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アスクラピアの子  作者: ピジョン
幕間 青い狼の女
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青い狼の女12

 やしきの前で膝を折る全ての教会騎士が、ディートの語る言葉に耳を澄まして傾聴している。


 まず、ディートは聖女の存在を邪悪な人間が造り出した正体不明の『何か』と評した。


 そして、その聖女の存在は、教会騎士の間でも囁かれていたように信仰の在処ありかとするには疑わしい存在だった。


 目敏い者は、その聖女の前から姿を消すなり、このザールランドから出て行くなりした。


 それでも頑なに寺院に残り、聖女の下で戦った全ての教会騎士が逆印の咎を受けた。


 ディートハルト・ベッカーは言った。


「『アスクラピアの子』は、力を貸与されただけの人間に過ぎない」


 神官とは――


「まず、五戒あり。『慈悲』『慈愛』『公正』『無欲』『奉仕』。それぞれ人が人らしく生きる為に必要なものだ」


 ロビンたちの信仰する母は――癒しと復讐の女神『アスクラピア』は、人間そのものを愛した。


 そこには、『神』の大いなる慈悲と慈愛がある。


「俺たちは、自らを厳しく律する事で力を維持している。そして、道徳的である事を止める時、俺たちは力を失う。そうして大司教コルネリウス・ジャッジは神官としての力を失った」


 『焼き付け』の邪法により、『ことわり』を弄んだコルネリウス・ジャッジはとうの昔に神官としての力を失っており、アスクラピアはこれを見放していた。


 彼らの仕えた『寺院』のトップがこの有り様だ。そして造られた聖女に至っては――ディートはこれを『偽神』と例えた。


「…………」


 全ての教会騎士は膝を折り、力なく項垂れてディートの話を聞いている。


 そもそも、『教会騎士』は、何故、『アスクラピア』を信仰するのか。復讐と癒しを司るこの神は、時に『邪神』と呼ばれる事もある。だが、そこには人の心がある。綺麗も汚いもない。彼らが『母』と呼び信仰する存在には『心』があるのだ。


 『アスクラピアの子』、ディートハルト・ベッカーは、何処まで行っても『人の子』なのだ。


 『心』を持った『人の子』なのだ。


 ロビンを含めた教会騎士たちが信仰する神は、その『心』を持った『人の子』を愛したのだ。


 だからこそ、『公正』を欠いたディートの行いを赦した。犯した過ちすら愛された。戒律を破って尚、ディートの力は一分子も損なわれていない。


 まず五つの戒めがある。だが、何よりも人間であれ。教会騎士たちにとって、これぞ『真なる子』の姿だった。


 マクシミリアン・ファーガソンは力なく項垂れ、ディートの言葉を聞いていた。


「我らは……これから、どうすれば……」


 ロビンは首を振った。

 一つボタンを掛け違えただけだ。絶望するマックスの姿は、もう一人のロビンの姿でもあった。ほんの少し違えば、マックスとロビンの立場は逆のものだったろう。


 ディートは厳しく言った。


「知るか。子供ならともかく、お前たちは大人だろう。自分の事は自分で考えて決めろ。母は、お前たちに逆印の咎を負わせたが、命までは取らなかった。その事に深く感謝して、残りの生を送るといい」


 この厳しさも、アスクラピアの『神』たる所以ゆえんだ。だが、同時に救いでもある。


 逆印を受けた者は、ある意味では『自由』になったと考える事もできる。『神』の力の届かぬ場所で生きて行く。己の足で立って歩け、己の力のみで生きて行け。そこに『神』の言葉は必要ない。


