は、無謀以外の何物でもない」
「……」
「頭を冷やせ。獣化を解け。そして、『処置』しろ。白蛇は一日の半分を眠って過ごしている。昼間は『ロゼッタ』の影で身体を休めろ」
白蛇……『夜の傭兵団』の頭目だ。ロビンの知る限りではあるが、一日の半分を眠って過ごしている。真偽の程は定かではないが、なんでも『夜』だけしか起きてない。だからこそ彼の率いる傭兵団は『夜の傭兵団』と呼ばれている。
「白蛇は……あいつは、母にその半分を召し上げられている。分かるか?」
半分を母に召し上げられているというのは、『半分死んでいる』と置き換えてもいい。つまり、白蛇の癒しを受けられる時間帯は夜に限られる。
そこで、ロビンの視線が不安に揺れるのを見て、暗夜は気分悪そうに鼻を鳴らした。
「……お前が間に合う可能性は、限りなくゼロだ……ディートは死ぬ」
「う、嘘だッ! ディートさんは死なない! 私が死なせない!!」
暗夜は何度も首を振った。
「覚悟だけで物事が上手く行くのなら、世の中は、もっと幸福に満ち溢れていただろうな」
「よ、暗夜……わ、私は、どうすれば……」
「……」
暗夜は難しい表情で目を閉じ、眉間に手を当てて深く考え込むような仕草で黙り込んだ。
ややあって、言った。
「……まず、獣化を解け。そいつは消耗が激しい。フランキーとジナを待てと言いたいが、もう間に合わん。『神官殺し』を、やや左に押し込んで身体を貫通させろ。それ以上、傷口が広がると夜を待たずに失血死するぞ。それから――」
「えっ、ちょ、待っ……! 身体に押し込むって――」
暗夜は、出血を防ぐ為に『神官殺し』を、もっと深くディートに突き刺せと言っている。
ロビンは唇を震わせた。
「そ、そんな事、出来ない……!」
暗夜は冷たく言った。
「やれ。それが最低条件だ」
「よ、暗夜。貴方が……」
「母の許可がない。俺はここから動けん。お前がやるしかないんだよ」
ロビンの想像では『暗夜』の正体は、過去、母に召し上げられた高位神官だ。その『現し身』は既に現世になく、死んでいるものと思われた。
「……」
暗夜は眉間に険しい皺を寄せて、酷く難しい表情をしている。
「……ロビン、全てを出せ。綺麗も汚いもない。母は、お前のする事を見守っている……」
「……」
「ディートから、神官服を剥ぎ取れ」
「え……なんで……」
暗夜は忌々しそうに言った。
「馬鹿め、その身一つで飛び出した自身を呪え。その神官服で、お前自身を灼熱の太陽から守るんだよ」
「……」
死の砂漠は広大だ。日中は『ロゼッタ』の影に隠れたとしても、それはディートだけだ。
死の砂漠に転がる石の真球『ロゼッタ』は、そこまで大きくない。灼熱の太陽は、ロビンの身体を容赦なく焼くだろう。そうなれば、ディートより先にロビンが力尽きる。ディートから神官服を剥ぎ取って己を守れと言う暗夜の言葉は、残酷だが正しい。
ロビンは、身も蓋もなく泣き出した。
「……よ、暗夜、そんな事、わ、私に出来る訳がありませんよ……」
「泣くな。鬱陶しい」
暗夜は冷たく言って、煙草を咥えた。
「戻れ……」
紫煙を吐き出しながら、暗夜は興味を失ったように指を鳴らした。
「ちょ、待っ、暗夜――!」
そして――
◇◇
ザールランドの国境を超え、死の砂漠にて。
全てを焼き尽くす灼熱の太陽が、ぎらぎらと空に輝いている。
そして、死の砂漠には、点々と巨大な石の真球『ロゼッタ』が転がっている。
獣化の際、甲冑と衣服は破れ落ちた。ロビンは裸で、灼熱の太陽から身を庇うものは何もない。
「……」
砂混じりの風が吹き抜け、獣化を解いたロビンの髪を揺らし、灼熱の陽光が身体を焼く。
灼熱の太陽は容赦なくロビンの身体を焼き、瞬く間に赤く腫れ上がり、陽に焼けた皮膚が捲れ上がる。暗夜の言う通り、このままではロビンは夜を待たずして力尽きるだろう。
「おお、神よ……」
ロビンは神に祈りを捧げるのと同時に、この試練を与えた神を激しく憎んだ。
死の砂漠に転がる巨大な石の真球『ロゼッタ』の影に身を隠しながら、ロビンはその罪深さに恐れ慄く。
獣化を解かなければ、青い狼の毛皮で陽光からは身を守れるが、体力が続かない。
暗夜の言う事は、何処までも残酷で正しかった。
何も考えてはいけない。考えれば手が止まる。ロゼッタの影でディートの身体から神官服を剥ぎ取り、ロビンは血に塗れた神官服を肩に掛ける。
ロゼッタの影にあって尚、高温の空気がディートとロビンの身体を焼く。
ディートは固く目を閉じ、早く浅い呼吸を繰り返していた。
左胸……少し心臓を逸れた場所に突き立っている『神官殺し』の傷口からは、じわじわと出血が続いていて、一向に止まる気配がない。
暗夜の言う通り『処置』しなければ、夜を待たずに死ぬだろう。
何も考えてはいけない。
ロビンは、祈る事をやめた。
ディートに、こんなにも残酷な試練を課した神が憎かった。
ぼろぼろと涙が溢れる。
アスクラピアは残酷だ。助ける為に、ロビンはディートをより深く刺さねばならない。
「……っ!」
半ば気が狂いそうになりながら、ロビンは『神官殺し』の柄をディートの左胸に押し込んだ。
純鉄の短剣が幼い肉を裂き、ごきんと骨を断つ音がして――ディートの口から、ごぽっと音がして新しい血が吐き出された。
発狂しかけたロビンの口元に、つっと涎の筋が伝う。
ロビンは、忌々しそうにしていた暗夜の心中を嫌と言うほど思い知った。愚か者と口汚く罵った理由を、痛いほど理解した。
そして、ロビンはディートの傷口を舐め始める。
――『治癒』。
得意な者なら、手を翳す事である程度の傷の回復が望める能力だが、五年の修行期間を経て、ロビンの超能力の修得は壊滅的だった。『犬』のように舐める事で、それでも尚、弱い回復効果しか持たないこの能力を、狼人のロビンは死んでも使うつもりがなかったが、役に立たないプライドは、それこそ犬に食わせてしまうべきだった。
『……ロビン、全てを出せ。綺麗も汚いもない。母は、お前のする事を見守っている……』
暗夜の指示は正しい。
だが、ロビンはアスクラピアを呪うのと同時に、残酷な暗夜の事を激しく憎んだ。
狼人のプライドを捨てた事が憎かった訳じゃない。
レネ・ロビン・シュナイダーは、一人の人間として、正しくも残酷な暗夜を憎んでいた。