 ……或いは、これこそが、アスクラピアの……いや、ディートの本心なのかも知れない。


「…………」


 ロビンは、遠い目で己の主を見つめる。


 己の足で立ち、己の頭で考え、己の道を力強く生きて行く。アスクラピアは力を貸すだけだ。そこにアスクラピアの神性があり、そこに信仰が生まれる。


 ロビンは漠然とディートの言葉を思い出していた。



『……しかしだ。我らの上には永遠の希望と使命とが輝いている。


 即ち……光と精神と……


 それゆえ、迷える時、仲違いの内にあっても理解が可能だ……』



 今は道の別れた仲間たちだが、いずれこの道が交わる時があるのだろうか。



『……裁きと憎しみでなく、忍耐強い信仰が……信仰する忍耐が我等を神聖な目的に近付け……頭上に輝く清らかな銀の星が――』



 だが、そこで、マクシミリアン・ファーガソンが、ゆらりと幽鬼のように立ち上がった。


「……?」


 殺意も敵意も感じさせない、ごく自然な動作だった。マックスを『間合い』に入れてしまったのはそのせいだ。


 そのマックスの手に『純鉄』の短剣が閃く。『神官殺し』。


 いくら優秀とはいえ、ディートはまだ十歳の子供だ。簡単にマックスを『間合い』に招き入れ……


 その瞬間、抜け目ない筈のハイエナ種の獣人が間抜けな声を上げた。


「あ!」


 ロビンの目には、マックスがディートに抱き着いただけにしか見えなかった。


「あ!」


 続けて、警戒心だけは強い馬鹿な犬人が目を剥いた。


 マックスは震える声で言った。


「……確かに貴方は本物だ。だからこそ、許せない……」


「……」


 ディートは、己の胸に突き立った短剣を見下ろし、それから意外そうにマックスを見た。


 超能力を持つロビンには、その瞬間が酷くゆったりとしたものに見えた。


 その場に膝を着いたディートは、がっと赤い血を吐き出して倒れた。


 世界から音が消え去り、倒れ込んだディートは動かなくなった。

 ロビンは叫んだ。


「あーーっ! あーーっ!!」


 ディートの胸を貫いた短剣は、僅かに急所を逸れているが、致命傷である事は間違いない。

 態とだ。マックスはディートを苦しめる為、態と僅かに急所を逸らしたのだ。


「ディートさん! ディートさん!!」


 ロビンは身体中の血が逆流する音を聞いたように思った。

 凶行に走ったマックスは嘲笑っている。


「レネ! お前が悪いんだ! どうだ! 思い知ったか!!」


 もう一人の自分。ほんの少しだけ、ボタンを掛け違えた。


「マクシミリアン・ファーガソン!」


 ロビンの世界が赤く染まる。倒れ込んだディートの身体からたちまち血が溢れ出して地を染める。


 裏切者のそしりを受けて尚、仲間だと思っていた。本当の家族などより、よっぽど信頼の置ける相手だと思っていた。裏切りの代償として、己の命を差し出していいとすら思っていた。

 この瞬間までは。

 青い狼の血が目を覚ます。限界を超えた怒りがロビンに眠る獣性を叩き起こしたのだ。


 強固な甲冑を突き破り、荒縄のような筋肉が全身に浮かび上がって体積を増す。身体が熱い。まるで火を噴きそうだ。


「グオオッ! グオオオオオッ!!」


 がきん、ごきん、と音を立てて体格が変わる。鋭い牙が伸び、やはり伸びた鋭い爪が剥き出しになる。


 この瞬間、レネ・ロビン・シュナイダーは人である事をやめたのだ。時間は間延びしたように流れていると思ったが違う。目覚めた青い狼の血がそう感じさせる。『限定解除リミット・ブレイク』。超感覚の発現だった。

 実際にはロビンの獣化は瞬時のもので、次の瞬間には嘲笑うマックスに飛び掛かった。


 ロビンは、右手でマックスの頭を掴み、身体から引き抜いた。


 脊椎ごと引き抜き、驚愕に染まるマックスの顔を爪で引き裂くと、それは空中で爆散して血煙を上げた。


 狼人は執拗で執念深い。その場に残ったマックスの身体をズタズタに引き裂いて、ロビンは力の限り吼えた。


「グオオッ! グオオオオオオオオオッ!!」


 こうして、教会騎士マクシミリアン・ファーガソンは原型を留めず死んだ。

 だが――復讐を終えて尚、それでもロビンは止まらない。

 瞬き程の間を置かず、続けて他の教会騎士たちに襲い掛かった。

 理性のようなものは殆どない。ただその血の本能に導かれるまま殺す。誰も生かして帰さない。フランキーとジナが死なずに済んだのは、倒れたディートの側に居たからだ。それ以外の理由などない。


 その殺戮の半ば、やしきからルシールら七人の修道女シスタが飛び出して来た。


 ディートが意識を失い、召喚された戦乙女ヴァルキュリアが消えた事で拘束が解かれたのだ。異変を察知したルシールの素早い行動だった。


 辺り一面、血の赤に濡れた周囲の惨状に直面し、ルシールが硬直して目を見開く。


 巨大な青い狼と化したロビンと目が合う。


「……シュナイダー卿……?」


 どうでもいい。ロビンは理性ではなく本能でそう考える。今は優先すべき事がある。

 強く身震いして、ロビンは咆哮した。


「ガアアッ! ガアアアアアアッ!!」


 がきん、ごきん、と音を立てて再びロビンの骨格が変化する。


 二本の足で立ち、その全身が煌めく青い狼の毛で覆われている。『半獣化』。半ば力が損なわれるが、半ば理性を取り戻す。

 ロビンは低い声で呻いた。


「……る、しーる……」


 半分は獣。半分は人間。その声は酷くしゃがれていて聞き取る事すら難しい。


 レネ・ロビン・シュナイダーは、ディートハルト・ベッカーの唯一無二の騎士だ。

 だから――

 ディートが言っただろう言葉を言った。


「……ルシール。お前はクビだ……!」


 妖精族の血を引く悪戯好きの女。青狼族のロビンが本能的にルシールを好いた事は一度もない。


 その次の瞬間には、ロビンはディートを抱き抱え、高く跳躍してやしきの壁を飛び越えた。


 向かう場所は一つ。『死の砂漠』。そこで運命を待つと言った男の居る場所だ。


 砂混じりの熱い風が吹き抜ける中、青い狼はディートを抱いて石畳の路地を駆け抜けて行く。


 その後をフランキーとジナが付いて来るが、見る見る内に距離が離れて行く。


 その姿も消え去り――


 アスクラピアの子……『人の子』が運命に抗うなら、ロビンの行いもまた運命の内だ。


 死神アスクラピアに、ディートハルト・ベッカーは渡さない。


 青い狼は砂塵を巻き上げ、全ての光景を置き去りにして駆け抜けて行く。

 そして、まだ。

 灼熱の砂漠で待ち受ける運命を知らずにいる。

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― 新着の感想 ―
[一言] こういう人間はいる。ロビンは好きになれない。だけど物語は面白いと思ってしまう。
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